訪問者

第1話 レストラン王の一目ぼれ

 ここはとある都会の街のビルの最上階。乳白色をした大理石の壁と床、その上に敷かれた広いふわふわの黒い絨毯、同じ色の大きなソファーと樫のテーブル、そしてきらきらと輝く夜景を臨む巨大な窓、揺り椅子。

 揺り椅子に体を埋めた肌色の毛をしたはつかねずみは、新聞を読んでいた。体をゆらゆら揺らしながら。こうすると安心する。母の腕の中にいるようで。

 ところが彼は、そのとき違うことを考えていた。

「ふうん」

 独り言。

「桜の木ピイっていうのか」

 彼は新聞の書評欄を見ていた。そこでは『百年の旅』という冒険小説のシリーズが紹介されている。「実に奇妙な冒険譚」、「著者の想像力は果てしない」、「整然とした文章」、「ユーモア」、「二十巻に渡っても衰えぬ面白さ」。最後に、『百年の旅』シリーズの著者、桜の木ピイのはにかんだような表情の写真。

 彼はじっとその白黒写真を見つめた。優しそうな、かわいらしい女性。黒くて丸い目に、小さな鼻と口。誰かに似ているな、と思う。

「誰だっけ」

 揺り椅子に勢いをつけて絨毯の上に跳び下りると、彼は首をかしげた。しかし、それにしても。

「なんて素敵な女性なんだろう」

 彼は口元をほころばせた。早速この書斎の奥にある樫の机のところに行き、装飾過多な白い電話の受話器を手にする。新聞を見ながら番号を回す。しばらくベルの音を待って、流暢に話し出す。

「もしもし、わたしは『ボン・シェール』のオーナーで、梅の木ルウと申すものです。ええ、ええ、そうです。実はあなたがたの新聞記事に関心がありまして。ええ。桜の木ピイ氏のことなんですけれど、住所はわかりますか? わかるなら教えていただきたい」

 ここでルウは、しばらく黙った。すると相手がまた出たようだ。ルウはまた無表情に口を開く。

「ええ、ええ。何だ、そんなに遠くないじゃないか。車を飛ばせばすぐだ。え? 何の用事かって? あなたには関係ない。じゃあ、ありがとうございます。さようなら」

 受話器を置くと、ルウは灰色の上等なベストの上に同じ色のジャケットを着、黒いフロックコートをかぶせて部屋を出ようとした。

「おっと」

 突然足を止める。

「明日は仕事だった」

 仕方なく、また机に戻って手紙を書いた。真っ白な便箋に、黒い万年筆を走らせる。

『桜の木ピイさん、こんにちは。わたしはあなたのファンです』

 ルウは首をひねる。これは嘘だ。そう思ったのだ。しかし、こう書くしかない。

『あなたの家に伺ってもよろしいですか? ぜひとも直接お話したいことがあるのです』

 突然すぎるだろうか。ルウは額にしわを寄せて考え込んだ。

「まあ、いい」

 そうつぶやくと、彼はこう書いた。

『わたしの名前は梅の木ルウ。レストランのオーナーです。きっとあなたもご存知のはず』

 うぬぼれが過ぎるだろうか。

『あなたがわたしを迎え入れてくださったら、わたしはあなたの街にあるわたしの店に、ご招待いたします。交換条件です。いかがでしょう』

 これはなかなかいい文だ、とにたりと笑う。

『では、お会いできる日を楽しみにしています。梅の木ルウ』

「これでいい」

 ルウは満足げな顔をして、手紙を封筒に入れた。机の上にそれを置くと、コートとジャケットを脱ぎ、揺り椅子に向かう。体を沈めると、椅子はぐらりと大きく揺れる。ルウはその揺れが落ち着くのを待ってから、自ら椅子を揺り動かし始めた。

「桜の木ピイ」

 ゆらゆらと、体が揺れる。

「素敵なひとだ」

 そのまま、眠る。一定のリズムで揺れながら。

 ルウは滅多にベッドで眠ることがない。一番落ち着くのは、この揺り椅子だからだ。母の腕の中にいるように思える、揺り椅子。

 ルウは子守唄を聞いた気がした。

『梅の木ルウさん、はじめまして。お手紙拝見いたしました。来てくださるのなら、ぜひいらしてください。お待ちしております。桜の木ピイ』

 書斎の机で手紙を開いて、優しい感じのする小さな字を読み、ルウは、レストランのことに触れられていないことに不満を覚えた。しかし、ぜひ来てくれとの言葉に満足し、にたにた笑う。電話に手を伸ばし、くるくると番号を回す。しばらく待つと、女性の声が聞こえてきた。

「二コルか? スケジュールを教えてくれないか」

 秘書のニコルが予定を読み上げる声がする。ルウはいちいちうなずき、最後に、

「明日から一週間、予定をキャンセルしてくれないか。用事ができたんだ」

 と笑った。ニコルが慌てる声がするが、ルウは気にしない。機嫌よく答える。

「君とのデートも、もうやめにしよう。え? 何でって、素敵な女性を見つけたからさ。わたしの母によく似た女性で、とても優しそうで、上品そうで。え? 君に不満があるわけじゃないよ。ぼくは君を愛してた。でも今は別の女性を愛している。それだけのことだよ。二コル。怒らないでくれ。ぼくが運命の女性を見つけたからって、嫉妬しないでくれ。じゃあ、予定のキャンセル、頼むよ」

 電話が切れた。ルウは口元をへの字にして、首をすくめた。それから、いそいそと旅行の準備を始める。白いシャツを一週間分、ヘアブラシや歯ブラシなどの身づくろいのセット、ピイの著書を一冊。ピイの本はなかなか面白かった。これで話が弾むぞ、とルウはほくそ笑む。それだけを皮のスーツケースに入れると、彼はまた電話をかけた。

「ああ、ニコルか? 悪いが桜の木ピイさんが住む街で一番上等のホテルを予約してくれないか? ん? 何をぐずぐず言ってるんだ。君だってわたしの秘書だろう。ああ、それでいいんだ。じゃあ、頼むよ」

 ルウは目をくるりと回して、灰色の山高帽を被り、スーツケースを持って歩き出した。書斎を出ると、広い廊下。真っ直ぐ行けば、観音開きの玄関ドア。ルウは振り向いて、誰一人いない広い部屋を眺めた。こんな部屋より、彼女の元にいるほうが何倍も楽しいだろう。

 絨毯の敷かれた短い廊下を歩いて、ルウ専用のエレベーターに乗る。降りながら、考える。彼女はどんな声で話すのだろう。どんな仕草をするのだろう。楽しみでならない。

 空想に浸っているうちに、エレベーターは一階に着いた。外へ続く通路。この横は、ルウのレストランである『ボン・シェール』の本店だ。ルウはかまわず歩いて、外に出た。

 寒い。びゅうびゅうと冷たい風が吹き付ける。見上げるほどの大きなビルばかり立ち並ぶ。街行く人たちはみな着飾り、洗練された足取りで歩いていく。ルウは小さく舌打ちをした。わたしが求めているのはこういうものじゃない。もっと素朴で、優しくて、そう、母のような。そう思って、ルウは待たせてあった黒い車に乗った。

 きっと、桜の木ピイは母のようなひとだ。優しくてか弱くて、守ってあげたくなるような。


 ピイの住む都市のレストラン街に程近いホテルに荷物を預けると、早速ルウはピイの元に向かった。黒い高級車で通りすぎていくルウを、レストラン街のひとびとは物珍しそうに見ている。ここらは田舎だな、とルウは思う。しかし、懐かしいものだ、とも思う。

 枯れ草の真ん中を通る道を行くと、小さな街に出る。桜の木ピイの家は、その先のほうにぽつりと立っているらしい。こんな不便なところに住んで、不満はないのだろうか、と思う。

 背の高い枯れ草の続く道を曲がってすぐに、赤い屋根の小さな家が現れた。あれが桜の木ピイの家だろうか。胸が高鳴る。

 広い庭の一角に車を停めても、誰も出てこない。いぶかしく思ったルウは、車から降りてペンキを塗ったばかりの真っ赤なドアをノックした。

「はい」

 ややか細い声が聞こえて、ドアががちゃっと鳴る。ルウは笑顔を作る。ドアがゆっくりと開く。白い毛、大きな耳、丸い目。そういうものが一気に目に飛び込んできた。

「愛らしい」

 ルウは桜の木ピイの優しげな笑顔を見て、そうつぶやいた。ピイが首をかしげる。

「今、何と?」

「いいえ。何でもありません。はじめまして。この間お手紙を差し上げた、梅の木ルウです」

 ピイが笑顔を深める。

「梅の木さんですね。とっても洗練された方だからびっくりしてしまいました」

「どうかルウとお呼びください。桜の木さんとはお近づきになりたいのです」

「あら、そうですか? なら、わたしのこともピイとお呼びください。お友達はみんなそう呼ぶんです」

「じゃあ、ピイさん、よろしくお願いします」

「こちらこそ。寒いでしょう? お入りください」

 ピイはくるりと後ろを向いた。腰で結ばれたワンピースのリボンが軽く揺れる。今日のピイは枯れ草色のワンピースに、こげ茶色のショートブーツという格好だった。地味な色だけれど、季節感があって野暮ったい感じはしない。

 暖炉で暖められた部屋にある、桜材の、使い込まれたテーブルに着くと、ピイは温かいハーブティーを出してくれた。それを飲みながら、彼女はコーヒーを飲まないのだろうか、と思った。ピイは台所でお茶菓子を探しているらしい。がたごと音がする。

 それにしても、と彼は思う。

 彼女の仕草の優雅さ。ゆっくりとしていて、せかせかしていない。指の先まで上品だ。彼女は本当に素晴らしい女性だ。恋人はいるのだろうか。

 ハーブティーが半分になったころに、ピイはやっと出てきた。クッキーを皿に盛っている。

「これ、お友達と一緒に焼いたんです。お口に合うかしら」

 ルウは嫌な予感がしたが、目の前に置かれたシンプルなクッキーを手に取った。チーズの匂いがする。

「ルウさんは『ボン・シェール』の経営者でいらっしゃるんですよね。そのお友達がこちらにあるお店にしょっちゅう通ってるんですよ」

「光栄だな」

 匂いがひどい。見た目も未熟だ。しかし、ぱくっと一口、食べてみた。ゆっくりと咀嚼する。

「なかなかですな」

「本当に? 嬉しいわ」

 ピイが手を合わせて喜ぶ。しかしルウは、口に合わないチーズ・クッキーに必死に耐えていた。

 彼女には味覚のセンスがないらしい。いや、一般的には普通だろう。けれど自分の口には合わない。それに「友人」が『ボン・シェール』に通っている、ということは、彼女は通っていないということだ。これは何としても店に連れて行ってやらなければならない。

「ピイさん、わたしの店には行かれたことが?」

 何気なく、尋ねる。ピイは少しうろたえる。

「ごめんなさい。行ったことがないんです。ご飯はいつも自分で作るものですから。だからお手紙にも何て書けばいいのかわからなくて、お店のことは書けなかったんです」

 正直な女性だ。ルウはまたピイを好ましく思い始める。こういう素朴な女性こそ、素晴らしいのだ。都会の、虚飾に満ちた女性はもう飽き飽きだ。

「それじゃあ、わたしの店にお連れしますよ。明日はいかがですか?」

「明日は、約束があって」

「どなたとの約束ですか?」

「それは」

 そこに、元気のいい声が飛び込んできた。少年の声だ。

「ピイ! やったよ!」

 見ると目の前の赤い出窓の向こうで、枯れ草色の少年がぴょんぴょん跳んでいた。

「まあ、リン」

 ピイは立ち上がり、出窓を開いた。びゅうっと冷たい空気が入り込んでくる。

「どうしたの?」

「あのね、あのね」

「寒いから中に入りなさい」

「わかった」

 窓から、ぴょん、と飛び込む。とても身軽だ。

「ドアから入ればいいのに。それで、どうしたの?」

 ピイは困った顔をしたものの、慣れっこなのか大して気にしていない。

「ぼくの書いた小説が、出版社で採用されたんだよ!」

 リンは大騒ぎだ。歯をがちがち鳴らしながらまた同じように飛び跳ねる。ピイの表情がみるみる明るくなる。

「本当に?」

「本当だよ! 今度雑誌に載せるって」

「あの短篇、よくできていたものね。わたしもとっても嬉しいわ」

 ピイが興奮気味に顔を両手で挟む。

「これでぼくはピイのライバルだよ。でもさ、でもさ、お金が入ったんだ。短篇だから大したことがないけど。これでピイを『ボン・シェール』に連れて行けるよ。本店は無理だけど、ユウリやイリアが行ってる店には行ける。明日、行かない?」

 リンは目をきらきらさせてピイを見ている。ピイは嬉しいのと困ったのがない交ぜになったような表情で、黙っている。

 ルウは咳払いをした。ぱっと、リンが振り向く。とたんに不審そうな顔をする。

「このひと、誰?」

 誰とは失敬な、と思ったが、ルウは黙っていた。ピイが慌ててルウの元に近寄る。

「ごめんなさい、ルウさん。この子は小説家になったばかりの、リンっていうんです。小さい頃から仲良くしてるんです。そして、リン。このひとは『ボン・シェール』のオーナーの、梅の木ルウさんよ」

「本当に?」

 目を輝かせるリン。ルウは少し誇らしげな気分で、胸を張る。

「はじめまして、リン君。わたしの店のファンなのかい?」

「小さいころ、ひとかけのチーズを食べたときからファンです。ずうっとずうっと、ピイをお店に連れて行きたかったんですよ」

「どうして、ピイさんを?」

 ルウが意外に思ってリンを見ると、リンはがりがりと頭を掻いた。

「小さいときは、ピイと結婚したいくらい好きだったんです。それで気を引こうと『ボン・シェール』に連れていく約束をして。今はそんな子供っぽい感情はなくて、純粋に友達として好きだし、小説家として尊敬してます。だから約束くらい実現したいなあって」

「でも、君もわたしもピイさんを店に誘ったのに、ピイさんは都合が悪いようだよ。どうしてだろうね」

「そうですね。どうして? ピイ」

 二人がピイのほうを向くと、ピイは照れたように笑った。リンがそれを見て、がっくりと肩を落とす。

「なあんだ。シムリかあ」

「シムリ?」

 ルウが訊くと、リンは残念そうに笑って、

「ピイの婚約者です」

 と答えた。ルウは頭を叩かれたような衝撃を受けて、思わず先程のクッキーを口に放り込む。これは口に合わないものだった、と気づいたルウは、やっと我に返った。

「婚約者がいらっしゃるんですか?」

「ええ」

 ピイははにかんで、左手の指にはめたピンクサファイアの指輪を見せた。きれいな指輪だ。けれど自分ならもっと立派な宝石を彼女に与えることができるのに。そう思ったとき、ルウはいつの間にやら自分がピイを妻として迎えたがっていることに気づいた。

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