はつかねずみの小説家
酒田青
はつかねずみの小説家
第1話 小説家を辞める
はつかねずみの小説家は、広いれんげの森の中にぽつりと建った、赤い屋根の小さな家に住んでいる。壁は真っ白な漆喰、ドアや窓は屋根と同じ赤。上から見るとただの赤い四角に見えるシンプルな形の家は、彼女の城だ。
彼女は小さくて真っ白な体にくすんだ茶色のワンピースを着て、机に向かって書き物をしていた。もうぼろぼろの、使い込んだらしい木の机だ。その上に、紙の山ができている。彼女はペンで書き物をしては、次々と紙を積み上げていく。
一枚、また一枚。スピードが速まっていく。彼女は真っ黒な瞳を紙の上に向けたまま動かさない。しかし、最後に、「了」の一文字を書くと、ペンはとまり、彼女は息をついた。
彼女は冒険小説家だ。出来上がった原稿の山は、全てねずみたちの幻想的な冒険譚。彼女は小説を書きながら、様々な人物になりきった。女盗賊。船乗り。魔法使い。誰になっても楽しかった。そう、今までは。
彼女はすっきりした気分だった。小説が完成した。だからわたしはもう小説を書かなくていいのだわ。そう思っていた。彼女の名前は桜の木ピイ。ピイは晴れ晴れとした顔で机から離れた。
部屋の奥にある鏡台に向かう。紫檀の上品なそれの上には花の模様が描かれたかわいらしい宝石箱。開くと、中には様々なアクセサリーが入っている。
ピイはすみれの形をした大きな耳飾りを両耳につけ、ルビーのついた首飾りをかけた。鏡の中の自分を見る。首をかしげて、ため息をつく。つけたものを全部はずしてしまう。
今度は茶色い服を脱いで、クロゼットの奥にしまわれていた真っ白でレース飾りのついたワンピースを頭からかぶり、薄紫の靴をはく。それからさっきつけていたアクセサリーを元通りにしてみる。また鏡を見る。ため息。
鏡台の引き出しを開いて、ピンク色の液体が入った小瓶を取り出す。蓋を開いて、液体をじぶんの長いひげに丁寧に塗りつける。目は真剣そのものだ。
ようやく全てのひげをピンク色に染め上げると、ピイはつぶやいた。
「わたし、きれいかしら?」
鏡をのぞく。じっと見つめる。段々、ピイは泣きそうになる。
全然似合ってない。
ピイは部屋の隅のベッドに走り寄り、布団に顔をうつぶせた。全然似合ってない。わたしにはこんなもの似合わない。
「ピイ」
突然、柔らかな低い声が聞こえた。ピイはぱっと顔を上げ、赤い出窓を見る。黒ねずみのシムリがこちらを覗いていた。ピイはどきどきしながら窓に駆け寄り、開いて顔を出した。
「どうしたの? シムリ。仕事は?」
声が少しだけ甲高くなる。
「もう終わったよ」
シムリはにっこりと笑った。そして、使い古した鞄の中から本を取り出した。だいぶ読み込んでいるようだ。あちこちが擦り切れている。表紙にはかすれたような風合いの、迷宮の絵。
「これ、何度も読んだよ。ピイの新刊。続きはまだ?」
ピイは少し胸が騒いだ。理由のないざわめき。
「もう書いたわ。今仕上げたの」
するとシムリが目を輝かせる。
「本当? 今書いてたの? 読みたいなあ」
「駄目よ。本になってからね」
「そうなの?」
シムリは残念そうに首をかしげる。ピイは黙り込む。するとシムリがピイの顔をじっと見て、更に首をかしげた。
「ひげに何つけてるの?」
ピイは顔が熱くなって、小さな声で、
「これ、お化粧よ」
と答えた。
「ふうん」
「似合ってる?」
はにかんで、小さな声で訊いてみる。しかしシムリは平気な顔で、
「ねえ、それじゃあ細い道を通り過ぎるときに、ひげのアンテナがきかないんじゃないの?」
と尋ねた。ピイはがっかりして、泣きそうになってきた。
「そうかしら」
「うん。ひげの機能が落ちちゃうよ」
シムリはピイの気持ちも知らずに無邪気に笑っている。ピイはシムリに合わせて微笑んでいたが、気持ちはどんどん沈んでいった。
「でも、君、今日はずいぶんおめかししてるね。すごくきれいだよ」
シムリがさらりと言うと、ピイは一瞬何を言われたかわからなかった。わかった途端、顔が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
小さく、つぶやく。シムリはにこにこしている。ピイは嬉しくてたまらない。うきうきと自分の格好を気にして、服や耳飾を触ってみたりする。しかしシムリはそれには気づかずに、何かを思い出したような顔になる。
「ねえ、ナリーは? 最近見かけないんだ。どうしてるんだろう」
ナリーはピイの小説の挿絵画家だ。歳は離れているけれど、二人はナリーととても親しい。ピイは困った顔になる。
「最近ね、ナリー、手紙に返事をくれないの」
「そうなの? それは変だね」
シムリは右手をあごに当てて考える顔になる。
「ねえ、今から一緒にナリーのところに行かない?」
「一緒に?」
「うん」
「行く」
ピイは少し嬉しくなって、家を飛び出した。シムリと一緒にどこかに行くのは、いつでもわくわくする。
「今日は親方にこってりしぼられたんだ」
ピイとシムリが石畳の道を歩き出したとき、シムリは顔をしかめてそう言った。
シムリは見習いの家具職人だ。有名な家具職人に弟子入りして、毎日毎日家具を作る修行をしている。鞄に入っているのは様々な工具類。これで家に帰っても何かしら作っていることを、ピイは知っている。
シムリの師匠であるグイルは、天才家具職人として有名だ。柔らかな曲線と直線が成す、革新的な家具たち。それでいてとても使いやすく、肌に馴染むと評判だ。
親方の作る椅子は最高に美しいんだ、とシムリはよく自慢げに話す。彼はグイルを尊敬しているのだ。
ピイもいくつかグイルの作品を見たことがある。奇抜なのに優しい印象を与える、椅子、机、箪笥、鏡台。実はピイの鏡台はグイルの作品だ。とても優雅で、ピイは気に入っている。
「ぼくが作った引き出しが下品だって。ぼくとしては最高の出来栄えのつもりだったんだ。まさかあんなこと言われるなんて」
「災難だったわね」
ピイはシムリの顔を見て、口を尖らせる。シムリは力強くうなずいた。
「そうなんだ。だから気分がくさくさして、ピイのところに遊びに来たんだよ」
「気晴らしになるといいけど」
ピイが自信なさげにつぶやくと、シムリは、
「もうなったよ」
と笑った。
ピイはまた顔が熱くなる。シムリはこうしていつもピイを喜ばせることばかり言う。どうしてだろう、と考えるけれど、答えは出ない。ただ、これだけは言える。ピイはシムリといると、幸せな気分になる。これだけは変わらない事実だ。
二人で歩くれんげの森は、どこまでもピンク色で、どこまでも広がっていた。ピイはそれに励まされるようにして、尋ねてみる。
「ねえ、シムリ。わたし、今日みたいな格好をしたほうがいいのかしら」
シムリは真剣な顔でぐいっとうなずいた。
「そうだよ。いつもそうしていればいいのに」
「そう?」
ピイの顔がほころぶ。
「君はいつも地味な服を着て、机の上で一所懸命冒険小説を書いてくれる。それはぼくのようなファンにとっては嬉しいことだ。でも、たまにはそうやってきれいな服を着て、首飾りや耳飾をつけて、化粧をして外に出かけるべきだよ」
そう熱弁したあと、シムリはピイの顔をまじまじと見つめ、
「うん、そのほうがいい」
とうなずいた。
ピイはうつむきながら、思う。これはただ正直にものを言っただけだと。シムリは真っ直ぐな少年なのだ。だから、それだけだ。
考え事をするピイの顔を、シムリが覗きこむ。
「何考えてるの? 小説のこと?」
「うん」
どぎまぎしながら嘘を言う。これが何なのか、わからない。嬉しくなったり、泣きそうになったりすることが、どうして起こるのか全くわからない。
ナリーに訊いてみよう。ナリーならわかるわ。
ピイはシムリと歩きながら、ふわふわと雲の上を行くようだった。
れんげの森を抜け、菜の花の林を抜けると、賑やかな駅が見えてきた。木で出来た、がっしりとした大きな建物だ。くすんだ緑色の、細い瓦を葺いた屋根の下には、大勢のねずみたちがいる。その間に何本かの線路が通っていて、木組みの列車が停まっているホームもある。
ピイがきょろきょろしていると、オレンジと水色の、色違いでおそろいのワンピースを着て、かわいいリボンのついた帽子をかぶった二人の少女たちがこちらを振り向いた。賑やかにおしゃべりをしていた二人は途端に黙り込み、目を輝かせ、華やかに笑いながら駆け寄ってきた。
「きゃあ、シムリ。こんにちは」
オレンジ色の少女がシムリに飛びつく。
「どこに行くの?」
水色の少女がシムリの顔を潤んだ瞳で見つめる。
この二人は双子だ。どこもかしこも似ている。二人とも、シムリに夢中だ。
おそろいの茶ぶち模様がとてもかわいらしいこの双子を見ると、ピイはとても惨めな気分になる。
「やあ、マリイにミリイ。ぼくはピイと一緒にナリーのところに行くんだよ」
シムリがにっこりとそう話すと、双子はふうん、とピイを見て、またシムリに目を移した。
「それよりシムリ、わたしたちと一緒に森に行きましょうよ。あの隠れ家で、野いちごをおなか一杯食べるの」
オレンジ色のマリイがピイをちらりと見ながらシムリの腕を引いた。ピイは隠れ家のことなど知らない。マリイはピイをのけ者にして、シムリから遠ざけようとしている。
「そうよ。ナリーは最近誰も家に寄せ付けないって話よ。行ってもしようがないわ」
水色のミリイがもう片方の腕を引っ張る。
「ねえ、シムリ」
「ねえ、わたしたちと一緒に」
「ごめん、二人とも。ナリーが人を寄せ付けないっていうんなら、なおさら行かなきゃ」
シムリは困った顔で双子を見る。二人は不満顔だ。
「ピイとも約束してるし」
双子がピイをにらんだ。ピイは控えめに目を伏せて、二人の苛立ちがなるべく早く治まるよう祈った。
「行こうか、ピイ。ほら、列車が来たよ」
シムリの声に顔を上げ、その指差す方向を見ると、確かにがたごとと木組みの列車がやって来ていた。目の前にゆっくりと停まる。
「じゃあね、マリイ、ミリイ。また今度、ピイと一緒に行くよ」
シムリはピイの背中を一つのコンパートメントに優しく押し込みながら、双子に手を振る。シムリと共に、檜の香りのする車内の柔らかい椅子に座ってから窓の外を見ると、双子はじっと窓際のピイを見ていた。不意にマリイが大きな声を出す。
「彼女、お化粧なんかしてたわよ」
ミリイがくすくす笑いながら大声で返す。
「急に色気づいちゃって」
「いつもは茶色いさえない服を着てるくせにね」
「そうそう。白い服なんか着ちゃって」
「シムリと一緒だから気取ってるのよ」
「ふん。シムリが彼女に興味があるのは、彼が彼女の小説の」
続きは車輪のぎいぎいという騒がしい音で聞こえなかった。列車は動き始めていた。ピイは泣きそうになるのをこらえていた。
そうだわ。人気者のシムリがわたしを相手にしてくれるのは、彼がわたしの小説のファンだからに過ぎないわ。
ピイは涙が粒になって落ちそうになるのを慌てて手で押さえた。
「泣かないで、ピイ」
ピイの頭に温かいてのひらが置かれる。シムリのてのひらだった。
「あの子たち、ちょっとたちの悪いところがあるんだ。普段は陽気で楽しい子たちなんだけど。許してやってよ」
シムリはピイの頭を、優しくなでてくれた。ピイは泣きそうになっていたのがすっと治まっていくのを感じた。やっと、微笑む。
「ええ、ごめんなさい、泣いちゃって」
「ひどいよね。あとで言っておくから」
シムリはそっと手を離して、笑った。
そんなこと、してくれなくていいのに。
ピイはシムリの優しさが嬉しくて、また泣きそうになる。気持ちが高ぶって、秘密にしていたことを言いたくなってしまう。
「シムリ、あのね」
「何?」
シムリがまた心配そうにピイの顔を覗きこむ。
「わたし、小説家をやめようと思うの」
がたごとという車輪の回る音がピイの耳に響く。シムリは真顔で黙り込んでいた。
「わたし、毎日お化粧をして、きれいな服を着て、マリイやミリイみたいになりたいの。だから小説はもうやめにしようと思うの」
シムリが目を伏せる。
「どうしてもなの?」
「ええ。わたしはもう充分書いてきたでしょう? もう十二冊も。やめてもいいと思うの」
シムリは沈んだ顔で考え事をしている。ピイはどきどきしながらそれを見る。重たげに、口は開いた。
「そのことは、ナリーには?」
「それは、今から。だって、大事な話があるって手紙を出したのに、返事がないのよ」
「そうか」
シムリはそれだけ言うと、黙り込んでしまった。
列車は揺れる。窓の外の景色は、明るい草花の林から暗い湿った森へと移り変わっていく。ピイは沈黙に押しつぶされそうになる。
お願い、シムリ。何か言って。
しかし、シムリはナリーの住む「沼の前」に列車がたどり着くまで、何も言わなかった。ピイは後悔した。言わなければよかったと。しかし、こうも思う。自分の決心だ、遅かれ早かれ伝えなければならないのだと。
「『沼の前』に到着いたしました。お降りの方は、段差や隙間にご注意ください。次は『水晶水仙博物館前』」
小さなコンパートメントに車掌の声が響く。お決まりの文句を唱えながら、車掌の衣装を着た灰色ねずみが、マイクを持って歩いていく。車掌は、じっと動かない一組の男女をちらと見て、そのまま次のコンパートメントに移った。
「降りようか」
何年も使っていないようなさび付いた声で、シムリが言った。ピイはうなずくことも、ええ、と一言答えることもできず、立ち上がったシムリに慌てて付いていった。
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