リンの手紙
第1話 リンの家出
「まあ、またなの?」
ピイは新聞を読んで、ため息をついた。子供の神隠し事件が頻発しているというニュースを見つけたのだ。夏のこの時期になると、何故か起きるのだ。
「怖いわ」
ピイは新聞を机の上に置いた。わたしに何かできればいいのに、と思うが、彼女は犯人探しをすることには向いていないし、ましてや子供がいなくなる理由すらわからないのだ。新聞を視界に入れないようにして、忘れることしかできなかった。こういうとき、いつもピイは情けない気分になる。
今日はシムリとのデートの日。はつかねずみの小説家であるピイは、執筆中の小説をきりのいいところまで仕上げて、出かける準備を始めていた。
まず、仕事着である茶色い無地のワンピースを脱いで、真新しい、白地に青い水玉模様のさわやかなワンピースに着替える。耳には貝殻の耳飾り。首には真珠の首飾り。靴は真っ青なサンダル。女性たちに流行っているひげの化粧は、水色だ。筆で一本一本丁寧に塗って、手でぱたぱたとあおいで乾かす。鏡台の前に座ってするその作業に、ピイはもう慣れた。もう自分におめかしは似合わないなどと、自信のないことは言わない。
鏡に向かって、笑顔の練習。一人でいるときはにっこりと完璧に笑えるのに、シムリの前だと照れて、うまく笑えない。大声も出せない。ピイは大人しい少女なのだ。
もうすぐ大人になるのに。
ピイはそんな自分に少し呆れている。
シムリが迎えに来る前にと、ピイは掃除を始めた。以前シムリがピイのために作ってくれた、れんげの模様の入った机を特に入念に。原稿と新聞を片付けて、ふきんでよく拭いて。机の横の大きな本棚もはたきではたく。鏡台の上を片付けて、鏡を拭く。床をモップでよく磨いたら、シンプルな部屋はすっかりきれいになった。
よし、完璧。
それでもまだシムリが来る時間にはならない。少し張り切って早起きしすぎたかしら、と思う。シムリとのデートの日は、いつもこうなる。
だって、楽しみで仕方がないから。
ベッドに座って目を細め、くすくす笑う。嬉しくてたまらない。シムリと会うのはいつもこんな気分になる。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。ピイははっとして立ち上がる。どきどきしながら、玄関のドアを開く。誰もいない。
変なの。
そう思って、ドアを閉じようとした。すると、下のほうから甲高い声が聞こえてきた。
「何でドアを閉じるんだよ、ピイ」
「え?」
見下ろすと、小さな小さなかやねずみの子供が立って、ピイを見上げていた。口を尖らせて、文句を言う。
「ぼくが来たんだから入れてよ。何だよ、せっかく来たのに」
「あの」
ピイは戸惑いながら子供に聞く。
「あなたは、どこの子?」
途端に子供はかんしゃくを起こして、
「ピイの馬鹿!」
と怒鳴った。
「ぼくはロンとランの息子、リン。知らないなんてひどいや」
「ごめんなさい」
ピイはしゃがんでリンを見た。枯れ草色の、小さな男の子。
「編み靴職人のロンさんの息子さんね。かやねずみさんたちの街はよく通るけど、あそこはひとが多くて混乱するの。あなたくらいの小さな子もたくさんいるしね」
「ぼくは小さくない!」
リンがまたかんしゃくを起こした。
「かやねずみが皆小さいと思って馬鹿にしてるだろう。ぼくは同い年のかやねずみの子供の中で一番背が高いんだぞ! そのうちピイのことも追い越してやるんだから」
「そうね。ごめんなさい」
慌ててそう答えたあと、ピイは首をかしげる。
「そういえば、あなた、どうして家に来たの?」
すると、リンはむっつりと黙り込んでしまった。ピイは困り果てて、リンを招き入れる。
「とにかく、中に入りなさい。外は暑いわ」
外はもうれんげの季節を通り越して、様々な青い草で生い茂っている。リンも、汗で毛を湿らせていた。
仕事部屋でもあり寝室でもあり居間でもあるピイの部屋の桜材のテーブルに、冷たいハーブティーを二人分置く。リンは高さの足りない椅子に座って、まるではつかねずみの赤ん坊のようにカップを両手に持ってごくごくと飲む。かわいいな、とピイは微笑む。
リンは辺りを見回した。
「ここがピイの仕事部屋?」
「そうよ」
「ふうん」
また勢いよくお茶を飲む。目はきょろきょろとあちこちを見ている。
「ピイってもっと立派な家に住んでると思ってた」
リンが意外そうに言うので、ピイは笑った。
「どうして?」
「だって、小説家じゃないか」
「小説家は立派な家に住むものなの?」
「そうだよ。有名な小説家は大きなプールつきの家に住んでるんだよ」
ピイはくすくす笑う。
「わたしはあんまり有名じゃないもの。それに、この家が気に入ってるの」
「ふうん」
お茶は空になってしまった。ピイは新しく注いでやりながら話しかける。
「お父さんとお母さんは? 今何してるの?」
するとリンはじろりとピイをにらんだ。
「パパとママの話はしたくないな」
「どうして?」
「だって、ぼく、家出してきたんだもの」
「えっ」
ピイが目を丸くする。リンは話を続ける。
「パパもママも、赤ん坊に夢中なんだ。ぼくのことなんか気にかけてもいない。だから家出したんだ。これからはピイの家に住むんだ」
「リン、それはできないわ。今からお父さんたちに会いに行きましょう。わたし、話してあげるから」
「やだよ」
リンは椅子を飛び降りて、ピイの本棚に駆け寄った。下のほうにあるピイの書いた本を開いて、座って読み始める。ピイは困り果てていた。一体、どうすればいいのだろう。
考え込んでいると、呼び鈴が鳴った。ピイがはっとして歩き出したが、リンも本を置いて立ち上がる。
「ぼく、出るよ。これからはここの住人だもの」
駆け寄って、うんと背を伸ばして、ドアノブを回す。そこには黒ねずみのシムリが立っていた。まじまじと、リンを見つめている。
「リン?」
「シムリ!」
リンはシムリに飛びついた。シムリはにっこり笑ってリンを抱き上げると、ピイの元に歩いてきた。ピイは少し困った顔だ。
「どうしてリンが?」
「家出してきたらしいの」
「ぼく、ここに住むんだ」
リンが元気よく言うと、シムリも驚いた顔をした。
「そうなの?」
「そうだよ!」
ピイが答える前にリンが口を挟む。シムリはちょっと考える顔をして、すぐに事情がわかったらしく、ピイにウインクをした。
「仕方ない。リン、ぼくのピイなんだから迷惑かけるんじゃないよ」
「ピイはシムリのものなの?」
リンが無邪気に訊くので、ピイは顔を熱くした。答えないピイを見て、リンは、
「ふうん」
と口を尖らせる。
「でもこれからはぼくのピイだよ。シムリは遊びに来るだけで、ぼくはピイと住むんだから」
ははは、とシムリが笑う。
「取られちゃったわけか。わかった。でも大事にするんだよ」
「うん」
リンはうなずいて、シムリの腕から降りて、また本を読み始めた。シムリがテーブルについて、ピイにひそひそと内緒話をする。
「君はリンの相手をしていて。ぼくはロンとランを呼んでくる。君のこと、ずいぶん気に入ってるみたいだから逃げ出したりはしないよ」
しかし、ピイは少し自信がなかった。ピイは子供の相手をすることに慣れていないのだ。
「シムリ、シムリが家にいて。わたし、ロンさんたちを呼んでくるから」
「そう?」
シムリは首をかしげると、うなずいて、
「わかった」
と言った。
「行っておいで。きっとロンたちも探してるよ」
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