第2話 誘い

 経年劣化で茶色く変色した大型図書を書見台に慎重に置く。その前の丸椅子に、老年に差し掛かった年ごろの紳士がうきうきと座る。

 彼は国立国民議会図書館ポンパドーラに通う大学教授。話し好きな人なので館員の中でも有名だ。みんな、彼を「先生」と読んでいる。


「いつもすまないね。僕が閲覧申請をするたびに君が持ってきてくれるよね」

「全部ではありませんが、申請処理が私の担当になることが多いので。特に先生は貴重書ばかり申請されるので、もうほとんど専用担当がついているようなものですよ」

「それはいい。常連ならではの特別感があるね。このまま行ったら閲覧申請ももっと通るようになるのかな」

「どうなんでしょうね。申請を通すかは私の一存だけで決められないことですから」


 少なくとも定められたガイドラインに抵触する書籍は閲覧不可になったりすることがある。いわゆる発禁本の類は現代でのハードルはずいぶん低くなったが、それでも保存の観点から閲覧を禁止するというものもある。

 今回申請された貴重書も、館員立会いの元のみ閲覧できるという指定が付けられているぐらいだ。


「今日の閉館は午後七時だったかな」

「はい。それまでは閲覧可能ですね。閲覧申込みも少なかったので、この閲覧室も閉館まで使用できますよ」

「ますますいいね」


 彼はガラス張りの特別閲覧室を見回した。小会議室ほどの大きさであるが、研究調査には十分な広さを確保している。

 先生は白い手袋をはめ、書見台の本を真剣な眼差しでめくる。時々、鉛筆でメモ等を取る。すぐに物事に没頭できるのは、研究者の習性だ。

 端の丸椅子に座り、静かに先生の調査を見守る。これも館員の仕事である。この間、見守るほかに仕事がない。

 すると、手持ち無沙汰な私に先生が一枚のチラシを差し出した。


「今度、『マリー=テレーズ女王』をテーマにしたシンポジウムをやるんだよ。君も来るといい」

「シンポジウムですか?」

「そう。うちの大学でね。今大学は長期休暇中だからなかなか学生が集まりにくくてね。来てくれると助かるよ」

「先生も発表されるのですか?」

「そうだよ。僕は最後。前半はうちの学生も発表する。しっかりしたものではなくて、比較的カジュアルな学会なんだ」

「興味深いですね。考えておきます」

「そうしてくれ。結構面白いと思うよ。僕はね、長年マリー=テレーズ女王とその周辺に着目して研究している。有意義だと思うよ」


 先生はテーブルの上に鉛筆を放り出し、椅子の背もたれに体重を預ける。鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡の奥に、少年の瞳があった。


「今から三百年前のことだ。この国は女王の治世下にあった。名前はマリー=テレーズ。国王の姪という立場の彼女が本来なら即位するはずもないのだが、流行り病で国王と王太子を亡くし、宰相ウズルー枢機卿に見いだされ、やむなく王位を継承した。彼女の生きた時代はまさに時代の裂け目だね。彼女の死で王朝交代が行われた。議会の力が強くなり、彼女の次代では世界に先駆けて立憲君主制が成立した。前後の時代の華々しさのせいか、あまり注目されないけれど、文化的にも政治的にも恵まれているんだ。特に宮廷文化はね。特に魅了されるのは、女王と《円卓の騎士たち》の存在だ。女王の周囲に侍った彼らと女王との間にあった、切ない悲恋のような逸話だ。火種のないところに煙は立たない。いつかあの物語たちの中にある真実の種を掬い取ってみせたいとかねてから願っているよ」


 先生は私を学生に見立てて無料講義を行った。非常にわかりやすい説明だが、学生役としては懐疑的な気持ちになってしまった。


「……そんなこと、できますか?」

「だから史料を前に何十年とにらめっこをしているよ。それにまだ史料はどこかに眠っていると思っている。《円卓の騎士たち》の日記や手記もまだ全部見つかったわけでもないし、見つかったものも慎重に暗号化が施されて、きちんと読めた者はない。それだけ自分たちの言葉に慎重であったということは、彼らが有能であったことの証明だよ。歯がゆいけれども、金の鉱脈であることは間違いない」

「期待外れの場合もありますけどね……」


 いいや、と先生は強い調子で否定する。


「これは歴史ロマンの問題だ。期待外れであることはあり得ない。そもそも、君はマリー=テレーズの話になると歯切れが悪くなるじゃないか。そこがつまらない」

「つまらないと言われましても」


 マリー=テレーズ女王は、私の前世の名だ。

 当然、先生が焦がれてやまない歴史ロマンの真実も私の胸のうちにあるが、過去は美化されるからこそ美しく、蜃気楼のように手にできないからもどかしい。

 先生の中の女王は、薄幸の女性だ。望まないうちに王位につき、後世に繋がる業績を残しながらも、その結実を見ることなく死んだ。

 傍らには、後世で《円卓の騎士たち》と呼ばれる優秀な側近たちが控え、彼女と数々のロマンスを繰り広げたのだという。

 ――ねぇ。話盛られていませんか、とか。身に覚えがありませんよ、とか。そもそもその人、別人じゃないかな、とか。

 今の私が告げたところで事実とは思われない。ほどほどに夢を見るぐらいでちょうどいい。


「ともかくだね、君のような反マリー=テレーズ派のためにもシンポジウムをするんだよ。無理にとは言わないが、時間が合うようなら来なさい。悪いようにはしないよ」


 正直、女王マリー=テレーズを取り上げるシンポジウムには興味がある。しかし、学会の類は見当違いな批判もあり、現状、一般には評価の低い女王ではどうやっても議論が白熱するとは思えない。


 在位もさして長くない。女王の君主は珍しいものの、政治を実質的に動かせたわけではないだろう。よって、この女王は周りの男たちの操り人形ではないか。この見方が大勢なのだ。


 とはいえ、先生の関わるシンポジウムだから、変にこき下ろしはしないだろうが、好き好んで自分の悪口を聞きに行くというのも気が進まない。


 手の中のチラシは、気づけば手汗でいささかよれていた。

 主催者は先生、会場は先生の大学だ。

 場所は少し遠いが、先生とも知人であり、時間があるならば行ってみてもいいのかもしれない。この時はそう思った。

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