行方不明

三津凛

第1話

魔法の隙間。

富雄は毎月1日に、ドアの隙間から差し挟まれる5万円だけを頼りに生きていた。

福沢諭吉さんが5人。夕方になって起き出す富雄は5万円あれば十分ひと月生活できた。元々、金はあまり使う方ではなかった。中高時代も地味で大人しく、本かゲームをして目立たないように生きてきた。ここ最近はソーシャルゲームにハマって、つい課金をしてしまう。以前ならいくらか手元に余っていた5万円も、この2、3ヶ月は月末までに足りなくなることもあった。

そんな時、富雄は癇癪を起こして暴れる。上下左右も分からなくなるほどに、暴れまくるのだ。そうすると、また3万円ほどがドアの隙間から差し挟まれる。

魔法の隙間。

福沢諭吉はやって来る。

富雄は本気でそう信じていたのだ。



富雄はたまに悪夢を見る。

それは大抵、トイレが舞台で巨大ないじめっ子どもが富雄の頭を便器に押さえつけるのだ。冷たい、微かにアンモニア臭のする便器の水を反射的に飲んでしまい、富雄はむせて泣く。

そこに大音量の音楽のように、罵声が響く。

富雄は跳ね起きて、また暴れる。半分は惰性で暴れている。こんな風に、これ見よがしに騒げば、またあの隙間から福沢諭吉が何枚か差し挟まれるかもしれないなという打算もしながら。

いつまで過去を引きずってるんだ、と誰かが言った。

俺は悪くない、引きずるような過去を作った奴らが悪いんだ。

富雄は哀れな過去の自分を慰めた。

そうして明るいうちは寝て、陽が落ちる頃に起き出した。それをもう何回も、だが決して飽きることなく、倦むことなく続けた。



どれほど経ったころだろう。富雄は、5人差し挟まれていた福沢諭吉が4人になり、3人になり……という風に間引かれていくことに気がついた。だからといって、富雄は外に出ることはしなかった。そのうち福沢諭吉はたった1人きりになり、それまで挟まれることのなかった樋口一葉がやって来るようになった。

「こんなんじゃやっていけるか」

富雄は怒り狂って暴れた。既に穴だらけの壁を拳で殴って、本棚を蹴り倒した。それでも、福沢諭吉が差し挟まれることはもう二度となかった。

樋口一葉も間も無く姿を消し、野口英世が申し訳程度に挟まれるようになった。

富雄がいくら暴れても、何も変わらなかった。

それからとうとう、もう金があの隙間に挟まれることがなくなった。初めは耐えた。それまでいくらか残しておいたもので、富雄はなんとか生活した。コンビニで豆腐やもやしばかりを買って、そのまま食べた。だがそれも長くは持たなかった。

手持ちがとうとう小銭だけの段になって、ようやく富雄は両親の元へ降りて行った。

軋む階段を降りていくと、自然とこれまでのことが思い出されてくる。一番の躓きは、中学時代に虐められたことだった。地味で大人しく、少し暗かった富雄は格好のターゲットにされた。初めは無視や、からかいだったのが次第に酷くなり、殴る蹴る、金を盗られるというようになっていった。

散々殴られた帰りのある日に、富雄はなんとなく金物店に入った。店番の爺さんはいつも居るのか居ないのか分からない人で、無防備に晒された刃物たちはどこか盗まれるのを待ち構えているみたいだった。富雄はその頃、殺人犯たちの言動を集めた本を読んでいた。

あるアメリカの連続殺人犯が捕まった時に、その理由を聞かれて答えたものがたまらなく格好良く思えた。


豚を殺せ!という声が聞こえたから。


その声は、騒々しい有名なロックミュージックから聞こえてきたそうだ。富雄は暗い自分と、見たこともない殺人犯を重ね合わせた。その間に、無数の刃物がちらつく。

悪いことだとは思わなかった。一番切れ味の良さそうな高い果物ナイフを手にとって、富雄は駆け出した。

豚を殺せ、豚を殺せ、豚を殺せ……。

富雄は翌日、果物ナイフを忍ばせて投稿した。そして、いつも富雄を虐める奴の腕に深々とそれを突き立てたのだ。紺色の制服の腕が黒く沈んでいく。それは滲む血の色だったのだ、と富雄は騒がしくなっていく教室の中で静かに思った。

それから先は生き地獄だった。富雄は誰からも庇われることもなく、精神科や少年院の担当者の元をたらい回しにされた。刺した相手は死ななかったが、訴えてきたので両親が相当の金を支払ってなんとか和解したようだった。

「子どもも子どもなら、親も親だな。骨の髄まで虐めっ子精神に染まっている。やっぱり、腕じゃなくて、胸を刺すべきだった」

富雄がふと父の前でそう漏らすと、思い切り殴られた。歯が何本か折れて、畳に血の染みが広がった。母はいつとなくばかりで、本当にこの女は俺をただ産んだだけだった、と富雄は心底思った。

それからは学校にも行かず、働きもせず、ドアの隙間から差し挟まれる5万円だけで生きてきた。

もう何年も親の顔は見ていない。富雄は薄くなった腹を押さえて久し振りに両親の元へ降り立った。

いつもご飯を食べていたリビングに、母が静かに横たわっていた。寝ているにしては異様に硬質で、富雄はぞっとした。

「なにやってるんだよ。ババア」

足先で蹴っても反応がない。富雄は身を屈めるて覗き込む。

母だったはずの女は死んでいた。いつ死んだのかは分からない。自然に死んだのか、自殺なのかも分からない。テーブルの上には公共料金未払いの督促状が束になって重なっていた。これを目の当たりにしながら、死んだのだろうか。

富雄は家の中を見渡して、その整理されていない風景に違和感を覚えた。口うるさい父がこれで怒らないわけがない。そういえば父の姿がないじゃないか。どこへ行きやがった、あのジジイ。

富雄はうろうろと歩き回った。和室の押入れが不自然に空いて、そこには布団が敷いてあるようだった。

富雄が覗くと、布団をかけられた頭の先がそこにあった。布団をめくると、全くのミイラになってしまった父がそこにいた。

いつ死んだのか。

富雄はエプロンをつけたまま横たわって死んでいる母の背中を眺めた。

父が死んだ時に、母は何もできずに押入れに隠したのだろうか。富雄は全く他人の死に様を眺める気持ちで再びリビングに戻った。テーブルの上には督促状の下に隠されるように貯金通帳がいくつか広げてあった。

どれも残金はなく、哀しい数字ばかりだった。

どうにもこうにも、ならなかったのか。悲惨なもんだな。

富雄はゆっくりとまだ両親と向き合っていた時に座っていたリビングの椅子に座った。薄っすらと埃が溜まって、空気も澱んでいた。

そのうち母も腐り出すだろう。そんなのはまっぴらごめんだ。でもどこに行くこともできない。督促状の束を千切って、母の死体の上に桜吹雪のように散らしてやる。貯金通帳は父の死体の上に投げ捨ててやった。

いつ母が死んだのかは分からない。それでもここには誰も訪ねては来なかった。

寂しいもんだな、哀しいもんだな。

そんなもんなんだ。



先のことは考えないつもりだった。

母も父も、死んだからといって誰も気にした人はいなかったのだ。富雄がどうなったって、それは同じだ。

行方不明だ。

忽然と、家族3人消えただけなんだ。

消えるだけなんだ。行方不明になるだけなんだ。3万人も毎年死ぬ国だ。それでも回っていく寂しい国だ。

3人ぐらい、誰も探しはしない、気にはしない。富雄はそう思って、どこかに小銭が残っていないか家の中を物色し始めた。

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行方不明 三津凛 @mitsurin12

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