リディ・フロベールと秘密の恋日記

川上桃園

第1話 今世は図書館員



 深く、深く、落ちる。


『お疲れ様でした、陛下』


 最期に聞こえたのは、そんな言葉。


 そうだね、セディ。

 平凡とは遠かった私の人生。

 叔父や従兄弟が死に、突然転がり込んできた王冠を被ったあの時から。


 私しかいなかった。なら、やるしかないでしょう?


 内気な小娘が、頭の良い官僚や議員たちを相手に渡り合えるとは皆思っていなかっただろうけれど。案外、上等な女王様だったでしょう?


 やれることはやったつもり。ただ、後継ぎには恵まれなかった。あとで王位継承がもめてしまうだろうけれど、ごめんなさいね。


 本当なら自分が産むことを求められていたのはわかっている。女王には伴侶を選ぶ時間がなく、相手探しにさえ覚束ない。

 こんなに早く死ぬつもりもなかった。三十四歳という年齢に油断していたら、病気になってしまった。


 仕方がないわ。あとはみんなで頑張ってね。

 じゃあね。






 前世の記憶を持って生まれる子どもが、まことしやかにオカルト番組や雑誌、書籍で取り上げられることがある。

 人は輪廻する。死人はこれまでの記憶を洗い流し、新しい人間として再びこの世に生まれる。幾度も生まれ変わりを繰り返すうち、人間の魂は鍛錬された鋼に至る。完全なる球体、完全なる中庸になった魂は、やがて天の国に召され、永遠なるやすらぎを手に入れる。

 だから現世は煉獄である、苦難を受け入れよ、と。

 では普通なら忘れてしまう前世の記憶を持ち続けている人々には何の意味がある?

 すると、ある人がメディアでこう答えた。

 ――それは神からのメッセージだ。現世の人々に死後の世界があることを知らしめるため、自分たちがいる。これが我々の生きる意味だ。

 それならば。女王として生きた記憶を持つ自分は何だろう?


 二十年前、父が大工、母が教師の家庭に生まれた女の赤ん坊は、物心がつくのと同じく自分の前世を思い出していた。

 それはすなわち、二、三歳の子どもに三十四年生きた人間の記憶が宿るということ。普通ならば年齢とともに物事を経験し成熟するはずの精神は、器に合わないいびつな形に急成長を遂げた。

 少なくとも、子どもらしい無邪気さを奪われたという意味では不幸と言えるのかもしれない。ただ、前世の記憶を生かした職業についたという点では幸福ともとれる。幸福と不幸の重りで、天秤は釣り合ったまま動かない。

 今のところ、『特に意味がない』のだ。前世も今も、自分は自分のままで、どちらの名でも同一のアイデンティティーを有している。それは自分だけがわかっていればいいこと。

 今の『私』はただの「リディ」。ごく普通の日常を生きる二十歳の町娘。大工の棟梁の父、学校の教師の母の元ですくすくと育った。


 実家は首都のアパルトマンの一室。小さなベランダ付で、父手作りの木製の家具や母の育てた観葉植物の鉢植えに囲まれ、つつましくもゆったりとした暮らしをしていた。


「お父さん、この間、職場で結婚式の招待状を渡されたんだがなぁ、新婦がリディと同い年だと聞いて衝撃を受けた。おまえももうそんな年なんだよなぁ」

「そうだね。法律上はもう結婚できる年齢だよ。とはいえ、二十歳で結婚するのは早い方だろうけれど」


 ダイニングテーブルにある父お手製のトマトソースのパスタをフォークでつつく。

 今の私は実家を出ているが、こうしてたまに帰ってきては両親と食卓を囲むことが多い。父の趣味はパスタ作りで、よく新作レシピを振る舞ってくれる。仕事の合間なので、今回母には会えなかったが。


「リディにもそんな相手がいるのか? いるなら早く言うんだよ」

「さすがにいれば報告してるよ。でもさ、今は結婚とか考えられないよ。仕事も楽しいしね。それにね、この現代社会、結婚だけが幸せとは思わないよ。幸せは色とりどり、形も人それぞれ」


 ね、と父に笑いかけるが、父の表情は変わらない。


「お父さんは結婚した方がいいと思うぞ。人生のパートナーなんだ、一人よりも二人の方が不幸は半分、幸福は二倍になる」

「悪い男に騙されてしまうかも?」

「そこはお父さんに任せろ。悪いやつは殴ってやる」

「そうすると私は暴行罪で服役したお父さんに差し入れを送ってあげなくちゃいけないね」

「なんで笑うんだよ」

「父さんはガテン系だから殴ったら本気でなくてもめちゃくちゃ痛そうだもん……ふふっ」

「なら次は真面目に答えるんだ。リディ、もしお父さんがお前の結婚相手を探してくるぞと言ったらどうする」


 そんな言葉に首を傾げる。


「お父さんは私に結婚してほしいの? 今すぐ?」

「そういうわけじゃない。だが、お前の場合、放っておいても相手を見つけてくるとは思えないんだ。お父さんは、お前が将来、誰にも看取られず孤独死するようなことにはなってほしくないんだよ……」


 肉体労働系の父には似合わぬ「孤独死」の単語まで出てきた。普段「結婚」も「孤独死」も耳にしたことがなさそうなのに。


「……お父さん。もしかしてニュースで『孤独死特集』でも観て、ついでに結婚の話題も聞いたから、うちの娘はどうだって心配になっちゃったの?」

「今、出生率は低く、家族も別れて住むことも多いからな」


 父は胸を張って答えている。

 アナウンサーの言い回しをそのまま引っ張り出した父は、すぐにメディアに影響されるミーハーなところがある。

 小型の携帯端末メルクリウスが広く普及した現代。映像はどこでもホログラムとして浮かび上がり、白い壁があればどこでも劇場のスクリーンになる。困った時も、携帯端末のAI《メルクリウス》に話しかければ万事解決してしまう。

 どこであっても情報の入手は自由自在なのだ。


「その『孤独死特集』で評論家が言っていなかった? 『解決方法はお金です。国が保証してくれない以上、我々はお金を稼いで介護人を雇うしかないのです!』って」


 ここで父との食事以外の用事を思い出し、革のバッグから封筒を取り出した。中には札束が入っている。


「はい、今月の分。御収めください」

「いや、お父さん、いらないんだが」

「これで美味しいものでも食べて、お母さんに新しい服でも買ってあげればいいんだよ。娘の親孝行なんだから、受け取って」


 父は困ったように額をかきながら封筒を覗き込み、渋い顔になる。


「毎月えげつない額を何もしないでもらっているのは、妙に罪悪感が出てくるんだぞ」

「別に悪いお金じゃないよ。正当な報酬だよ」


 父は昨今進むキャッシュレス化には懐疑的な人だからと、わざわざ現金で引き出してきたというのに。

 私の説明に、父はしぶしぶ頷いた。


「……わかった。ひとまず受け取っておく。受け取っておくだけだからな?」

「ちゃんと使ってね? どうせ銀行の口座にそっくり入れているんでしょ」


 父は否定しない。やっぱり、と息をつくと、最後に呑みかけていた紅茶のカップを空にして立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ職場に戻るね。お母さんにもよろしく伝えておいて」

「そうか。仕事頑張れよ。元気でな」


 その物言いに笑ってしまう。すぐ会える距離にいるじゃない。



 路面電車トラムに乗って十五分。

 法律の立案討論を行う、国の中心たる国民議会場の、道を挟んで隣の敷地に、私の職場がある。


 かつて王家が所有した宮殿を転用した国立国民議会図書館。建造させた王妃の名前から、通称「ポンパドーラ」。鳥が両翼を広げたような形の建物には、主に国内を中心とする、書籍、雑誌、古文書、辞書、地図等のあらゆる文字資料が収集されている、国内最大の図書館。

 私はここで三年前から図書館員として働いている。


 その国立国民議会図書館ポンパドーラの内部のオフィス。二十を超える調査室のうちの一つに、私のデスクがある。

 仕事柄、どうしても紙の書類や書籍が積み上がり気味のそこに座った途端に、「フロベール君」と、上司のオフィスから声がかかった。


「何かありましたか?」

「君に呼び出しがかかっている。下院議員会館へ行くように。先日君が出した調査結果のことらしいよ」

「わかりました。今すぐということですね」

「そうだよ。いってらっしゃい」


 下院議員会館は、国民議会近くにある。十分徒歩圏内であるので、関連書類をまとめてから出かけた。

 職員証で入り口の電子ゲートを通り抜け、三階の一室をノックする。


「失礼いたします」

「どうぞ」


 日当たりの良いオフィスにいた紳士が黒い革張りの椅子から起立する。笑顔で迎え入れた彼はごく自然に握手を求めてきた。


「こんにちは、リディ女史。今日もきれいだね。今度デートしない?」

「謹んでお断り申し上げます、マクレガン議員。今、議会期間中で忙しいので」


 握手で応じながらきっぱりと答えると、相手も仕方がないと言いたげに肩をすくめる。


「冷たいなあ。そういうところにもそそられるけれど。ところでね、今日届けられた資料のことで説明が欲しいところがあるのだが。……ここ。与党追求の肝になる情報だから、もっと詳しく知りたいんだよ」


 議員の指し示した書類を確認し、自分の万年筆とメモ用紙を取り出した。


「そうですね。これぐらいならばすぐに説明できます。議員のお時間を少しいただきますね」

「構わないよ」


 十数分ほどかけて丁寧に話をするうちに、彼は納得したように頷いた。


「なるほど。君の説明はいつもわかりやすくて助かるよ。うちの秘書などは何でもかんでももたついてしまうからね。リディ女史は私のブレーンになってくれる気はないの?」

「それは秘書ということですよね?」

 

 よく言われ慣れた続きを先回りする。

 そうだね、とマクレガン氏は書類を手放し、テーブルの上で両手を組んだ。


「けれど、君自身が望むなら、もっと親密な、極めてプライベートな関係も築きたいと思っている……と言えば、わかる?」


 マクレガン議員は将来有望な野党の三十代若手議員である。恵まれたルックスに歯切れの良い話し方が魅力的で、スピーチをすれば画面に映える。女性からの熱烈な支持を得ていた。政党でも広告塔のような扱いをされ、将来この野党が政権を取ることがあれば、彼にも大臣クラスの椅子が用意されることだろう。


「議員はいつもそんなことをおっしゃいますね。大丈夫ですよ、私が言わないだけで、議員は十分にすばらしい方だと思います」

「リディ女史は年齢の割にずいぶんと男のあしらい方が上手いね。毎回きっちり釘を刺してくるところに痺れるよ」


 散らばっていた自分の書類を片付けながら、


「議員がいつもこんな調子だから慣れてしまうんです。いちいち本気にしていたら、私の命はいくらあっても足りませんよ。……それでは、『奥様』によろしくお伝えください」


 議員はあからさまに閉口していた。

 部屋を出たところで、身なりの良い若い女性が壁に寄りかかり、私をずっと睨んでいた。ビビットな赤で彩られた爪先が、今にもこちらの肌を突き破るほどに鋭く見える。


「失礼します」


 前を会釈して通り過ぎる。通りざまに「殺す」と凄まれたが、もうたいして気にしないことにしている。

 仕事相手を脅す秘書。仕事相手に激しく嫉妬する妻。どちらにしろ、あの議員は自分の害となる女性を選んでしまっただけのこと。恨まれることは何一つしていない。


 私はリディ・フロベール。前世は女王、今世は国立国民議会図書館ポンパドーラの職員。高給取りの特別職公務員だ。

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