第2話 わかってしまった

 檜の涼しげな香りは、列車から鼻を出した途端に吹き飛んだ。湿った、かび臭い匂い。ナリーはこんなところに好んで住んでいる。ピイは駅舎の改札口の向こうに見えるつたの森を見て、ほう、とため息をついた。

「相変わらずのところだよね。ナリーも物好きだよ」

 シムリは、先に降りたあと、優しくピイの手を取って引っ張ってくれた。笑っている。

 シムリ、わたしに言いたいことがあるはずなのに。

 ピイは心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。苦しい。後悔の気持ちなのだろうか、と思う。

 わたしは小説家をやめたくないのかしら?

 ピイはシムリに手を引かれながら、ぼんやりと、苔むす、不潔な感じのする駅舎を通り抜ける。シムリはピイの乗車券を取って、自分の分とまとめて駅員に渡した。よれよれの制服を着た若い駅員は、面倒くさそうにそれを箱にしまって、「どうぞ」と言った。他にねずみはいなかった。列車から降りるものも、列車を待つ者も。

 寂しい駅の石段を降りながら、ピイは考えにふけっていた。

 わたしは、やめるの。小説家をやめるしか、ないの。

 この罪悪感は、ファンであるシムリをがっかりさせたから。最終巻はきっちり仕上げているし、シムリは満足してくれる。きっとそう。

 石段を降りて、地面に生い茂る苔を踏んだ。ピイの絹の靴の中に、冷たい水が滲みて、ピイは思わず悲鳴を上げた。

「どうしたの?」

 シムリが驚いた顔でピイを見る。ピイの視線をたどって、シムリは、ああ、と後悔したような声を上げた。

「気づかなかった。ごめんね」

「わたし、忘れてたわ。ナリーの家に行くときはブーツをはかなきゃいけないってこと」

 苔は道になっている。水を含んだ深緑の道の脇に、シダ類が生い茂っている。辺りに家はない。蛙の鳴き声と、この水気の多い冷たい空気だけが、ここにいるときに感じるものだ。

「靴、このまんまじゃ大変だね」

 不意にシムリが目の前にやって来て、汚れた水が滲みたピイの靴に触れた。そのときピイは初めて気づいた。シムリとずっと手をつないでいたことに。

 顔が、体中が熱くなる。どうして、シムリは列車を降りたあとも手をつないでいてくれたのだろう。

 シムリは右手をあごに添えて、ピイの足元で何か考え込んでいる。その右手は、さっきまでピイの左手とつながれていたのだ。ぬくもりと急激に冷えていく手の感覚がそう言っている。

 どうして?

「ぼくの靴、はく? 貸してあげる。ぼくは駅で適当なブーツを借りてくる」

 混乱するピイを置いて、シムリは走って行ってしまった。ピイは一人になった。

 わたしは、どうして小説家をやめたいんだっけ。マリイやミリイが羨ましくて? そんな、つまらない理由だったかしら。

 マリイやミリイに劣等感を抱いていた。彼女たちがとても華やかに見えて、自分がとても惨めに思えて。

 それだけ? わたしは小説を書くことがとても好きだったのに。小説への情熱が、終わってしまった? 本当に?

 ピイはじわじわと靴に滲みてくる水が足の毛に染み込んでいくのを感じていた。そのとき、ぴしゃぴしゃという、水のはねる足音が聞こえてきた。

「ピイ、靴、借りられたよ」

 シムリが笑って穴だらけの擦り切れた革靴をピイに見せた。

「ごめんなさい。わたし、このままでもよかったんだけど、言いそびれちゃって」

「何言ってるの。せっかくきれいな格好してるのに。これ、どうぞ」

 差し出されたのはシムリのぴかぴかのブーツだった。シムリは片方脱いで、その足にぼろぼろの靴をかぶせる。ピイは驚いて大声を上げた。

「わたし、いいのに。そっちでいい」

 シムリは一向に平気でもう片方を脱ぐ。

「何言ってるの。この革靴、汚いよ。ぼくのも大して違わないかもしれないけど、清潔だよ。どうぞ」

 シムリは靴をはき終えると、脱いだブーツを持って、ピイの足元に置いた。

「さあ、脱いで。ああ、白い毛が水に滲みて台無し。早く。はいて」

 ピイは言われるがままにシムリのブーツをはいた。温かくて広いブーツの底にたどり着いたとき、無性に泣きたくなった。わかってしまった。小説をやめたい理由も、シムリといると嬉しくなる理由も。

 シムリのことが好きなのだ。好きだから小説家をやめたくなったのだ。普通の少女のように、きれいに着飾って、何物にもとらわれないでいれば、シムリに愛されると思っていたのだ。

 わたしは、とても愚かだった。

「行こう」

 シムリが、またピイの手を握った。優しい、いつもの目をしている。ピイはにっこりと笑顔を作った。

「ええ。わたしはナリーに言わなければならないことがあるから」

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