第3話 たくさんのひとたち
「ありがとう、ピイ、イリアさん」
ちっとも感謝していなさそうな顔で、ミリイはピイたちにお礼を言った。ミリイは病院での検査の結果、軽い盲腸炎だということがわかった。すぐにでも退院できるらしく、ミリイは落ち着いたものだ。
「よかったですよ。注射を打てば治る程度の病気で」*
先程の背の高い男がにこにこと笑ってピイとイリアの隣にたたずんでいる。
「ありがとう、リムさん」
ミリイは窓のほうを向いてつぶやく。リムと呼ばれた男は、嬉しそうに笑みを深める。
「ミリイさんにお礼を言われるなんて初めてだな」
「お礼くらい、わたしだって言うわ」
そのまま二人は黙っている。ピイとイリアは顔を見合わせる。
「わたしたち、帰りましょうか?」
ピイが訊くと、ミリイは不安げな顔をする。
「ほら、あなたたちの邪魔をしてはいけないし」
「帰っても、構わないわ」
おや、とピイは思う。ミリイにしてはしおらしい。
「じゃあ、また会いましょうね」
「ええ」
ミリイはピイたちが帰ろうと白い病室の出口に行っても、こちらを見ようとしなかった。こちらを避けていたというより、リムのことを避けていたのかもしれない。リムはただひたすらに、ミリイの世話を焼いていた。陽気そうな、素敵なひとだ、とピイは思った。
「ミリイさんにはもったいないじゃない。彼、わたしたちのことを家に送ろうと思いつきもしないんだもの。よっぽどミリイさんに夢中よ」
ピイがくすくす笑う。
「本当。あのひと、ミリイのことしか見てないわ」
「これでピイの障害はまた一つ取れたわ」
「どういうこと?」
ピイは首をかしげる。
「あなた、この間言ってたわ。自分の結婚はミリイさんの不幸の上に成り立っているんだって」
「そうだったわね」
ピイが考える顔になる。
「でも、大丈夫そうだわ。ミリイさんはもう不幸ではなさそう」
「あのひとを好きになったということ?」
「ええ。ミリイさんのことだから、なかなか認めないでしょうけどね」
「そうだといいけど」
ピイは爪先を見つめる。黒い革靴がぴかぴか光っている。
「あなたが結婚式まで元気でいられるよう、わたし応援を頼んだのよ」
「え?」
ピイはイリアを見ると、彼女は微笑んでいる。
「誰が何をしてくれるのか、わたしにもわからないの」
何が起こるのだろう。ピイはただ不安げな顔をした。
結婚式が近づき、ピイとシムリは慌てて白いドレスを一着借りることにした。逆さまのチューリップの形をした、かわいいドレスだ。それを決めた日でさえ、シムリは忙しそうにすぐに帰ってしまった。ピイはそのことを思い返して、今日も机の前で鬱々と過ごしていた。
小説の主人公は、ピイの気分が落ち込めば落ち込むほど元気に活動を始めた。旅をするのだ。さすらい、流れ、一人になる。けれど、この間ほどはひどい気分ではない。だから小説もさほど進まない。
夕方、呼び鈴が鳴り、ピイはシムリだろうかと期待をした。急いでドアを開けると、そこにはシムリはいない。しかし意外な人物が立っていた。
「グイルさん」
「仕事中かね」
グイルは相変わらずひどい格好だった。毛は手入れされておらず、あちこちがはげている。相当な高齢のねずみなのだ。無理もない。
「そうですけど、なかなか進まなくて」
ピイはグイルを招き入れた。グイルはゆっくりと中に入ってきた。ピイは手助けをしたくなるのをぐっと我慢した。以前そうしたら、グイルにすごい形相で怒鳴られたのだ。
「いい部屋だね。来るのは、君の誕生日パーティー以来かな」
「そうですね」
テーブルに着かせると、グイルはそれを撫でた。
「シムリの昔の作品だね」
「ええ」
「粗っぽい作りだ。まだまだ未熟だったな、このころは」
「グイルさんにはそう見えるんですね。わたしはよしあしが全然わからなくて。とっても使いやすいのは確かなんですけど」
グイルはシムリの家具作りにおける師匠だったが、近頃は家具を作らないのだという。その目は少し濁っていたし、手は震えている。そのせいもあるのかもしれない。
「シムリはかわいい弟子だったよ」
「そうでしょうね」
「素直だったけれど、納得がいかないとすぐ突っかかる。元気なんだな。あいつの性根は本当に明るい」
「ええ」
「あいつは独立をして、忙しそうにしているな」
「ええ」
「君も寂しいだろうけれど、すぐ落ち着くさ。賞を獲ったときというのはそういうものなんだよ」
「グイルさんもそうだったんですか?」
「そうだよ。わたしは優秀な家具職人だったからね」
グイルは少し笑う。
「わたしは若いときから色んな賞をもらっていたから、いつも忙しくて妻にはよく寂しい思いをさせた。けれど、大丈夫だったよ。わたしたちは大丈夫だった。だから君たちも大丈夫だろう。多分ね」
ピイが目を丸くする。
「シムリにはよく言っていたんだけどね。木にはその木にふさわしい家具の形があるんだ。どんなに面倒な、芯の曲がりくねった木に出会ってもね、その木にはふさわしい形がある。君はシムリとの結婚が不安なんだろう?」
ピイが驚いてグイルをじっと見つめる。グイルはそれを見つめ返さず、どこか遠くを眺めている。
「君の友達の、イリアさん。彼女に聞いたよ。この間彼女がユウリ君に連れられて来たときにね」
「そうなんですか」
「シムリはいい木だよ。曲がったところのない、素直な木だ。対して君は少し曲がった、厄介な木。自分でもそう思うだろう?」
ピイは少し恥ずかしくなって、小さくうなずく。
「そういう木同士は、組み合わせるととてもいい家具になる。意外だろう? でもそうなるんだ。わたしの経験上ね。どちらの部品も、輝くんだよ。シムリは机の部品では、基盤となる部分。君は装飾となる部分。どちらもそれぞれの魅力が強くなる。君たちはそういう関係だと思うよ」
「そうかしら」
「そうさ。君たち二人の組み合わせを、わたしはとても素敵だと思うんだ」
ピイは微笑んで、グイルを見た。グイルはやはり目つきが怪しいが、確かにピイのほうを見ている。
「君は小説が書けなくなっているのかね」
ピイは首を振り、ただ進まないだけだと答えた。
「どんな小説を書いているか、わたしは知っているよ。とても創造的で、面白い小説だ。でもね、今の君は大分小説からかけ離れている。創作は自分から生まれるものだ。自分からかけ離れたものを、無理に書くべきものかね。確かに、創作とは自分を表現することではない。けれど、自分の中にある何かを、そう、希望だとか、絶望だとか、そういったものを表現するべきものではないか? 君には今何がある? あの小説の底に流れているものと、同じものか?」
ピイは少し考えた。そして、首を振った。
「それなら、君の作品も変わらなければならないよ。そう思うだろう?」
ピイはかすかにうなずき、弱々しく微笑んだ。
次の日は、ピイの小説の挿絵画家のナリーと、今は都会に住んでいる小説家仲間のリンが一緒にやって来た。道でばったり会ったのだという。
「最近はね、ぼくもまあまあの作家になったと思うよ」
リンは得意顔だ。それをナリーは小突いて、
「お前のどこがまあまあの作家だ。おれはまだまだお前のために挿絵を描いてやろうと思わんよ」
「ひどいなあ」
リンはしかめっ面をして、ピイに向き直る。
「ピイ、不安なんだって? シムリとの結婚」
やっぱり、とピイは思う。イリアが手紙を出したのだろう。
「色んなひとに心配されるのよ。ものすごく悪いことをした気分」
ピイが答えると、リンはけたけたと笑う。
「そりゃあそうだよ。あんなに幸せそうだったピイが、結婚なんていう大事な出来事を前にしていきなり不安になるんだもん。あのねえ、それは罪だよ」
「罪?」
ピイはびっくりして尋ねる。
「そうさ。ピイがシムリと結婚して幸せにならなくちゃ、シムリのせいで失恋したひとたちが可哀想ってもんさ。例えばぼくとかね」
リンは胸に手を当てて、自己主張をした。ピイはくすくす笑い、そうね、と答える。
「そろそろ不安でいるのが馬鹿らしく思えたころよ」
「よかった。でもあっという間に元気になったね」
「本当に、皆が心配してくれるのよ。たくさんのひとにこの結婚は支えられているんだな、と実感するわ」
「じゃあ、明るくなったピイに贈り物だ」
ナリーが口を挟み、持っていた小包を開いた。中に入っていたのは、額縁に入った一枚の絵だった。白いねずみの少女と、黒いねずみの少年が並んで座っている。
「わあ、これ、『百年の旅』の表紙になった絵じゃないか」
リンが感動したらしい声で言うと、ピイは突然涙が出てきた。どうしてだろう。とまらない。リンとナリーが黙って見つめているので、ピイは懸命に涙を拭いて、つぶやいた。
「懐かしいわね」
「そうだろう? おれにとっても懐かしい絵だ。でも、お前たちにあげるよ」
「本当に?」
「ああ。あげる。飾ってくれよ」
「もちろんだわ」
ピイが泣きながら笑うと、リンが嬉しそうに微笑んだ。ナリーもうなずいた。
「ピイ、お前は幸せ者だね」
その夜から、ピイは小説の続きを書いた。自然と、すらすら書けるようになっていく。グイルの言うとおりだ、とピイは思う。自分の根底に流れるものを書かなければいけない。だからわたしは今書けている。
結婚式の日の前日まで、ピイは書いた。その日まで、シムリとは会わなかった。
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