第2話 考え込む日々

 旅人は、新しい街を歩く。一人で。どこまで歩いても、誰に出会っても、一人。永遠に、一人。

 小説を書きながら、ピイはどんどん暗い気持ちになっていく。

 一人。わたしは一人だった。これからも、一人だろうか。一人がふさわしいのだろうか。人を不幸にするくらいなら、一人になったほうがいいのだろうか。

 そう考えながら、ピイはひたすら原稿用紙に向かう。

 旅人は歩く。一人で。


 シムリはあれ以来忙しくなり、なかなかピイの元に来ない。一人の時間はピイをますます考え込ませる。人づてに聞くシムリの評判や、新聞で見るシムリの写真はどこか他人のことのように思える。相変わらず裏表がなく気取りのないシムリだけれど、どこか、違うような気がする。他人によって編集されたシムリの情報など、聞かないほうがいいのかもしれない。けれどシムリ恋しさに、つい聞き込んだり、読んでしまったりする。

 ピイはじっと新聞のシムリを見つめた。シムリは笑っている。屈託なく。

「何だか、わたしと結婚することなんて忘れてしまっているみたい」

 そうつぶやいて、ピイはテーブルに突っ伏した。

 しばらくそうしていると、突然、呼び鈴が鳴った。ピイは立ち上がると、赤い玄関扉をのろのろと開いた。

「元気がないのね」

 見ると、イリアだった。相変わらずゆったりとした笑顔を浮かべている。ピイはかすかに笑顔を浮かべ、イリアを招き入れる。

「お化粧もしていないじゃない」

「今日は出かけない日だから」

「駄目駄目。お化粧は身だしなみでしょう?」

 イリアがピイを引っ張って鏡台の前に連れていく。ぼんやりしているピイの目の前で、イリアは勝手に引き出しを開き、桃色の液体が入った壜を取り出す。蓋を開け、ピイを見下ろす。

「服装はちゃんとしてるわね。ひげに塗ってあげるわ」

「ちょっと待って。どうしたの?」

 ピイが慌て気味に尋ねると、イリアは微笑んだ。

「いいところに連れてってあげる」

 ピイとイリアはひたすらに歩いた。イリアが連れて行ってくれるのはどこだろう、とピイは思う。この道のりだと職人街に着くけれど。

 どこからか若い鶯の下手な歌声が聞こえる。草むらの真ん中を抜ける道を歩いていると、ひとびとがピイに笑いかける。この笑顔が今は重い。ピイは無理矢理に笑顔を作るが、それが本当の笑顔に見えるかわからない。

「ピイは悩んでいるのね」

「え?」

 黙っていたイリアが突然話しかけたので、ピイは戸惑った。イリアは相変わらず微笑んでいる。

「結婚するって大変なことだものね。悩むわよね」

「わたしは、ひとの不幸の上に成り立つ幸せが嫌なだけ」

 ピイは爪先を見つめてつぶやく。イリアがくすくす笑う。

「わかりやすいわね、ピイは。かわいいわね」

 ピイは首をかしげてイリアを見上げる。何を言っているのだろう。わたしはこんなに悩んでいるのに。

「わたしもユウリと結婚するときはそうなったわよ」

「本当?」

「ええ。でも簡単に治ったわ」

「どうやったの?」

 ピイがすがりつくようにして訊くと、イリアはふふふ、と笑ってこう答えた。

「結婚したら、治ったわ」

「からかってる?」

 ピイが少し怒り気味に尋ねると、イリアは真顔になる。

「全然。真剣に言ってるのよ」

 ピイはまだ怒っていたが、イリアが足をとめてきょろきょろと辺りを見回し始めたのではっとした。この広場。真ん中に湖があり、奥に職人の木と呼ばれる大きな木があるこの場所は、明らかに職人街だ。大勢の職人たちが忙しそうに立ち働いている。シムリの職場だってすぐそこの場所にある。イリアはシムリに会わせようとしてピイを連れてきたのだろうか。

「イリア。わたしはあまりシムリの仕事の邪魔をしたくないのよ」

 ピイは困った顔でイリアを見上げる。イリアは相変わらず不案内な様子で歩き出す。

「そうなの? どんどん会えばいいじゃない。だからあなたそんなに不安になるのよ」

「シムリは忙しいんだもの。邪魔をして仕事に支障をきたしたら大変。帰りましょう」

「帰らないわよ。いいところに連れて行ってあげるって言ったでしょう? 島まで連れて行ってくださる?」

 最後の一言はピイに向けられたものではなかった。ピイがイリアの視線をたどると、湖に浮かんだ小型船の船長がにっこり笑っていた。

「お待ちしてましたよ。さあ、乗って」

「ええ。ピイも乗ったら?」

 ピイはわけがわからないまま不安定な船に乗り込んだ。この船は小型だけれど貨物船らしい。大小の木製のコンテナが、船の後部に積み重なっている。この船が行く先はわかっている。湖の真ん中にある島だ。そこには装飾品を作ることを専門とした職人たちが揃っている。イリアの夫であるユウリが昔働いていた場所だ。

「いい風ね。それに、いい波」

 イリアが船の舳先の手すりに寄りかかるので、ピイも横に並んだ。広い、広い湖。水が澄み切っていて、どこまでも透明だ。広い空。ピイは次第に不安が落ち着いてくるのを感じた。気持ちのいい空気。いつの間にか、永遠というものを感じ始める。この場所が、永く存在するものだと思う。それは平穏な気分に繋がる、大切な感覚だ。

「落ち着く? わたしもね、初めてここに来たとき、そう思ったわ」

「イリアも? いつ来たの?」

「最近よ。ユウリに連れてきてもらったの。ユウリったらたくさんの旧友に囲まれて、散々いじめられてたわ。あのひと、あそこでもあんなふうに明るいのね。笑っちゃった」

 イリアがくすくす笑う。ピイも笑う。ユウリの子供っぽさに似合う話だ。

「でね、素敵なひとに出会ったの。ユウリったらよくこのひとに惚れ込まなかったな、と思うくらいなのよ。ユウリはとっても優しくしてもらってたの」

「そうなの」

「サラさんというひとなの。女性でね、優しいのよ」

「そのひとに、わたし会うの?」

「ええ」

 そう話していると、船長が大きな声で、「着きましたよ」と叫んだ。

「降りましょうか」

「ええ」

 ピイはまだ落ち着かない気分だった。イリアがサラというひとに会わせようとしている理由がよくわからないのだ。友達だから会わせる。それだけかもしれない。しかし、何かある気がするのだ。それが何なのか、わからない。

 島の職人街は、島の中央を真っ直ぐに突っ切る道の両側に、工房がいくつも連なってできていた。細かな道もあるけれど、大通りに面した工房が全てのようだ。というのは、円い島は、端に行くほど小規模な工房、中央に行くほど大規模な工房になっているのだ。道側が開いた建物の中にいるねずみたちは、イリアに気づくと手を振った。イリアも小さく手を振り返す。中で作られているのは、宝石をはめ込んだアクセサリーや、色とりどりの帽子などだ。

「サラさんの工房はね、一番奥にあるのよ」

 その通りで、島の長い道をどこまでも進んで、やっとのことで見えた突き当りの工房で、イリアはとまった。

「サラさんはいらっしゃいますか?」

 一人いる若い娘にイリアが尋ねると、灰色の小柄な娘は笑ってうなずき、「先生!」とひとを呼びに行った。ピイとイリアは入り口で黙って立っている。ピイは緊張してどきどき鳴る胸を押さえた。

「イリアさん」

 奥から誰かが出てきた。きらきらと光る誰か。工房内にあるたくさんの布地を避けて近づいてくるにつれ、その毛が銀色なのだということに気づいた。ピイたちよりも少し年上で、目元が微笑んでいる、本当に優しそうなひとだ。

「こんにちは。このひとがピイさん?」

「ええ」

「初めまして。桜の木ピイです」

 ピイは笑顔で挨拶をした。人見知りのピイでさえも緊張を解いてしまう、ふわふわとした空気を纏ったひとだ。ピイはすぐにこの銀色ねずみが好きになった。サラは中に二人を招き入れる。本当に布だらけだ。色とりどりの布地が多く積み重なっている間に椅子が用意してあるので、三人はそこに腰を据えた。

「初めまして。シムリの婚約者よね、あなた」

「ええ」

 ピイは目を丸くする。

「職人街ではあなた有名よ。シムリは人気者ですもの」

 サラがよく笑うので、ピイも釣り込まれてしまう。サラがそれを見てから、

「あなたのサイズ、わかっちゃった」

 と言う。何のことだろうとピイが首をかしげていると、イリアがその疑問に答える。

「サラさんは見ただけで体のサイズがわかるのよ」

「えっ」

 ピイが自分の体を見下ろしていると、サラがころころと笑い出した。

「簡単よ。だってわたし、子供のときからひとのドレスを縫っているんだもの」

「ドレスを?」

 ピイが訊く。サラはうなずいて、

「ええ。もう長いこと縫ってるわ。たくさん、たくさん。イリアのドレスも、わたし縫ったの」

「そうよ。あなたが素敵だって言ってたドレス」

 イリアが微笑む。ピイはいいわね、と答える。

「今からわたしも注文したいけれど、とても間に合わないわ。だって式はもうすぐだもの」

「そうかしら」

 サラが首をかしげる。

「わたしなら間に合うわ。デザインの希望を取って、サイズがわかりさえすれば」

「すごいですね。でも、とても時間がないわ」

「そう? あなたこうしているじゃない」

「シムリと相談しなきゃ。シムリはとてもじゃないと時間が取れないんです」

「そう」

 サラが残念そうにうつむく。しかしすぐに明るい顔になり、

「でも、サイズがわかったから、わたしあなたのドレスをいつでも作れるわ」

 と笑う。ピイはうなずき、

「ええ、お願いしたいわ」

 と言った。

「ここは素敵な島でしょう?」

 サラが尋ねる。ピイはうなずいて、とっても、と答える。

「たくさんの美しいものが、ここで作られるの。わたし、ショウウインドウで見つけたドレスを見て、素敵、作りたいわ、って思ったの」

「着たい、じゃなくて?」

「ええ。こういうものを、わたしが作って、ひとに着てもらって、喜んでほしい。そう思ったの。それは今でも続いているわ」

「そうなんですか」

「あなたは小説家でしょう? 同じ気持ちではないの?」

「わかります。わかりますけど、わたし」

「不安なの?」

「ええ」

「どうして?」

 サラの真ん丸な目で見つめられて、ピイはどぎまぎした。

「わからないんです。不安がどこから来るのか」

「結婚するから?」

「え?」

「結婚はひとを変えるわ。それで不安なんじゃないの?」

「そう、なのかしら」

「不安は吹っ飛んでしまうわよ」

「どうすればいいんでしょう」

 ピイがイリアにしたように、すがるような目を向けると、サラはころころと笑った。

「簡単よ。結婚してしまえば治るわ」

「それ、イリアも言っていたけれど、わたしはとても信じられなくて」

 ピイがしょんぼりとうなだれると、サラは穏やかな声を出してこう言った。

「大丈夫よ。あなた、シムリが信じられないの? とても素敵なひとじゃない」

 ピイははっとして、サラを見た。サラはさっきよりもいっそう柔らかな視線をピイに向けている。

「私自身も結婚したし、たくさんの結婚する女性たちを見てきたわ。だから言える。素敵なひとと結婚するということがわかっていれば、その女性はちっとも不安になることなんてないわ。シムリは素敵なひとよ。わたしから見ても。あなたって幸せよ」

「そうなのかしら」

「そうよ。安心しなさい」

 ピイは初めて、まともに安心した気分になった気がした。

 わたしはどうしてわかりきったことを忘れてしまっていたのだろう。シムリと結婚する。それはとても幸せなことだ。それなのにわたしは忘れてしまっていた。子供のころのように怯えていた。怯えることなんかなかったのに。

「結婚はひとを怯えさせるものよ。でも、わかってみれば安心でしょう?」

「はい」

 ピイは久しぶりに満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう、イリア。サラさんのところに行ったら、本当に気が楽になったわ」

 帰り道、草むらの道を戻りながら、ピイはイリアに笑いかけた。イリアも笑い、

「本当にすっきりした気分になったみたいね。よかったわ。あなた本当に不安そうだったもの」

「そんなにあからさまだったかしら」

「ええ」

 ピイとイリアが笑いあっていると、横を黒い車が通り抜けた。すごい勢いだ。驚いた二人がそれを見ていると、耳を突き刺すような音を立てて車が急停止した。ばたばたと、白地に茶色のぶち模様のねずみが飛び降りて二人に走り寄る。ずいぶん背の高いねずみだ。イリアよりも背丈がある。

「あの、この辺りに病院はありませんか?」

「病院? 少し離れたところにありますけれど」

 イリアが答える。

「案内をお願いできますか?」

「構いませんけれど。どなたかご病気なんですか?」

 イリアの返事を待たずに、その男はばたばたと車の運転席に乗り込んだ。

「早く。乗ってください」

 ピイとイリアは顔を見合わせ、後部座席のドアを開いた。そこから見えたのは、助手席でうずくまる、水色のワンピースを着たミリイだ。驚きながら車に乗ると、車はとまったときのように急に発進した。

「ミリイ、どうしたの?」

 ミリイは泣きそうな目をして腹部を押さえている。ピイがもう一度訊くと、

「お腹が、痛いの」

 と蚊の鳴くような声で答えた。男はイリアの指示通りに運転をしている。本当に焦った顔だ。

「このひとは?」

「わたしの、婚約者」

 えっ、とピイが声を上げると、車はまた急停止した。病院に着いたのだ。真っ白な四角い建物の前で、男はあわただしく降り、助手席のミリイをそっと降ろし、抱き上げて中に運んで行った。

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