第3話 ナリーの言葉
ナリーの家は、じめついた沼のそばにある。辺りに同じねずみの気配はない。
大きなヒキガエルが三匹、ナリーの家の前でひそひそと話をしている。けれど、ナリーは気にしない。たかがヒキガエルの言うこと。第一何て言っているのかわかりはしない。
ナリーは泥と絵の具にまみれた、ただでさえ厄介な模様の体を手入れしたりしない。三毛ぶち模様の地図模様。さらにひどく汚れているその姿は、どこか不気味だ。
だが、ナリーは不思議に人望がある。この訪れにくい沼のそばの家、土壁にシダ葺きの屋根の狭苦しい家にねずみたちが訪ねてくるのは、ナリーが頼れる人物だからだろう。
ナリーに何か相談すると、必ず不思議な返事がある。占い師のように不確かな、抽象的な言葉。しかし何故かねずみたちはそれに納得をし、自分の決意を後押しされたかのように感じるのだ。
小説家のピイが小説家になったのも、ナリーの予言めいた言葉のお陰だ。ピイはそれによって何もないところから小説家の道を見つけた。
頼りなかった、内気な子供のピイが。
ナリーはすみれ煙草をふかした。香りだけで、中毒性も安らぎもない。ただ何となくふかしているだけだ。ナリーはそういう意味の無いことを好んでやる。
ピイは来るだろうか。多分来るだろう。ピイに何を話そう。
ナリーはこげたすみれの煙を吐き出し、空中に振りまいた。
いいもやだ。おれのしっちゃかめっちゃかなこのアトリエを、うまいことぼかしている。いい絵になる。
ナリーはスケッチブックをがさごそ取り出した。このアトリエも、ナリーと同じで汚れている。絵の具に泥、食べ物のカス。油絵も水彩画も、あちこちに雑然と置いてある。ナリーはスケッチブックをめくる。
あと二、三ページしかない。また新しいのを買わなけりゃあ。
樫の、がっしりとした椅子に横着に座り込む。水彩絵の具を無造作にパレットに出す。水はきれいなままだ。もう三日もこのままなのだが。
ナリーは、アトリエの戸口の付近を描き始めた。煙がドアの下に吸い込まれていく様子が面白い。何か小さなものがドアの下をくぐって入ってきた。シダの枯れた先端だ。それを青い一点として絵に描く。
久しぶりだな。こんなに絵がはかどるなんて。
ドアの横の窓枠は黒だ。ところどころに油絵の具が付いていて、模様じみている。
おや、窓ガラスの向こうに誰かが見えた。新しく描き込まねば。
白いねずみと黒いねずみ。服装からして男女だ。若いな。絵になる。
こちらに近づいてきた。二股の苔の道の、こちら側を選んで。また新しく、大きく描き込まねば。
ああ、ドアの覗き窓に黒く光る少年が。また描こう。
そのとき、ノックの音がした。
「入れ! シムリにピイ」
ナリーは怒鳴った。ドアが軽そうに開く。
「ナリー、こんにちは。お邪魔するよ」
「こんにちは、シムリ」
「こんにちは、ナリー。久しぶりね」
「こんにちは、久しぶり、ピイ」
ナリーはぶっきらぼうに挨拶した。絵筆の動きはとまらない。
「よくわかったね。ぼくらだって」
シムリが不思議そうに首をかしげる。ナリーが口の端を上げて笑う。
「当たり前だ。さっきから窓の外にいるお前たちを描いていた」
まだ絵の具がみずみずしいスケッチブックを二人に向ける。ふたりはきょとんとそれを見た。
その一枚の絵には、窓の外にいる二人がこの家へと歩いてくる一瞬一瞬の姿がいくつも描かれていた。顔を見合わせ話す小さな二人。覗き窓を覗くシムリの瞳。そしてこの部屋でにっこり微笑み挨拶をするシムリと、おずおずと部屋に入ってきたピイ。シダが風で点々と移動する様子も描かれている。
「見事だな! 速くて正確な筆。君は相変わらずだ」
シムリが褒めると、ナリーは不満そうに口をゆがめる。
「未完成だ。その上落書きだよ。褒めるほどのもんじゃない」
「そうかな」
「そうさ」
シムリはナリーの絵を眺めた。ナリーは無気力にすみれ煙草の煙を吐く。
「あの」
二人の不毛なやりとりに終止符を打ったのはピイだ。シムリはきょとんと、ナリーは口をへの字にしてピイを見た。
「ナリー、とても心配してたのよ。どうして音沙汰なしだったの? それに、マールは? 見かけないけど」
ピイは首飾りのルビーを弄びながら首をかしげた。
「さあてね」
ナリーは体を起こして、吐き捨てるようにして煙草を床に落とした。
「危ないよ」
シムリが煙草を足で踏みにじる。それを無視するかのように、ナリーはそばのテーブルの上の巻紙と、枯れたすみれの花の入った皿を引き寄せた。枯れ草色の紙を取ると、細い指を動かし、思いがけない素早さで上手くすみれを巻き込み、マッチを擦って、新しい煙を吸い込んだ。
「おれはお前のほうが心配だったよ、ピイ。最後の小説の挿絵なんか描きたくもない」
シムリとピイが息を呑んだ。ナリーは知っていたのだ。
「お前の小説が大好きだったよ。風船の国、珊瑚の城、土の下で歌う吟遊詩人、待ち針で戦う女勇者。絵にするのが楽しかった。おれは悲しいよ。とても悲しい」
ナリーの鼻がぐずぐず鳴り出し、ピイはびっくりしてその顔を覗きこんだ。泣いている。
「悲しいことばっかりだ。お前はおれに挿絵を描かせてくれなくなるし、マールは死んでしまうし」
「マールが?」
シムリとピイは言葉を失った。ナリーの妻が死んだ。それを今まで知らなかった。しかしそれでやっと説明がつく。
「だから連絡がつかなかったのね」
ピイは、ほう、とため息をつく。同時に涙が溢れ出す。
死んだんだ。
マールは明るくて親切な女性で、お菓子を焼いたりレースの敷物をプレゼントしてくれたりして、ピイをよく元気付けてくれた。ナリーがピイの家に来るときはいつも一緒で、二人はとても仲のいい夫婦だった。ピイは無造作に置いてある中に、一つだけナリーが眺めた痕跡のある油絵を見つけた。マールの肖像画。痩せ型の茶色ねずみは、優しげに微笑んでいる。
「マールは、どうして」
シムリは痛ましげに尋ねる。ナリーは鼻水で煙草をしけらせながらつぶやいた。
「流行り病で、溶けて死んだ」
「水風船病か」
水風船病とは、最近流行っている謎の病気だ。いきなり体が水になり、破られた水風船のように地面に散る。
「あんな残酷な死に方はない。体は地面に溶け込んでしまうし、ひげ一本すら残らないんだ」
「お気の毒に」
「もう絵が描けない。マールがお茶を淹れてくれないんだ。だから描けない」
ナリーが陰気につぶやく。
「ピイはおれのより所だったよ。お前の小説はとても優しくて、おれを受け入れてくれる。だから絵も描ける。なのに、『お話があります』だなんて」
「それはね、ナリー、そのことなんだけど」
「でもわかってるんだよ、もう。だから平気だ」
シムリは怪訝そうにナリーを見る。
「シムリは素直なようで素直じゃない」
「なんだい、それ」
「ピイは紙風船のように潰れやすい。だけど本当は芯があるんだ」
「ナリー」
ナリーはいつもの占い師じみた奇妙な落ち着き方をしていた。
「いいか。おれはマールを失った。おれはこんなに突然に彼女を失うとは思わなかった。あれやこれや考えた。マールが死ぬ前のこと、一瞬で地面に染み込んでしまったマールの姿。マールは本当に存在したのか。夢ではなかったのか。でも、確かにいたんだ。存在したんだよ。おれを守ってくれた。おれの絵を愛してくれた。だからおれは画家でい続けられた。いいか。マールはおれを正しい方向に進ませてくれたんだ」
シムリは黙り込んでいる。ピイは静かにナリーの言葉を聞きながら、口にしたいことを秘めたままたたずんでいた。ナリーが今度は優しく話し出した。白い煙と共に、言葉は吐き出される。
「お前らは水風船のようにいきなり消えてしまう大切なものを、守らなくちゃいけないよ」
「わけがわからない」
シムリがつぶやく。
「わたしは少しだけわかった」
ピイが夕暮れのシダの森を眺めながら笑った。
「ぼくに言ってたのかな」
シムリが汚いブーツをびちゃびちゃと鳴らす。
「そうみたい」
ピイはシムリの新品のブーツで湿った苔を踏む。
「君にも言ってたよね」
シムリは目をきらきらさせながらピイを見つめた。ピイは顔を背ける。
「そうね」
シダの森は薄暗くて何か恐ろしいものが出そうだ。かび臭くて、蛙がうるさくて、ここはろくな場所ではない。
ピイは、ああ、ナリーに言いそびれてしまった、と考えていた。夜は近いし、もうここは帰り道。機会は逃してしまった。
「しばらく待ってほしいんだ」
シムリが唐突に、喉から声を絞り出すようにして言った。
「何を?」
ピイはぎくりとしてシムリを見た。シムリは恥ずかしそうに笑っている。薄暗い葉陰の下、シムリの目だけが輝いている。
「ずっとやろうと頑張ってたんだ。でもうまく行かなくて。今日だって親方に叱られて」
ピイは目をぱちぱちとしばたかせる。
「何だかね、全然わからなかったけど、ナリーの言葉でやる気が出たんだ。待ってて。頼むよ」
シムリは目を細めてにっこりと笑う。ピイはわけがわからなかった。けれど笑い返した。
「ええ、待つわ」
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