第3話 プロポーズ

 次の日、ピイの家に行くと、ピイは一人で泣いていた。ルウは駆け寄って、椅子に座ったピイの足元にひざまずいて手を握る。

「どうなさったんです」

 ピイははらはらと涙をこぼしていた。何も言えないようだ。

「わたしの送った宝石が、何かご迷惑を?」

 ピイは首を振る。潤んだ声でつぶやく。

「あの宝石と手紙は、皆で見ました。シムリはそれについては何も言いませんでした。ただ、微笑んで、『君を愛してるよ』と言ってくれました」

 ルウはシムリの自信に苛立った。あのときあれほどに取り乱した自分と比較すると、雲泥の差だ。

「ただ」

「ただ?」

「婚約指輪をなくしたんです。あれは宝石を傷つけないようにと時々外して宝石箱に入れて、鏡台の引き出しにしまうんです。夜、そうしていたら、朝になってなくなっていたんです。シムリは朝来てくれたんですが、そのことを知ると、とても怒ってしまって……。シムリはわたしに怒ったことがないんです。だからとても悲しくて、申し訳なくて」

「わかりました、ピイさん。気にすることはないんですよ。警察には届けましたか?」

「いいえ」

「なら一緒に出かけましょう」

 ピイは涙で濡れた顔を拭いて、緑色のチェック模様のコートと枯れ草色のクロッシェをかぶり、器用に帽子の穴から耳を出して、歩き出した。ルウはそれをエスコートする。

 外に出て、車に乗せる。二人は警察に行って届けを出して、レストラン街に向かった。

「わたしの店でチーズを召し上がりませんか? 元気が出ますよ」

「でも、リンと約束しているから」

 車の中で、ルウはにっこりと笑ってピイの手を握った。

「彼にばれないようにすれば、大丈夫」

「ドレスアップ、していないし」

「わたしがドレスを貸しましょう」

「でも」

 何か言おうとするピイをさえぎり、ルウはピイを車から引っ張り出した。レストランの裏口から入ると、ルウの部下たちはすぐにピイのための緑色のドレスを持ってきて、着せた。絹のドレスを着てルウの前に現れたピイは、いつもとはまた違って美しい。ルウは惚れ惚れとする。

「さあ、行きましょう」

 歩くだけで注目を集める。それはそうだろう。この店の帝王であるルウが歩いているのだ。隣にいるピイもちらちらと見られて、恥ずかしそうにしている。ルウは誇らしげに歩く。あのピイが自分の店にいる。しかも自分の連れとして。

 席に着くと、一番上等のブルーチーズを頼む。

「ブルーチーズは赤ワインに合うんですよ」

 ルウはにっこりと微笑む。ピイは少しそれに応える。ルウは満足して嬉しそうにする。チーズを食べながら、二人は向かい合う。

「わたしの母は、わたしがこんなに有名になるとは思っていなかったでしょう」

「それは、どういう?」

「わたしは農家の三男坊で、貧乏人でした。まだ少年のうちに都会に飛び出して、料理人になったんです。それから独立して、店をどんどん出して、そして今の栄光があります」

「お母様はお元気ですか?」

 ルウは一瞬微笑みを絶やした。

「わたしが出て行ってすぐに水風船病で亡くなりました」

「まあ」

「母は本当に素敵なひとでした。優しくて、かわいらしくて。あなたによく似ているんです」

「まあ」

 ピイが困ったようにうつむく。

「母を愛しているように、あなたを愛していますよ、ピイさん」

「そのことですけれど、わたし」

「ゆっくりでいいんです。お願いですからわたしを愛してください。お願いです」

 ルウがピイの手を握ると、周囲のひとびとが二人を見た。ピイが困惑したように辺りを見回す。

「あなたに愛されたいんです」

「わたし」

 ピイが腰を浮かした。ルウは必死になって、愛しています、誰よりも好きです、と声に出した。ピイはうつむく。

「わたしはシムリに愛されなくなるのかしら」

 また座る。食事を始める。食事は沈黙に支配された。ルウはシムリのことが本当に憎たらしかった。

 車で帰ろうと二人で歩いていると、子供に指を指された。

「ママ、あの二人、おんなじ帽子を被ってるね」

 母親は、違う帽子じゃない、と笑った。すると子供はこう言う。

「おんなじフェルトじゃないか」

 母親は、あら本当、と言って、二人を見、そのまま行ってしまった。

「あの、ルウさん」

 ピイのおずおずとした声。

「何でしょう」

 少し自信のなさげなルウの声。

「ラーさんのところで帽子を作られたんですか?」

「そうです」

「素材が一緒ですね」

 ルウはそう言われると、かえって自信が湧いてきた。彼はピイにこう言った。

「ピイさんと同じ素材で作ってくれるように頼んだんです」

 ピイは絶句した。そして、またおずおずとこう言う。

「シムリのハンチング帽も同じなんです」

「え?」

「このクロッシェ、わたしのためにシムリが頼んで作ってもらったものなんです。おそろいで」

 ルウはぼんやりしていた。シムリがピイのために作った? 何を? この帽子を? あのハンチング帽とおそろい? ということは、自分はシムリともおそろいだということになる。

「ラーさん、どういうつもりなのかしら」

「あの、ピイさん。お宅にお送りいたします。わたしは用事ができましたので」

「そうですか?」

 ピイが首をかしげる。ルウはピイのこの愛らしい仕草に気づかないほどに、怒りで胸が煮えくり返っていた。

「どういうことなんです?」

 ピイを帰したあと、ルウはラーの帽子だらけの工房に行くなり怒鳴った。ラーはにこにこと笑っている。

「何を笑っているんだ」

「あなたも悪いひとですね」

 にっこりと、ラーは笑った。ルウは足を踏み鳴らした。

「悪いのはあなたでしょう。わたしは恥をかきました」

「ピイさんの指輪を盗んだりして、悪いひとだ」

 ぎくり、とルウは黙った。何故知っているのだ?

「わたしは記憶力だけでなく、推理力も優れているんです。あなたのそのポケットの膨らみ、ピイさんの宝石箱でしょう?」

「そんなことは」

「あちらこちらで大騒ぎですよ。ピイさんの指輪がなくなったって。あなたが来てからだ。ピイさんはあの指輪を本当に大事にしていたんですからね。そう簡単になくなるわけがないんですよ」

「わたしは盗んでいません」

「あなたの部下がやったのでしょう? そのほうが疑われませんからね。あなたは悪知恵が働くなあ」

 ラーは相変わらずにこにこ笑っている。ルウは力なく、首を振っている。

「あなたがここに来たとき、このひとは何かしでかすな、と思ったのですよ。意思が強そうで、プライドの高そうな、婚約者のいるピイさんに恋する男。帽子の冗談をやって正解でした。あなたにはその程度の罰ではまだまだ足りないようですけどね」

「わたしは、何としてもピイさんと結婚します。邪魔をしないでください」

 体中に冷や汗をかいたルウは、工房を飛び出した。そのときも、ラーは笑っていた。

 ラーが誰かに言いふらす前に、ピイをシムリから奪おう。何としても。

 冷たい風がびゅうびゅうと吹きつける。この職人街にシムリはいる。シムリが帰る前にピイの家に行かなければ。

 ルウはピイの家に急いで行って、ピイを驚かせた。ルウはドアが開いた途端、ひざまずいてピイの手に口付けをした。

「結婚してください」

 ピイは黙っている。見上げると、ピイははらはらと泣いていた。

「結婚してください。愛しています」

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