明日にはすべてが終わるとして

紙野 七

明日にはすべてが終わるとして

 彼は私にはよくわからない人だった。

 毎日ギターをかき鳴らし、必死にのどを絞り上げながら、よくわからない歌を歌っていた。彼はいつも流行りの歌に文句を言い、自分の歌が如何に正義かを語っていたけれど、私には彼の歌もたいして変わらないように聴こえた。

 それでも、私は彼のことが好きだった。彼の歌も好きだったし、音楽を語る彼も好きだった。私にとって彼は特別な存在で、一生を誓い合ったかけがえのない相手だった。

 彼の歌はいつも前向きだった。下ばかり向いている私にもその光が目に入ってくるくらいに輝いていて、だから彼の近くにいると少しだけ前を向けている気がした。いつも私の前で道を示してくれていて、それだけが私の希望だった。

 だから急に私の前からその光が消えたとき、とにかくどうしようもなかった。立ち尽くし、必死に目を凝らしながら、遠くに見える光を無我夢中で追いかけるしかなかった。でもそんなことは無意味で、少し経てば目が慣れてきてそこは閉ざされた暗闇の中ではないということに気づいたであろうに、私はそんなことに気づこうともしないまま、なりふり構わず一度見た光を追い続けていた。

 そうして何度も、私は彼という光にしがみついた。いつかその光が本当にどこか遠くへ見えなくなってしまうとわかっていながら。


 彼と連絡がつかなくなったのは突然だった。ほんの数日前は一緒に食事をしたというのに、昨日から何度連絡しても返答がない。いつもならこっちが嫌になるくらいすぐに返信が返ってくるというのに。

 私は三五〇ミリリットルの缶ビールを片手に、自室のベッドの上でふてくされていた。彼からの連絡はない。それどころか友人からのメッセージすら来ない、登録した覚えのないサイトからの広告メールが表示されたスマートフォンを握りしめ、かれこれ十時間以上もじっと座っている。

 何となく事情は察している。彼はいつもそうだった。知らない間にふらりといなくなってしまう。きっと今も私の知らないところで知らない笑顔を見せているのだろう。でもこういうことは今回に限ったことではない。だからきっと大丈夫だと自分に言い聞かせて目を瞑る。

私はまだ認めたくなかった。だからこうして、何もできずに彼からの連絡を待っていた。

 机に置かれた十ワットの小さなスピーカーからは、飽きるほどに聴き慣れた彼の声が延々とループしている。その声がどんどんと遠くに感じて、それが堪えられなくなって停止ボタンを押す。静寂に包まれた部屋は私の孤独感を一層煽った。

 私はスマートフォンをつけて、表示されていたメールを消すと、SNSサイトにログインした。そして、馴れた手つきで彼のアカウントを表示する。最終手段。むしろ、自分への最後通知だった。そこにいたのはいつもと変わらない、楽しそうでどこか苦しそうな彼。そして、当然その隣に私はいない。

私は持っていたスマートフォンを床に投げつけ、長く伸びた髪をかき乱す。あとは泣いて喚いて当り散らして、そうすれば終わりのはずだった。それなのに、ちっとも涙は出てこない。いくら悲劇のヒロインを気取りたくっても、体が言うことを聞かなかった。

 絶対にまた戻ってくる、そういう確信がどこかにあった。彼に捨てられてもなお、私は彼に期待し、甘えていた。今までも戻ってきたから、今回も絶対にそうだと勝手に思い込んでいた。

 この身勝手さが彼を遠ざけていくのだろう。自分を守ることばかりに執着して、愛という綺麗な言葉で彼を利用し続ける。これを機にやめようなどと何度も思うのに、結局彼の優しさに甘えてしまう。あの綺麗な声が愛おしくなってしまう。

「明日、電話しよう」

 私は彼に、もう一度だけ連絡させてください、とメッセージを送って布団をかぶった。

 消したはずのスピーカーから、彼の声が聞こえてくる。その幼さの残る透き通った声は、私の耳を突き抜けて、どこか遠くへと伸びていく。そこでようやく私は声を上げて泣くのだった。


「別れよう」

 いつものように訳のわからない雑談が一区切りして、一瞬の沈黙が生まれたところで、彼は機を逃すまいといった具合に言葉を突き立てる。わかりきっていたその言葉は、それでもあまりに重く冷たい。

「今度はもう、違うんだ」

 彼の声は私の知らない声だった。鬼気迫っているのに、どこか安堵していた。すべてを有耶無耶に誤魔化そうとしていて、曖昧な声。私が好きで、いつも聴いていた声とは全く違っていた。

「うん」

 私はそれしか答えられなかった。彼もそれ以上何も言わなかった。まるでお互いの間で暗黙の了解が交わされたようだったけれど、私には彼のその曖昧な声がわからなかった。けれどこのとき、わからないということこそがすべてを表していたように感じた。だから私はそれ以上何も言えないまま、そのあとはまた楽しい雑談に戻って、何事もなかったかのように終わった。

「じゃあ」

 最後のその言葉だけはまた私の知らない声だった。それに言葉を返すことができないまま、電話は一方的に切れる。電話が切れたと同時に私たちの関係は終わり、すべてなくなってただの他人へと戻った。それと同時に様々なものが押し寄せてくる。記憶が、思いが、一気にフラッシュバックして五感を刺激する。頭は容量を超えて破裂寸前で、心臓の鼓動が加速し胸ははち切れそうで、全身に得体の知れない不快感が駆け巡る。

 吐き気がした。全身に一気に押し寄せてきたすべてが、口から溢れて出てきそうになる。急いでトイレに駆け込むけれど、いざとなると何も出てこない。吐き気もいつの間にか気のせいと言い切ってしまえるほどの、ほんの少しの気分の悪さになっている。必死にのどの奥を強張らせ、指を突っ込んで嗚咽をもらす。そうしてどうしても吐き出せないまま床にへたり込んで、呆然としている間に涙もすっかり乾いてしまった。

 頭は回らないまま部屋に戻り、床に叩きつけたスマートフォンを拾い、電源をつける。それをポケットに入れ、あとは財布だけ持って外に出た。数日ぶりの外気は恐ろしいほど冷たく、薄いシャツ一枚で出てきたことを後悔する。もうすっかり思考もしっかりしてしまっていた。自分の空腹に気づいて、私は近くのコンビニへと向かう。

 パンと温かいコーヒーを買って、公園のベンチに座った。一晩中彼と話していたので日が昇ってきていて、もう活動を始めている人もいるのだろうか、微かに周囲から生活音が聞こえる。名前のわからない鳥がさえずり、たまに強い風が私の横を通り過ぎていく。

 辺りは朝日に照らされて白みがかっていて、真っ暗な部屋から飛び出してきた私にはかなり眩しくてなかなか目が慣れない。そんな爽やかな朝の街は、私をどんどん悲劇のヒロインから遠ざける。残ったのは腫れた目の異物感と気持ち悪さだけだった。

 コーヒーを一口すする。結局のどは渇くしお腹は減る。パンを食べ終えコーヒーを飲み干すと、体の内側が優しく温められた。それでもやはり、あのほんの少しの気持ち悪さは消えてくれない。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。相変わらず色んなサイトからの広告ばかりが通知されている。私はそれを耳元に当てて、自分だけに聞こえる小さな音量で一番好きな曲を流す。私の知っている声。

 忘れたくはないけれど、きっとすぐに忘れてしまうから、今日は思い出すことにしよう。彼のことを、そして私のことを。

「君はどうする?」

 ―――明日にはすべてが終わるとして。彼に一度尋ねられたことがあった。

 あのときは何て答えたのだったか。もう忘れてしまったけど、今の私はそんな気分だった。

だからきっと、明日にはすべてが終わるとしたら、私は今までの私を愛すんだと思う。

そうやって今日も明日も明後日も、続いていく。

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