仙田学『中国の拷問』小論―定点観測の視点、文体から読む仙田小説、【非】不条理文学として読む

文芸サークル「空がみえる」

 

仙田学『中国の拷問』小論―定点観測の視点、文体から読む仙田小説、【非】不条理文学として読む

                     文芸同人「空がみえる」作




・序論

『中国の拷問』とは、小説家・仙田学(敬称略)の短編小説(約八十枚)である。作者はこちらの作品で第13回早稲田文学新人賞に選ばれ、小説家としてデビュー。作品初出は「早稲田文学」2003年1月号、河出書房新社『盗まれた遺書』(2014年初版)に収録されている。

 この小論で試みるのは、作品の梗概を述べたのちに、副題の3点の論考である。以下、箇条書きにまとめる。


・「視点」について

・仙田小説の文体について

・カフカ的でありながら、さりとて一義的な不条理に非ず


 作者の記念すべきデビュー作でありながら、こちらの小説が、単行本の収録の順番が最後となっており、表題にもなっていないのは、恐らく濃密な作者の世界観、小説観、言語観がふんだんに詰め込まれていることが所以であろうと推察される。

 僭越ながら、一読すると、ともすれば【荒削り】や【小説的な作法を無視している】などの誹りを受けてしまいそうな作品の構成だが、実は『中国の拷問』を、単なる不条理文学、奇想・幻想小説といった既存のジャンルの域に留まっていない魅力を裏づけていることを再認識するべく、筆者は論考を試みてゆく次第である。飜って、そうした鮮烈な小説的魅力が、『中国の拷問』が文学新人賞という狭き門を潜り抜けたポテンシャルにあることを浮き彫りにすることも、また、この小論の試みの要旨のひとつである。


・本論1―作品の梗概、定点観測の視点

『中国の拷問』の梗概は次の通りである。作中世界では、「変態」と呼ばれる現象が発生する。「変態」とは、人間が(人間だけと限定されているとは明言されていないが)別の無機物に姿を変えてしまう現象である。冒頭、奈緒の夫の「変態」の顛末が語られる。そして、「変態」をした者の近親者は、専用の施設に隔離され(あるいは憲法や年金といった国家の制度の中に組み込まれ)一般社会からはなれた生活を送ることとなる。夫が「変態」した奈緒は、同じく姉が「変態」した映一に「きみのいちばん大切なひとを捜しだしてあげる。その代わりにこれで、あたしのいちばん大切なひとを」(単行本版129p、以下引用元同じ)とナイフを渡す。施設には奈緒、映一の他に、エツロウ、塩見さん、富田秀一、といった人物が共同生活を送っている。施設生活者には「受難」が課せられる等、「変態」とそれにまつわる世界観が語られながら、映一と姉・杏子との思い出や、奈緒とのやりとり、エツロウとその母の確執などが絡み合うように物語の車輪をなし、そして最後には、映一は「変態」から人間に戻った(かのように描写された)杏子と、桜の咲く動物園の前の広場で再会し、杏子は「怖かった? わたしはね、こういうことには強いのよ」(178p)という台詞ののち、数行のテキストで作品は終了する。中国の拷問の道具を探しに出かけた筈の杏子が、それを入手したか否かは最後まではっきりと明らかにされていない。

『中国の拷問』に一貫しているのは、【「変態」した者を捜索する人々の群像劇】ではなく、【「変態」という逃れられない現象に遭遇してしまった者たちの日常】、まさしく「受難」劇である。あるドラマにおいて、不思議な出来事が起こると、その出来事を起因として物語は動き出し、やがて伏線を回収して終結を迎えるのが伝統的な、古今東西のパターンである。しかし『中国の拷問』はそのパターンを採用されず、「変態」という現象すらも日常の一部、あるいは社会のなかで当たり前に認識されている出来事であると設置し、作中人物たちに「変態」にまつわる冒険的な行動を何一つ起こさせない。変態届けや年金をはじめとする公的制度や、「変態」現象が社会問題となると語られる終盤、なおかつ奈緒や映一の施設暮らしが作中の主たる【場】として設定されている点などから、『中国の拷問』が【日常の小説】であるのは明々白々である。

 そして、『中国の拷問』に通底しているのは「定点観測」の「視点」であり、そのアングルが【物語】という動的な展開に転じることはない。それは全体に通じる緻密なまでの細部の描写にも由来するところである。約80枚(筆者は小論を起こすにあたり、作品構造をより深く理解するため、単行本版を模写した)の短編小説でありながら、こちらの小説は、起承転結という明快な創作作法に準じているとは読み取られない。映一が姉・杏子との再会を果たす(風に作品が完結している)点を切り取っても、過程が破綻している以上、その是非はともかく、『中国の拷問』における「視点」は、常に被写体を捉えて離さない「定点観測」である。ゆえに、富田秀一の料理や、部屋の中の様子や、外から射し込む陽射し、そして作中人物のひとつひとつの仕草が、「定点観測の視点」のレンズに限定されている。決して作品の情緒的な面に揺らぐことない、冷徹なカメラによって映写されている為に、更に附言すれば「定点観測の視点によって映写された作品を、等速で再生しているフィルムを観るかのごとき作中時間が固定されている」為に、それぞれが緻密で、どこか緩慢で、時として冗長なまでの表現の羅列によって構成されているのである。

 小説家は意識的にせよ、無意識的にせよ、文体のダイナミズムを駆使している。ルビや漢字・かな・カナ表記、改行、句読点の位置といったダイナミズムである。また、巷の小説作法の書籍には、場面に応じた描写のカロリーについての技巧について触れられているだろう。「短いセンテンスでスピーディーな展開を演出する」「小説の良し悪しは書き出しで決まる」といった通説も、その一種である。『中国の拷問』の「うちのダンナが変態はじめたの。」(129p)という、チンプンカンプンな書き出しは、読者を断崖絶壁に容赦なく突き落とすような破天荒さを内包している。「うちの」「ダンナが」「変態」「はじめたの」という言葉の並びに、困惑しない読者の方が少ないのではないだろうか、とさえ推し測られるほどである。通俗的な解読をすると、まず「変態」についての解説的描写から始める、あるいは「変態する者の側」の「視点」で書くことで、従来の奇想小説に連なるジャンル小説としてスムーズに読者を作中世界に誘い、導くことは可能だろう。しかし、仙田小説の真髄がどこにあるかといえば、そうした創作のダイナミズム――作品と読者をリンクさせる快い生理的な呼吸――よりも、作品全体に通じるフィクションとしての世界観を剥き出しに提示することで、首尾一貫とした小説の虚構性=娯楽性=文学性のクオリティではないか、それが筆者の『中国の拷問』から読み取り、模写をおこなった過程で汲み取っていった私見である。

 単行本「盗まれた遺書」の収録作には、いずれも虚構性を象徴するようなガジェット(【遺書】【肉】【おっぱい】【喋る蛸】)が登場するが、『中国の拷問』の場合、そのガジェットは「変態」ではなく、「視点」の特異性、その特異性によってもたらされる小説的な時間の流れの不可思議な調律、更にそうした変則的な時間の中でくどいほどに繰り返される静態的描写でないだろうか。であれば、最早「変態」という奇抜な設定さえも二の次になってしまいそうなほど、「視点」という【小説の本質の根幹】をなす重要な要素にこそ、『中国の拷問』の鮮烈な小説的魅力が潜んでいるのではないか、と筆者は稚拙ながら「視点」に関して論考するに至った。

『中国の拷問』は、常に「定点観測」の「視点」に閉ざされた舞台の小説であり、ゆえに、冗長な描写、緻密な細部へのフォーカス、なかば支離滅裂な展開、説明不足なストーリー、それらは先述の特異な「視点」によって固定化された等速時間によるものであって、決して作品の完成度を落とす瑕疵などではない、と分析を試みた次第である。「変態」とは表層に露出している設定の一部に過ぎず、その奥底には、特異な「視点」、小説にあるまじき「ドラマのダイナミズムを無視した」描写の羅列、それらの、あたかも[身の毛も弥立つ中国の拷問]であるかのような構成が、読者を眩惑のフィクション世界の旅人となることの「小説読みの受難」へいざなうのである。『中国の拷問』とは、近親者に「変態」された者たちを冷徹に肉迫した虚構のドキュメンタリーであるといえる。


・本論2―文体で読む仙田小説

「視点」とは異なる『中国の拷問』のもうひとつの特徴は、全体を大きな比重で占めている長いセンテンスである。話し言葉を織り交ぜた地の文も多用され、まさしく特異な「視点」によって淡々と描かれる作品の、静態的で、ドキュメンタリー・チックで、映像的な演出が、地の文の表現においても瞭然と見て取られる。

 句点に辿り着くまで、最も長いテキストは、133p14行~134p6行の


一階の角にある共同食堂の戸口の、正面の壁に沿って置かれた食器棚のガラス戸を軋ませながら奈緒は、いまね、この子にもいってたのよ、役所にかけあえば塩見さんをほかの場所に紹介できるんじゃないかって、あたしはべつに悪気でいってるんじゃないのよ、ただあのひとくらい長いんなら、同じような体験をしてるひとたちのそばにいるほうが、かえって楽なんじゃないかって思うのよ、と皿をとりだして、隣りに座っている映一に渡すと、エツロウはサラダボウルをテーブルの中央に置いてから彼女の向かい側の椅子を引き、コップに注いだ牛乳をひと息に飲み干して、おれはいてほしいけどなあ、塩見さんありゃ確信犯だよ、わざと間違えたふりして掌サイズのクッションとか幅の短すぎるカーテンつくったり、指をけがしただのなんだのって、役所の監査員と部屋の前でいいあってるのを何度か見たけど、しょっちゅう受難の締め切りを破ってるらしい、ゴネてんだよ、きっと、だんなさんに戻ってきてほしくないんだよ、とサラダの上に輪切りのトマトを口に放りこむ。


である。またこの部分以外にも、


映一は押し入れの向かい側の壁に脚を投げだして凭れ、なかば以上が影につつまれた萌葱色のワンピースの背中が揺れるのを眺めながら、並んで歩いていて彼女が不意に黙り立ち止まるときにいつもそうするように、その存在をつとめて頭から追い払おうとしたものの、つぎつぎと現われるものの色や形が博物館に展示されているはるかな過去の遺物のようによそよそしく、彼女の思考や感じかたを形づくってきた当のものが、湿気た埃のにおいを漂わせて夏の昼下がりの生温かな空気に晒されている醜悪さにいらだちはじめていた。(137p)


見出しには扇情的な呷り文句が欄からはみだしそうな数の感嘆符をしたがえて書かれていて、写真の下の記事には変態をして出ていった姉が残した最後のメッセージにたいする精神分析医と犯罪心理学者と社会学者と戯曲作家のコメントが寄せられ、杏子と夫の住むアパートの住人の証言を通して、彼女が出奔する直前に何着も新しい服を買い、普段はほとんどしない化粧をして近くの公園や喫茶店に現れたということが報告され、映一が応じた覚えもないインタビューがつづき、中国の拷問云々という文面の意味を解読するとプレゼントが当たるという抽選の応募方法で記事は終わっていた。(173~174p)


をはじめ、一文の中で幾度もの動き/事物の観察/対象の移動が発生する蜿蜒、紆曲なテキストが散見される。

 文章には呼吸があるといわれている。文章心理学という学問領域も存在する。たとえば、川端康成小説の平均字数は20字と算出した論文もあり(『川端康成の文長指数』中根千賀子,大阪樟蔭女子大学,樟蔭国文学,1964年)、算出式も定められているようである(出力ソフトウェアもあるが、本論では詳しく触れない)。これはあくまでテキストの長さの一例であって、『中国の拷問』の文長から、作者の心理傾向に着手することは論旨から逸脱するので、これ以上、文長について踏み込まない。

 文体論の観点から、『中国の拷問』は自由直接話法の多用、修飾過多ともいえる一文の表現(長い前置詞的描写から読点を挟み、更にまた長文へと続く、改行の少ないミニマリスムな描写の連続)等によって、これもまた「視点」と同じく独特の小説世界を構築している。人物描写に関しても、【表情】ひいては【心理】に着眼した伝統的な造型を避け、眼/息/肩/動作、といった外的な要素が多分を占めている。そうした描写は『中国の拷問』に読者の情緒的視線を遮り、読者もまた独自に構築された小説世界の住人となることを要請しているかのようである。文中・行間・言外に【その表現の意味するところ】が潜まされているのではなく、読者自身の主観の目線で以て、作品の内部に貪欲に潜入し、虚構世界を彷徨し、己もまた「受難」を課せられた映一や奈緒たちと共に並び立つことで、一見難解、晦渋、冗漫、迂遠に感じられる文体からも、『中国の拷問』が単なる「変態」をめぐる不条理小説ではなく、【不条理なもの】を徹底的に掘り下げたドキュメンタリー・チックな静謐な不気味さをたたえた小説であることが痛感できることだろう。『中国の拷問』に救済・脱出・開眼・到達、それらの啓示的な物語のカギカッコは存在しない。『中国の拷問』作中に通底しているのは、徹底的に不条理化された日常を、剥き出しに抉り取った【リアリズムの体温】とでも呼ぶべき文体の呼吸である。従来、短編小説において、不思議な出来事が起きるのであれば、日常の暮らしなどにページを割く猶予は乏しい。作中人物は、自らに与えられた【?】を【!】へ変換する為に、物語的結末へと奔走しなくてはならないからである。一方の『中国の拷問』においてそうした【?→!】は展開方式として採用されず、空行を挟んだ8つの場面には、映一の視線、エツロウの口調、窓から部屋に射し込む光の粒等々、それらが極限的なまでに引き伸ばされた、「等速再生の特異視点」による時間操作によって連ねられた文体が綴られているのである。

 文体は呼吸であり、言葉の連なりという形式の時間概念である。その観点から『中国の拷問』を読むと、この文体が作品の概念的主題、世界観、そして作者がこちらの作品であらわそうとした小説観といった表現の本質に接近できるほどの【文学性】が、豊かに成就していることが鮮やかに窺える。作中で現れてくる事物の数々は、あるいは「変態」した後の何者かもしれないのである。そうした「変態した後の何者かもしれない事物」を描写することは、『中国の拷問』において不可避的な表現要素と呼べるのであり、電灯/壁/階段/窓といった何気ない生活中の物体においても、沈黙せし【変態した元人間】の蓋然性を鑑みると、上述のような文体でつぶさに描写を重ねてゆくことは、反小説的とまでいわずとも、作品の主題を貫く為の手法だったのではないだろうか。それは、言葉の表記の面でも同様である。全般を通して『中国の拷問』は変則的な漢字・かなの表記が頻見される。魔術的といえば誇張かもしれないが、文体に留まらず、【言葉】そのものにも「変態性」を具備させている、これは別項を設けて論考を深めてもよい題材かもしれない。

 文体論から外れるが、本来、小説における短編と長編の特性は(殊に西洋の文芸において)截然と分けて認識されていた。また我が国の現代文学シーンになると「長編の一部のような短編小説があってもよい」といった具合に振幅がひろまっていった。現に安部公房、村上春樹は、そのような「自作の長編小説の一部」に該当する短編小説を著している。

 しかし、短編小説の独自の特性を本質的に捉えた勢力も出て来た。ここで登場するのが、近代以降の【不条理】という概念である。故・平岡篤頼氏いわく、【物語的短編】と異なる【瞬間の短編】である。


・本論3―【非】不条理文学として読む

 あたかもフランツ・カフカ『変身』の変奏にも読み取られる『中国の拷問』は、しかし、果たして不条理文学の系譜に連なる小説なのだろうか? 筆者の分析では、『中国の拷問』は前項末尾の【瞬間の短編】(=出来事らしい出来事が起こらない小説)という位置づけでは、不条理に該当するかもしれない。しかし作品論に視点を置けば、ただ前世紀の【不条理】を【文学的墓荒らし】かのごとく模倣しただけで、文学新人賞に選ばれることや、単行本「盗まれた遺書」の最後の必殺技ように、帯書きにある通り恐るべき【仙田現象】のエピローグを飾るほどの文学的威力を有していると言えるだろうか、は甚だ疑問である。「盗まれた遺書」の華々しい掉尾を飾る作品、この点も含めて勘案するに、『中国の拷問』は単なる不条理文学小説に留まらない、と立脚しなければならない。

 そこで筆者は、「不条理的な日常をドキュメンタリー・チックに、定点観測の視点でもって描いた【非】不条理文学小説」であると提唱する。不条理であって不条理に非ず、不条理さえも作中の日常において実生活で消化され、何気なく通り抜けていく日々の堆積でしかない。それがカミュ『シジフォスの神話』で語られた不条理の本質なのかもしれないが、さりとて、『中国の拷問』が単なる【不条理】の模倣でないことは、前述の論考からも明瞭と思われる。『中国の拷問』においては、【不条理性】さえもが「定点観測」の特異な「視点」によって客観視され、文体の変則的な時間操作によって「変態」という【不条理性】の機能が稀薄化してしまっている。『中国の拷問』における【不条理】は作品の構成要素にそなえられているのではなく、作品全体に根底から遍在しているといえるだろう。その意味で【非】不条理、あるいは【超】不条理、と呼べるほどに突き詰められた【不条理的社会】が舞台となっている。

 その一線を画す【不条理性】は、奈緒の夫が元の住居に戻り密かに生活を営んでいるらしいが、映一たちはその現場を目撃しようとしない、まるでカフカ『城』を髣髴とさせる「見えている出口に辿り着けない迷路感」に通じるものがある。そして、何の決定的説明もなく、映一が姉・杏子と再会する結末も、裏返しの【不条理】、実は姉が「変態」した(らしい)日からの受難こそが【不条理】だったのでないか、という論考も可能ではないだろうか。『中国の拷問』は不条理であって不条理ではない、表層的な不条理性によって構築された小説世界ではない、『中国の拷問』は前世紀の【不条理】さえも「変態」させ、グレゴール・ザムザが虫の姿のままで依然として働き続けているだろうという、グロテスクなまでに生々しい【剥き出しの不条理】を露呈せしめた短編小説である。読者である我々が【剥き出しの不条理】というブラックホールに飛び込めば、待っているのは既成概念で適応していけない(=光の速さを超越した、物理法則の通用しない)摩訶不思議な時空、仙田小説による文学世界の住人と化してしまうほかにないのである。

 飜って、作中世界の住人になってみる、という本腰の姿勢でなくては、仙田小説の醍醐味、すなわち「知らない国で知りあった人の家に連れて行かれて未知の料理を食べ、経験のない味が癖になる」という、単行本の帯書きの「仙田現象」の真髄を経験することはできない。作品と読者が主客一体となり、仙田文学の世界の輪郭、ディテール、あるいは伝統的側面で描かれるべきモチーフを補強し、また新たに小説世界を再生産していくという、作品の外側と読書体験という反復的な営為にこそ、【文学小説なるもの、あるいは娯楽としての読書】の意義があるのではないだろうか。


・結論

 以上が、筆者の『中国の拷問』についての論考である。浅学浮薄な分析、識見が散見されると思われる。本論について、先人、同輩の皆々様からの御鞭撻があれば何よりの幸甚である。

 本論にて、著者・仙田学「盗まれた遺書」収録作品の文学的小論が全て終了した。ネット媒体での発表であるが、当同人において、小論集という形での製本企画も立ち上がった。ありがたい限りである。出版社の自費出版サービスとなるか、オンデマンド同人誌となるか、まだはっきりと企画のディレクションも定かとなっていないが、企画の本格始動の際には、時間が許せば各論の加筆・修正をおこないたい所存である。

『中国の拷問』は、先述のように、不条理を取り込み、その不条理さえも作中の日常化へと転化させ、その模様を独特の文体を駆使し、ドキュメンタリー・チックに活写した傑作短編小説である。そして、著者のデビュー作であることから、仙田学文学の記念碑的出発点としても、是非とも多くの小説好き、読書好きがこちらの小説を手に取り、その恐るべき【剥き出しの不条理】を堪能していただきたいことを願うばかりである。

 擱筆。

仙田学「盗まれた遺書」紹介URL

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309022741/

https://www.yodobashi.com/product/100000009002064558/

https://www.amazon.co.jp/%E7%9B%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%BA%E6%9B%B8-%E4%BB%99%E7%94%B0-%E5%AD%A6/dp/430902274X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1521622699&sr=1-1&keywords=%E7%9B%97%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%BA%E6%9B%B8

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