はつかねずみの結婚式

第1話 そのままでいて

 はつかねずみの小説家、桜の木ピイは、最近いつも白い顔をほころばせている。ピイを見ると他のひとたちも笑顔になる。

 今日もピイは微笑みながらかごを持って出かけた。夕食の材料を買いに。今夜はスパイスの効いたチーズ・カレーだ。きっと彼も喜んでくれるだろう。ピイはそう思って目を細める。

「すみません。人参とじゃがいもをください」

 春の茂みの中、大きな紋白蝶が空を舞っている下で、ピイは八百屋に声をかけた。巨大であったであろう野菜を小さく切ったものが所狭しと並べられている店の中、不機嫌そうにそろばんを弾いていた茶色い毛の店主は、ピイを見るなりにっこり笑った。

「ピイちゃん、今夜はチーズ・カレーだね」

「どうしてわかるんですか?」

 ピイが驚いた顔で尋ねる。店主は得意顔でうなずく。

「人参とじゃがいもで奴が好きなものを作るとしたら、そりゃあチーズ・カレーだろう?」

「そうね、それもそうだわ」

 ピイが笑うと、店主は店の中を振り返り、灰色の毛をしたおかみさんに笑いかけた。おかみさんはとうに笑っている。

「ピイちゃん、楽しみだね」

 おかみさんが笑いかけると、ピイは幸せそうに、ええ、と答えた。

 八百屋を離れて少し歩く。道行くひとびとが皆ピイに笑いかけてくる。ピイはそれにいちいち応える。スパイス屋に着くと、白地にこげ茶のぶち模様のねずみがピイを見て笑った。

「チーズ・カレーか」

「あら、どうして皆わかるのかしら」

 赤や黄色の派手な粉の入った壜が整然と並べられた店内をうろうろしていると、スパイス屋の店主がやはりメニューを言い当てたので、ピイは面白くなってころころ笑った。店主は人のよさそうな顔をますますとろけさせて、

「スパイスの選び方でわかるよ。あいつが好きなチーズ・カレーだって」

 と言う。ピイはにこにこ笑って、そうです、と応える。

 店を出て隣のチーズ屋に入る。立派な体格のおかみさんが、一人で切り盛りしている店だ。丸い大きなチーズが棚に並んだのを背景にして、おかみさんは無表情にピイを見る。ピイは微笑んでいる。おかみさんはピイの言葉を聞くまでもなく、黄色いチーズを棚からカウンターに持ってくる。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 ピイが答えると、おかみさんはにっこり笑う。

 どうしてこうまで皆笑みを湛えているのか。答えは簡単だ。ピイはもうすぐ黒ねずみのシムリと結婚するのだ。

 幸せだわ、とピイは思った。皆が祝福してくれ、皆が微笑みかけてくれる。これ以上の幸せはもうないのではないかと思うくらい。

 早くシムリに会いたい。

 ピイは手に提げたかごを覗き込んだ。

 鏡台の前で、身支度をする。今日は桃色の、丸襟になったワンピースを着ている。靴は黒くてかかとの低い革靴。ひげに塗った色は同じ桃色。ピイは鏡に映った自分を黒い眼でじっと見つめ、しばらくしてちょっと笑った。これでよし。

 家の中はカレーの匂いで一杯になっている。ピイは枠が赤い窓を開いた。春になったとはいえ、この時間になると少し外は暗い。人気のない、れんげの咲き誇る森の中に家はあるから、住み始めたとき、夜は少し怖くなった。今は大分大人になって、夜の森も美しいと感じる。

 シムリが来るまで、小説を読み返そうと思う。ピイは机に向かい、書きかけの小説を読む。ふと思いついて本棚を振り返る。

 『百年の旅』シリーズは、怯えた子供だった一昨年の冬に書き始めてからもう巻数は九十を超えた。内容は、とある旅人の奇想天外な冒険譚。様々なねずみたちに出会い、別れ、流れていく主人公は、男性だけれどどこかピイに似ている。孤独癖、内気。彼はいつも一人で旅をする。彼が出会う事件は、彼の見る悪夢そのもの。

 例えば海底のあぶくの街に着く。そこでは皆があぶくでできた街の外壁と天井を守ることだけに熱心になり、街自体は荒廃している。彼は街のひとびとに注意を与える。移住するべきだと。しかし彼の意見は無視され、その上少しの不注意で街は崩壊する。ひとびとは海底に張り付いていた空気から離れては浮かんでいくあぶくの中に慌てて入り、逃げていく。彼は一人海底に残り、最後のあぶくに入って彼らとは違う方向へ浮かんでいく。

 また、追いかけてくる塔に出会う。ある街に入ってから、どこに行っても視界に入ってくるその石造りの塔は、彼の影法師に似ている。どこまでもどこまでも追いかけてくる塔から、彼は逃げる。高い建造物の陰に隠れたり、窓のない建物に入ったりする。しかし、どこに逃げても、目の前に、隠れていた窓の向こうに、塔は現れる。彼はその塔の最上階にある窓に、自分に似た誰かを見出す。それに怯えた彼は、親しくしてくれたひとびとを置いて、街から逃げ出す。

 今回書いているのも、そのような彼の旅の物語だ。ピイは最近、小説を書くペンの動きに鈍りを感じる。これでいいのだろうか。そんな気がしてくる。

 主人公は誰に出会っても最後には拒絶する。そして旅をすることに執着して定住しない。孤独を愛する彼。彼をこれほどに長い間描けていたのは彼がピイの分身だったからだ。

 今はどうだろう。ピイは相変わらず内気で、一人でいるのも平気だ。けれど、彼とは違う。最近になってそういう気分が特に強くなってきた。小説家が自分を書き続けるのは滑稽だ。そんな気もしてくる。

「ピイ」

 思い悩んでいると、低い、自分を呼ぶ声を聞いた。シムリだ。そう思って振り返ると、満面の笑みを浮かべた黒い顔がすぐそばにあった。今日もやはり作業着を着ている。最近シムリは忙しいのだ。家具職人である彼は、最近は師匠であるグイルから独立して、工房を持っている。注文がひっきりなしに来るのも忙しさの原因だが、最近はそれだけではなさそうだ。

「シムリ。呼び鈴を鳴らしてくれればよかったのに」

 ピイも笑って立ち上がると、シムリと向かい合わせに立った。シムリは背が高い。ピイは少しあごを上げて、彼の、ピイと同じ黒い色の目を見る。

「呼び鈴、鳴らしたよ。ついでに言うとノックもした。けど、君が入っていいって言ってくれないから勝手に入った」

 シムリはけらけら笑う。ピイは、

「ごめんなさい。小説に夢中になっていたから」

 と、申し訳なさに思わず手遊びをする。

「平気平気。ぼくだって仕事に夢中になると、誰の声も聞こえなくなることなんてよくあるからね」

 シムリは笑いながらピイの手をほどいて自分の手とつなぎ、桜材のテーブルに向けて引っ張っていく。

「今日はチーズ・カレーだ。ピイが作るチーズ・カレーはおいしいから楽しみだよ」

「匂いでわかるわね」

 ピイはくすくす笑いながら台所に入り、小さめの鍋に入ったカレーを温めなおす。その間にシムリは蒸しあがった米を二つの大きな皿に盛る。

「君は少食だから、少なめにしないとね」

「シムリは大食いだから、山盛りにしないと」

 ピイは色鮮やかなサラダを器に入れ、テーブルに運びながら応える。シムリは、

「今日はたくさん働いたからいつもよりもっと多くしないとね」

 と言う。台所に戻ってきたピイは、その皿を見て驚く。

「本当に大盛りなのね。そんなに働いたの?」

「うん。カレーを注ぐのは君の仕事だよ」

 ピイはおたまじゃくしを渡され、独特の匂いのカレーを米にかける。その間にシムリがハーブティーを用意する。

 テーブルに食事の準備が整うと、二人はいただきますを言って食べ始めた。

「おいしいね。いつもの味だ」

「ねえ、シムリ。忙しいのね。体は大丈夫?」

「大丈夫だよ。むしろ気力に満ちていていい気分だ」

「注文がそんなに来るの?」

「ありがたいことに、来るね。親方のお陰だ」

「グイルさんの力だけじゃないわ。あなたの実力のほうが勝ってるわよ」

「ありがとう、ピイ。でもね、まだまだ親方の名声のほうが強いんだ。最近よく思うよ。注文してくれるお客さんは、ぼくを『有名なグイルの弟子』だから信用が置けるって言う人が多いんだよ」

「でも……」

「大丈夫。ぼくはやれるよ」

「どういうこと?」

「秘密」

 ピイは首をかしげてシムリを見た。シムリはカレーをすくいながら、にっとピイに笑いかけて、別の話をしだした。

「そういえば、ドレス、いつ見に行こうか」

「わたしはいつでもいいわ」

「じゃあ三日後」

「三日後はイリアとも行くの。そのあと合流しましょうね」

「イリアと? ドレス見に?」

「ええ」

「ぼくと見る前に決めてしまわないでよ」

「大丈夫よ」

 ピイは笑った。シムリはぼんやりとその顔を見つめて、つぶやく。

「何だか信じられないよ。君とぼくが結婚するなんてさ」

「わたしも信じられない。わたしたち、本当に子供だったものね。あなたが見習い家具職人、わたしが駆け出しの小説家で」

「初めは君のこと、大好きな小説を書くすごい小説家だとしか思ってなかったからなあ」

「そうね。あなたそんな感じだった」

「それからぼくは君のこといつの間に好きになって」

「わたしも同じよ。いつの間に好きになったの」

「大好きな君がぼくの奥さんになるんだよ。信じられない」

 ピイは顔を熱くする。シムリの正直さは子供のときから相変わらずだ。

「わたしも信じられない。夢じゃないかって、時々思うの」

「ぼくら、どうなるのかなあ」

「どうって?」

「うーん。何か変わるのかな」

「変わるのかしら」

「変わりたくないから、君はそのままでいてね。ぼくも変わらない」

 シムリは笑った。ピイも笑った。ピイは一瞬だけ、怖くなった。


「それじゃあ、これはどう?」

「これはレースが多すぎるわ。わたしに似合わないと思うの」

「これは?」

「襟が開きすぎてるわ。これだと派手なネックレスをかけなきゃいけない」

「どんなのがいいの?」

 背の高い肌色ねずみのイリアが、首をかしげてゆったりと聞いた。ピイは困り果てた顔でドレスを見て、

「どんなのがいいのかしら」

 とつぶやいた。ここは街のドレス専門店。ドレスを売るだけでなく、貸し出しをしてくれる店だ。壁際にずらりと白いドレスが並ぶこの一角は、ウェディングドレスだけが置いてある。

「永久に決まらないわよ、このままじゃ」

「イリアはどんなのを着たかしら。確かシンプルな、細いシルエットのドレスだったわね。素敵だった」

「人のドレスを参考にしてる場合じゃないわよ。あなたのドレスでしょう?」

「だって、全然イメージができないんだもの」

 イリアが少しため息をついて笑う。

「いいわ。シムリが来てから決めればいいんだもの」

「そうだけど……」

「あなた、こういう風に自分のイメージが掴めなくなるのは久しぶりじゃない?」

「え?」

「昔は自分のことが見えなくて、いつもおろおろしてたわ、あなた。他人の目を気にしてばかり。でも、いつの間にかそうじゃなくなったでしょう?」

「そうね。そうかもしれない」

「大人になったのね。でも、どうしてまたそうなってしまうの? 肝心の結婚式なのに」

「そうね……」

「もしかして、結婚が怖い?」

 ピイははっとしてイリアを見た。イリアは穏やかな表情でピイを見ている。

「わたしは」

「やだ、ピイじゃない」

 聞き覚えのある二重唱に、ピイは驚いて振り向いた。双子の姉妹、マリイとミリイだ。白地に茶色いぶち模様、つばの広い帽子をかぶっている。ピイは懐かしくなる。しばらく会っていなかった二人だ。今までどうしていたのだろう。

「二人とも、何しに来たの?」

「何しに来たの、じゃないわよ」

 ミリイが気の立った表情でピイに噛み付く。

「わたしはマリイに付き合って来ただけ」

「あらミリイ」

 今度はマリイが落ち着いた顔で声を上げる。

「あなたもドレスを見に来たんでしょう?」

「どうして?」

 ピイが吃驚して思わずそう言うと、マリイは以前とは全く違った態度でこう話した。

「わたしたち、二人とも結婚するのよ。お父様が決めた相手だけれど、素敵なひとたち。お相手はやっぱり双子で、背が高くて、ハンサムで、優しいの。悪いわね、ピイ。あなたのお相手より素敵なひとを見つけてしまって」

 全く嫌味を言っている自覚のなさそうなマリイをよそに、ミリイは突然大きな声を出す。

「全然素敵なんかじゃないわ。変な顔だし、優しくないし、のっぽだわ。わたしは結婚なんかしないもの。ピイ。シムリと結婚できて幸せでしょうけど、これだけは覚えておいてね。あんた、シムリには全然似合わないわ。地味でつまらないあんたなんて、シムリだって退屈するわよ。わたしはシムリが可哀想だと思うわ。あーあ、お気の毒」

「ミリイ、やめておきなさいよ」

 マリイが困った顔でとめに入る。ミリイがマリイをにらむ。

「マリイはいいわよね。あの変な許婚を好きになれたんだもの。わたしは好きになれないわ。あんな奴ら、いなくなっちゃえばいいのよ」

「いい加減にしなさいよ!」

 マリイがとうとう怒った。ミリイの顔をじっとねめつける。

「あなたの婚約者を悪く言うのはいいわ。でもわたしの婚約者だけはやめてよね」

「あんたの婚約者は頭が悪くて見た目も悪いわ。最悪なことにわたしの相手もそっくり。好きになれたあんたが不思議でならないわよ」

 いきなり、マリイの手がミリイの頬を叩いた。ミリイが目を吊り上げてマリイを見る。

「痛い! 何するのよ!」

「あんたが悪いのよ!」

「ねえ、あなたたち」

 激しい応酬の途中に、おっとりしたイリアの声が混ざりこんだ。ぼんやりとやり取りを見ていたピイははっとする。

「お店の人のご迷惑だから出ていきなさい」

「何よ! あんたは関係ないでしょ」

 ミリイがイリアに突っかかる。マリイはミリイをにらみつけている。

「関係あるわ。この場でゆっくりと相談をしたいお客の一人なんだもの。あなたたちは迷惑よ」

 イリアが言うと、マリイとミリイは唇を尖らせて、揃って出て行った。

「安っぽい店! 二度と来ないわ」

 マリイが捨て台詞を吐く。

「わたしはウェディングドレスの店自体もう来ないわよ」

 ミリイが同じような調子で嫌味を言う。

「じゃあね、ピイ!」

 二人で同じことを言って、にらみ合いながら二手に別れ、やがてピイからは見えなくなった。

 ピイは呆然としている。しばらくして、つぶやいた。

「ミリイはまだシムリのことが好きなのね」

 イリアはうなずく。

「そうみたい」

「わたしの結婚って、ミリイの不幸の上にできてるのね」

「それはどうかしら。ミリイは不幸なの?」

「不幸でしょう? シムリはわたしと結婚して、ミリイは好きじゃない相手と結婚するのよ」

「あなたは優しすぎるわ。そうでなくても、気にしすぎよ」

「そうかしら」

 ピイが床を見つめて考え事をしていると、店のベルの音が鳴った。顔を上げると、嬉しそうな表情のシムリが、急ぎ足でやって来ている。イリアがささやく。

「わたしはいなくなるけど、今考えてることを態度に出しちゃだめよ」

 ピイは一瞬不安な顔をして、すぐに笑顔を作った。こうしなければならない。シムリの幸せに水を差すようなことをしてはいけない。

「イリア! 久しぶり」

 シムリは二人の元にたどり着くと、まずイリアに挨拶をした。イリアがゆったりとした笑顔で応える。

「ピイだけじゃなく君にも教えたいことがあるんだ。ちょっとの間話を聞いて」

 シムリは興奮気味に交互にピイとイリアを見た。イリアが答える。

「いいわよ。何?」

「なんと、春の品評会に出した椅子が、最優秀賞を獲ったんだ!」

 シムリは目を輝かせてこぶしを胸の前に出してガッツポーズを取った。ピイは今まで考えていたことを完全に忘れて、シムリに近寄る。

「本当に?」

「うん。今までいつもいいところまで行っててなかなか獲れなかったけど、とうとうやったよ。ぼくはこれから『グイルの弟子』じゃなく、『最優秀賞を獲った家具職人』になる。まあレッテルが貼られることには変わりないけど、親方の威光なしでやっていけるようになるよ」

「よかったわね」

 イリアがそう言うと、ピイは涙が出てきた。

「本当によかった」

「泣かないで、ピイ。笑って祝福してくれよ」

 シムリを見ると、幸福に満ちた顔をしている。ピイは笑顔でシムリに抱きつき、

「おめでとう」

 とささやいた。シムリはそれを抱きしめ、嬉しそうな声で、

「ありがとう」

 と言った。離れて微笑み合う二人に、イリアはさよならを言って店を出て行った。

「これからまた忙しくなるんじゃない?」

 ピイが言うと、シムリは得意げな顔で、

「実は取材の依頼がばんばん来るんだ」

 と答える。

「有名になるのね」

「そうさ」

 シムリは歌うようにそう言って、ふと考える顔をした。

「そういえばミリイに会ったよ。彼女、結婚するらしいって噂を聞くけど、もしかして店に来た?」

 ピイは冷水を浴びせかけられた気がした。さっき考えていたことが思い出されてくる。ミリイはシムリのことが好きだ。ミリイは不幸。この結婚はミリイの不幸の上に成り立っている。

「ピイ?」

「何?」

「どうかした? もしかして、彼女に何か言われた?」

 心配そうなシムリに、ピイは、

「何にも」

 と笑って見せた。

 シムリに送られて家に帰り、シムリがいなくなると、ピイはどっと疲れが押し寄せて来るのを感じた。そして、漠然とした不安を胸に、小説の続きを書き始めた。

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