1. Yī

1 - 1.


 じゃりじゃりと音がする。口の中からだ。

(不味い)

 真っ暗な視界の中で、私はまずそれを感じた。生暖かい痛みと異物感があって、瞼を開けられない。時々不規則に、照明を点けたり消したりしているかのような白さがよぎる。

 その次に、音と不味さの種類から、自分の歯の隙間に入り込んでいるのが細かい砂の粒だと気づいた。残念ながらその味は何度も経験したものだったから、揺さぶられてぐずぐずの頭でもすぐ分かってしまった。

 そして最後に、瞼を覆っているどろどろして生暖かい液体が、自分の血だと認識した。正体に気づいて、私はそれを押しのけるように眼を外気に触れさせる。暗さも点滅もなくなり、視界いっぱいに黄色く乾いた土が広がった。

 私は地面にうつ伏せに倒れこんでいた。父に激しく殴られて。

 首を僅かに捻って、頭上に立っているはずの父を見ようとした。でも動くと背中が激しく痛んで顔がほとんど上げられなくて、父がどんな表情をしているかは見えなかった。だから鮮明なのは、父がいつも着ていたぼろ布を巻きつけたような農民服と、汚れでも落とすかのように振られていたごつごつした腕ばかりだ。仕方がないから私は、しばらく痛みに耐えてからゆっくりと身を起こした。

 震える枯れ木みたいな腕で身体を支える。自分でも信じられないような白い肌に血管が浮き出ている。あちこち擦り傷や痣ができていた。口の中でも唾液と砂が混ざりあい、嫌な味の液体になっている。ぺっと吐き出した。

 ぼさぼさの長く白い髪が垂れ下がってくる。黄色い地面と対照的な白。そこにぽたりぽたりと雨粒のように、赤いしたたりが加わった。目に入ってくるのでまなじりをぬぐうと、また鋭い痛みが奔って、感じる前に手を離していた。

 そして喉からはあの音が鳴っている。荒く酸素を取り込もうとする肺のせいで起こる、というかすれたような音。

 それが声になることはない。切り裂かれ失われた声帯は何の機能も発揮しない。死にぞこなった空洞の私を通り抜ける、虚しく冷たいこだま。生まれた直後に刻みつけられ、私から離れない呪い。

 だから恨み言も口にできない私は、ただ眉間にしわを寄せて父を睨んだ。その時にはもう父は私に背を向け、吐き捨てるように呟くところだった。

「こんな白鬼子バイグイズは殺しておくべきだった」

 私が幼い頃、両親と共にほんの短い期間を過ごした故郷での出来事だ。これが一番古くて強い記憶で、多分六、七歳の時。何度となく同じようなことを繰り返されて、焼き付けられてしまっただけかもしれないけれど。

 あの頃、私は故郷の村しか知らなかった。四方を樹木も少ない荒れた山に囲まれた狭い土地。地平はその山までで、空は山の間に開いた穴みたいなもので。全て人間は痩せた土地でわずかな穀物を育て、日々の糧にも苦労しながら暮らしていると思っていた。

 しかし当時の私には、北京ペキンのレストランで残飯として処理されたものでさえ天上の馳走のように思えたことだろう。私が住んでいたのは中国内陸の辺境、公的に村として記録すらされていない、人口千人にも満たない単なる貧しい集落だった。そこは社会の枠の外で、繁栄の中心から吐き出された埃やカスみたいなものを乱雑に掃き寄せたような場所だった。

 村は一本大きな道があり、それに沿って大小の畑が広がっていた。畑に寄り添うように今にも崩れそうな木造の家屋がばらばらとあって、さらにすべて、村全体をぐるりと囲むように、山々がそびえていた。今思えばそれほど高くなかったかもれしれないが、幼い子供の目には空を覆うほどに見えて、どこにも行けないという気分にさせられた。

 私は似たり寄ったりの見た目をした家々の一つで、両親と三人で暮らしていた。祖父母の記憶はないから、生まれた時には死んでいたのかもしれない。両親はどちらも農民の出で、知らないけれどひたすら畑を耕して生きていたのだろう。村の人間は大体が農業で生計をたてていた。

 家に隣接する百メートル四方もない畑で育てるトウモロコシや大豆などが一家の食事と収入、命の源だった。単なる弱い子供だった私もその生き方しか知らなくて、ほんのわずかな持ち物を保つために毎日をささげるのが人生だと思っていた。

 日々はいつも過酷だった。朝日が昇るか昇らないかといううちに起き出して、トウモロコシの粉を練ったものを朝食として摂る。食べ終わり次第ぼろきれみたいな服とすりきれた靴をまとって家族で畑へ向かう。どんなに暑い日でも必ず、私は一人で長袖を着、わら帽子をかぶっていた。日差しに当たるとすぐに大変な日焼けが起こり、かゆくて痛くてたまらなかったからだ。それでも顔などは防ぎようがなく、いつもまだらに赤くなっていた。

 父の指図に従って母と日ごとの作業をする。一人だけ長袖を着ていた土地を耕したり、種を蒔いたり、水を汲んできたり。水場は村の外れにある井戸しかなくて、長い距離重い桶を運ばねばならず、大変苦痛だった。

 水を汲む時、桶をほとんど引きずるようにしながら歩いていると、しばしば他の畑で同じように農作業をしている人を見かけた。隣人ということになる。同い年くらいの者もいた。多少の差異こそあったが、皆一様に私と同様の汚れて傷んだ格好をしていた。そして私が歩いてくることに気づくと皆例外なく目を逸らした。

 通り過ぎる時、決まって囁き声が聞こえた。たまに内容が耳に届くこともあったような気がするが、覚えていない。記憶したくもない中身だったのだろう。唯一思い出すのは、こびりついた汚れのようなこの言葉だけだ。

白鬼子バイグイズだ」

 白い魔物。村の者は、父でさえも私をそう呼んだ。そう言って私をちらちらと盗み見る彼らの目には、明確な嫌悪と蔑みがあった。

 それは単に私の白い髪と肌、紅みがかった眼や斑点のように日焼けした頬といった見た目の違いを嗤うだけでなかった。自分はあんな一段低い立場でなくて良かった、という嘲りがあった。

 あんな魔物とは違って、自分は他人と同様の姿で生まれている、皆と同じくらいの生活も営めている、ああ幸運だ、というわけだ。私は他の村人の自尊心を満たす体のいい道具だった。

 本当の名を使ってくれていたのは、もしかしたら母だけかもしれない。

「――、早く終えるよ」

 母はいつもそんな風に力なく、細い声で私の名を呼びかけた。自分の名がどんなものだったかは思い出したくない。思い出す必要もない。既に捨てたものだから。母の顔はまだおぼろげながら覚えている。痩せて化粧などすることもなく、膿み疲れた表情が染み込んでしまったような顔つきをしていた。

 私と母は日が沈むまで畑から離れることはなかった。昼食は取れず、もちろん休む暇もない。一方父はしばしば姿を消した。何やかやと理由を付けていたような気がするが、きっと単に私たちに仕事を押し付けていただけだったのだ。

 当時の私にそういったことを気にする余裕はなかった。作業が遅れているところを父に見とがめられれば、というか父がそう思えば、すぐに罵声を浴びせられ、殴られたからだ。

「なぜ俺の言った通りにしないんだ」

 そういう時、父は概ねそのようなことを言って私たちをなじった。母も私も父の指示に逆らうことはなかったから、作業が本当に遅れているならそれは父の段取りが悪かったせいであるはずだ。しかし父にしてみると、私たちがきちんと従わなかった結果そのような状態になっているのであり、従わないということは父への反抗の表れなのだった。そしてそれは父の気分を大変に害する許しがたい行為だった。

 そういう人だから、私が語れないことも父には不満の種だったしく、そのせいで生活はより悪くなっていた。何かトラブルや困ったことがあってもすぐに伝えられないからだ。

 話し言葉こそ自然に理解できるようになったものの、私は読み書きはできなかった。両親はわざわざ時間をかけてまで教えることはなかったし、そもそも他人に教えられるほどの学力があったか怪しい。私にできた意思疎通の手段は、身振り手振りと拙い絵をいて見せることだけだった。

 そういう時はひたすら可能な限り、最大限の迅速さで何としてでも用件を伝えようとした。喉からひゅうひゅう荒い息が漏れたものだ。上手くやれなかった時の行き着く先は暴力だったから。父に進んで従いたいなどという気持ちなど持ち合わせていなかったけれど、殴られるのは嫌だった。身体の危機に対して動物的に反応していた。

 子供だったからという以上に、理性がそこまで発達していなかったような気もする。やはり言葉が発せられなかったせいだろう。言葉にすることで人は自分や他の事物を客観視でき、冷静な判断力を育てられる。しかし他の技術と同じで、語る力も自分で実践することで身につく。実際に苦境の中で力を手に入れたあとだからこそ実感する。だから語れない私はきっと、同世代の子供と比べたら知恵遅れのように思われたのではないか。

 そういうところも余計に悪く作用したかもしれない。私が何かを伝えようとして、少しでも手間取ったり時間をかけると、父はあからさまに苛立っていた。私が意図を伝えきれないうちに父の手が飛んできて、コミュニケーションを打ち切られることは珍しくなかった。何か問題があってもそのまま放置されてしまうわけで、それが表面化したら父はさらに怒って私に矛先を向けた。倍殴られることになったのだ。

 母は庇ってこそくれたが、自分も巻き込まれるという怯えは隠しきれていなくて、効果はあまりなかった。私が殴られているのを傍観し父の怒りがひとしきり発散された後、上手くやらないからこういう目にあうのだという風に溜息をつきながら手を差し伸べるのがせいぜいだった。

 日中をやり過ごした後の夜は、中身のほとんどない夕食を摂ったら、それぞれ収穫したものを干したり、家財道具の修繕などをする。その間だらだらと日々の生活の小言や不平を私たちに聞かせるのが父の日課だった。最近は天候が良くないとか、向かいの家の住人が気に入らないとか、そういうどうしようもない話ばかりしていたような気がする。家は寝室を含めて二部屋しかなかった上に、間仕切りもあってないようなものだったから、逃れる場所はなかった。

 それは当時の私には理解できない行為だった。口にしたところで何も変わらないのに、どうしてあんなことを毎日しているのだろうと素朴に疑問に思っていた。これも語ることができなかったせいで、そう感じたのだろう。電子の声を手に入れ、そのように愚痴をこぼすことはありふれた行いだと知った今は、多少は父の行動が理解できる。

 きっと父は自分に言い聞かせていたのだ。自分はこういう悪い点をもう知っていて、指摘もしている。だからこれが今後も起こったって、自分に落ち度はない、という風に。

 小心者で、劣等感や不安にさいなまれているくせに、それを認めたくなくて偉ぶり威圧的に振る舞う。自分より弱い存在を虐げていなければ、社会の底辺で押さえつけられていることに耐えられなかった哀れな男。

 何度か想像したことがある。私が語ることができていたら、あの男はもう少しましになっていただろうか?

 そんなことはないと思い直す。証拠に、父のその愚痴を聞かされている間、母はほとんど話さなかった。ひたすら黙って、仕事をしながら聞き流していた。反応したところで、否定されるか父の激昂を招くだけと分かっていた。それでも父は話し続けていた。聞いている存在であればそれ以上はいらなかったのだ。犬猫と同じ。ちなみにその間も、父は酒を飲むばかりであまり手を動かしていなかったと思う。

 酔って話疲れ、その場で眠りこける父を確認してから、促す母と共に寝床に入るというのが、毎日の単調な終わり方だった。仰向けになって寝ようとすると、灯りを消してしまって真っ暗で低い天井が迫って自分を押し込めているように感じた。

 とはいえ、そんな閉鎖的な空間の、そんな陳腐な小物でも、とっさの瞬間には思いもよらないようなことをする。

 私の喉を裂きそんな境遇に至らしめたのも、他ならぬ父だったのだから。

 結局のところ、私の幼少期は父の支配から逃れるまでの期間だ。


 1-2.


 聞いた話では、私は母の腹にいたのが普通より長かったらしい。私を取り上げた老いた闇医者の言だ。彼は村で唯一私を人並みに扱ってくれた他人で、その話も聞いてもいないのにしてくれた。

 出産当日もかなりの時間がかかるので妙だと思っていたら、出てきた幼子がこんななりで、闇医者はすぐさまひれ伏したという。神仙しんせんの生まれ変わりだと。

 一方の父は、初めてできた子がやっとのことで生まれたと思い、一瞬喜びを見せた。しかしそれもつかの間、私の姿を見て押し黙り、真っ青になって呟いたらしい。

「なんで俺がこんな目に」

 そしていきなり包丁を持ち出し、私の首を切りつけた。

 多分に発作的な行動だったのだと思う。恨みをぶつけるようにバツ字に切りつけているからだ。本当に確実に殺そうとするのなら胸でも、もっとめちゃくちゃにでも突き刺せば良い。

 村で求められているのは男だ。農業をするにしても、家畜を育てるにしても、男の力がいる。なにより家を継ぐのは男でなければならない。父も母も別に若かったわけでもないから、男子を待ち望んでいただろう。

 しかも当時のあの国には有名な〈一人っ子政策〉が施行されていて、二人以上の子供を育てようとすると多額の〈社会扶養費〉なるものが徴収された。要は罰金だ。だから女が生まれたから次は男に期待、などということはできず、出産は一発勝負の博打のようなものだった。

 それなのに女が生まれ、あまつさえ異様な姿だった。父のような小さい男には許容の限界を越えていたのだと思う。

 しかし即死こそしなかったもののもちろん呼吸はできず。私はほんの少しでも放置されていたらあっという間に命を失っていた。それを救ってくれたのは母だった。出産直後の疲労困憊の状態で惨状を見せつけられた母は、朦朧としながらも必死の形相で顔を上げ、父と闇医者に乞うたそうだ。

「助けて、あげて」

 その言葉に父は動きを止め、それ以上何もしなかった。闇医者が慌てて治療を行い、奇跡的に頸動脈は傷つけられていなかった私は、首を縫われて生き延びた。あるいは死にぞこなった。代償として醜い傷を背負い、声を失って。

「儂なんぞの治療で命を繋げたことさえ奇跡だ」

 闇医者は真面目な調子で言った。

「やっぱり、さすがちゅうか、何仙姑かせんこ様の生まれ変わりじゃあ」

 何仙姑、というのは有名な神仙の一人だ。雲母うんもを食べ、風のように走ったという。彼は私を魔物呼ばわりこそしなかったものの、会うたびに何仙姑様、何仙姑様と拝もうとするので辟易した。目がぎらぎらしていて、どうも私が長生きとか何かそういう現世利益をもたらしてくれることを期待していたらしい。

 感謝はしている。仙人云々に関しては、本当にそんなものなら声を失うことはなかったはずだという冷めた感想しか抱かなかったが。だから特に何かしてやれることもないうちに、彼はあっさり病で死んだ。最近見ないと思っていたら、父が毎夜の無駄話の際にぽろりとこぼした。

 少し悲しかったような気がする。死に顔も知らなければ葬式も出られなかったから感覚は薄い。一方で、自分自身も治療できなかったくらいだから、私が生きているのは本当に幸運なのかもしれない、と思った。

 そう思うと、と感じた。そのぼんやりした恐怖、嫌悪はいつも私に付きまとい、結果的に私を動かし生かした。いわゆる生きがいとか、そういうものはほとんどなかったけれど。苦痛がいつも私にそれを思い出させた。生まれた時から身近にあったせいで、私はこれを越えたら終わる、という段階が分かる気がしていた。

 引き攣れた喉は昼夜問わず、季節の変わり目やちょっと運動して呼吸が荒くなった時など、すぐ痛んだ。ずきずきと刺されるような感覚と、二方向に引っ張って引きちぎられるような感覚が交互に襲ってくるのだ。時にはかきむしりたくような痒みを伴った。実際に無意識に傷口をひっかいてしまって血が出たこともしばしばだった。成長期で、筋肉や皮膚が伸縮していたのかもしれない。

 そういう時はとても正常な呼吸などできなくて、作業中でも首を押さえてうずくまるほかない。母は近くにいたら背中をさすってくれたが、それも父がいない時だけだった。父は心配などするわけもなく、私が手を休めているとみなして罵声を浴びせるか、虫の居所が悪ければ蹴り飛ばしてきた。そんなことをされたら余計に動けなくなるとかいう発想は父にはなかったらしい。背中を蹴られた時などは、陸に打ち上げられた魚のように本当に一切呼吸ができず、痙攣する他なかった。

 夜眠っていても、気温が下がったりすると痛みで目が覚めた。そういう時は落ち着くまで寝られないし、それも短い時間ではなかった。昼間の行動も夜の眠りも不規則に妨げられていた私の精神状態はあまり良くなかったと思う。それに、私の生活を脅かしたのは肉体の障害だけではなく、他にも複数あった。

 ひとつには戸籍が無いことだった。あの国には二種類の戸籍がある。〈農業戸籍〉と〈非農業戸籍〉だ。計画経済時代に導入された制度で、名前の通り、前者を持つ人間は基本的に農村で耕作をして生きることを強いられる。後者の人間だけが市街地で自由に職を選んで暮らす権利を得る。どちらになるかは親の戸籍で自動的に決まる。

 別に農業戸籍だと他の仕事で働けないわけではない。都市における〈暫定居住証〉を与えられれば可能だ。しかし社会保障の面でも区別されていて、農業戸籍者だけに課される税が複数あるし、教育も医療もより大きな負担をしなくてはならない。そんな状況で束の間働けるようになったところで、できる仕事など限られている。

 しかし私にはそもそもどちらも与えられなかった。父が出生を役所に届け出なかったからだ。父は私を文字通り生かしただけで、社会的にはいない者として扱った。〈人口計画出産法〉、いわゆる一人っ子政策のため、一人子供が生まれてしまうと二人目の際に大変な税を搾取されたからだ。父は労働力になる男を欲していた。

 だから二級の農業戸籍すらも無かった私は、公的機関を利用することさえできなかった。同年代の子供のように学校に通うことも、病院を受診することも不可能で、体調を崩した時は床で寝かされるばかりだった。くだんの闇医者にすら診てもらったことはない。そもそも闇医者の代金ですらまともに払えるとは思えなかったし、私を家と畑以外の場所に出すことさえ嫌がった父がそんな場所に連れて行ってくれるとも思えなかった。

 だいたい外出だってむしろ私には億劫で、危険すら伴う行為だった。その理由がもう一つの障害、隣人たちだった。

 何をしても誰からも非難されない存在は、思いつく限りどんな悪辣なことでもされるのだ。村人たちは私を触れたくもない汚物のように扱っていて、日々の生活で自分たちに溜まった嫌なものや汚いものも同じく私に押し付けようとしている節があった。

 特に私の場合は、取り囲まれてリンチを受けても、川に突き落とされても、悲鳴の一つもあげられない。声を出したところで誰かが助ける見込みもない。彼等のうっぷん晴らしを妨げるものは無いに等しかった。

 だから、ほとんど機会は無かったけれど。どうしても家から離れた場所に行かなくてはならないという場合は大変警戒していた。しかしその程度ではとても防ぐことはできず、細かな嫌がらせ、つまり聞こえよがしに陰口を叩かれたり、畑を荒らされたり、石を投げつけられたり、などは日常茶飯事だった。

 印象に残っていることでは、歩いているさなかに誰かに突然背中からぶつかられて、田んぼに落されたこともある。ちょうど稲を植えたばかりの時期で、宙を舞ったと思った次の瞬間には、鼻や口に尖った穂が入り込んできた。落下して水が張られた中に倒れこむと、オタマジャクシやらタニシやらイナゴやら、雑多な虫が身体を這いずり回って穴という穴から入り込んでくるように感じた。

 元々大して持ち合わせていなかった他の生き物に対する博愛精神を捨て去ろうと決めたのはあの時かもしれない。一方で何日か後、田んぼの持ち主が弁償を求めて家に怒鳴り込んできた時には、隣人に対する軽蔑と警戒心をさらに高めた。

 しかし後から考えればこれらですら序の口で。もっと酷い目にもあった。

 あれはどこか納屋か何か、暗い建物の中。じめじめしてかび臭くて、芯から凍えるように寒かったような気がする。

 あの時も確か、そこへいきなり引きずり込まれて。さんざっぱら殴られて動けなくなった後に、私は腕を縛られて吊り下げられるように拘束された。

(お前なんざ、村からいなくなりゃいいんだ)

 複数の人間が周りを取り囲んでいて、手に手にそれぞれ尖った物体を持っていて。ロウソクの影みたいにうごめいて、不気味だった。

(気持ちの悪い肌と目ん玉しやがって)

 身体のあちこちからの痛みに見下ろすと、衣服はずたずたに破れていて。

(中身を見てやろうぜ)

 その下に切り裂かれてべろんとめくれあがった皮膚があり、赤い肉と血が。

 ……よせ。

 ほら、わざわざ厭なことを思い出すから。

 余計なことまで浮かんでくる。

 同じく暗い部屋の記憶だ。ただしこちらは見知った自分の生家。

 あの時は、夜中に突然目が覚めたのだ。例によって父はいつもの場所でそのまま眠り込んでいたから、寝室には私と母しかいなかった。私たちは布団に二人で並んで寝ていた。

 ぱちりと瞼が開き、低い天井が視界に飛び込んできて、私は寝ぼけた頭ながらなぜ起きてしまったのかと戸惑った。喉の痛みが出るような気候でもない日で、普段なら日中の作業に疲れ切って熟睡してしまっていたからだ。何にせよ睡眠時間が減るほど明日に響いたので、さっさと寝直そうと思って寝返りをうった矢先。背中を向けた隣にいる母が溜息をつくのが聞こえた。

 声が大きいわけではなかったけれど、深く長い溜息で、一緒に生気が抜けてしまうのではないかというほどだった。同時に、それは震えていて、鼻をすするような音も混ざっていた。

 母は泣いていたのだ。

 私は少なからず驚いた。それまで疲れていたり、じっと耐えているような表情こそすれ、母はどれほど父になじられても涙を見せることはなかったからだ。身体が硬直し、母の方を見ることもできないまま息を殺した。

 何を言うでもなく、ただ母の吐息が空気を振動させる音が響く時間が続いた。そしていい加減緊張に耐えられなくなった私が睡魔に意識を奪われかけた時、たった一言、呟きが聞こえたのだ。

「なんでこんな風に生まれてきたの」

 私が起きていることに母が気づいていたとは思わない。証拠に、私がその声を聞いて思わず身を跳ねさせたら、すぐに尋ねられたからだ。

「――?起きているの」

 名を呼ばれても私は反応せずに必死で呼吸を整え、寝ている体を装った。それで信じたのか、母は言葉を続けなかった。一瞬背中に感じた視線も離れ、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。

 目は完全に覚めてしまった。母の言葉を何度も思い返してしまい、止められなかった。

 白い肌、白い髪、赤い眼。他とは違う異常な姿。

 どうして私だけがこんな身体で生まれてきたのか?

 なぜ私だけがこんな目にわなくてはならないのか?

 それは私自身も無意識に考えることを避けていた問だった。そんなことを考えていたら、俯いて動けなくなるのは分かり切っていたから。

 動かなかったら死んでしまう。父や隣人の暴力から身をかばうこともできなければ、仕事をしてほんの少しの食料を得ることもできないからだ。。死なないためには動き続けることが必要だった。だから生まれた理由などというどうしようもないことを考えて、足を止めている暇などなかった。

 それなのに、その時私は考えてしまった。心が落ち窪み、身体ごとどんどん床に沈み込んで、闇に溶けてしまうような気がした。

 母が同じ問を発したということが、私をさらに冷やした。母だけは私を見捨てることはないと思っていた。積極的に何かをしてくれることはなくても、無条件にずっと一緒にいてくれるはずだと信じていた。

 そんなわけがないだろうという諦観が、抑えられないシミのように心に広がった。母にとって私は重荷だったのだ。普通の身体、それも男として生まれてきていたら、母は遥かに楽で幸せに暮らしていられた。なんなら父だって、もっとましな人間になってくれていたかもしれない。

 永遠とかずっとなどという物事は存在しない。私はたまたま生かされ、死にぞこなっただけだ。自分の腹を痛めて産んですぐに殺されてしまうのを、母が哀れに感じただけだったのだ。気の迷いの同情は摩耗していく。いつの日かすり減って無くなって、私は邪魔になる。それは一月後か、一週間後か、明日か。

(寒い)

 寝床に入る前まではそんな風に感じてもいなかったはずなのに、寒くて身体が冷たくてたまらなかった。私は身体にかけていた薄い布にくるまり、口を押えて泣いた。痙攣する歪な喉を空気が通り抜けて、出来損ないの楽器のようにと音をたてた。その間抜けな音が、引き攣れて起こった痒みも相まって憎らしくてたまらなくなり、私は自分で自分の首を絞めた。

 決して自死したくなったわけではない。それに子供の、しかも自らの手で何ができるわけでもなく、苦しくなってすぐに離した。ただぐねぐねした肉と気管の感触に、ここを空気が通り抜けているのだ、と思っただけだった。私自身がただそれだけのものだ、空洞だ、と。

 母が泣いているのを見たのも、私が自分のために泣いたのも、これが最初で最後だ。それ以来、泣くことも父や村人に怒りを感じることもしないと決めた。表情を消し、命令や暴言にも従順に従った。機械のように働き、存在感を消そうとした。

 反抗的な目を向けなくなったからだろう、暴行を受けることは減った。本当に無反応な対象に関心を持ち続けるのは難しい。木や石に当たってストレスを解消しようとしても、ずっと続けたら最後には疲れてしまう。

 とにかく痛みや打撃を避ける。それを至上の目的として、私は日々を繋いだ。自分は空っぽだという感覚が頭から離れなくなったため。そして何より、死にたくなかったからだった。

 声も戸籍も必要としてくれる人も持たず、無感動を装いながら恐ればかりを募らせている。生きる意味や目的がない。異常な色の中身のない肉の塊に手足を生やし、酸素を出し入れして動いているだけ。

 それが私だった。


 1-3.


 黒塗りの馬鹿でかい車が、村唯一の大きな道を走ってくる。

 自分の背丈も大幅に超えるそれを私は畑から見た。通るそばから風景を遮り塗りつぶしていくようで、否応なく目を奪った。

「〈紅旗ホンチー〉だ」

 仕事そっちのけで騒いでいる父と村人たちの声が聞こえてきて、私は自国産最高級車の名を知った。その間も私と母だけは手を動かしていた。

 手足は父に殴り飛ばされて砂を噛んだ時よりも成長していた。生白い肌は変わらなかったが、筋力はついていたと思う。とにかく合理的に、少しでも早く仕事を終わらせるすべを考えて続けていたからだろう。

 さっさと行けばいいのに、車両は妙にゆっくり、歩くのと変わらないような速度で進んでいた。村人たちに見せつけて、印象付けようとしていたのだろう。当時も今も、紅旗に乗るのは党の役職者だと相場が決まっている。そして党の権力、役人の力は絶対だ。年寄りには跪いて拝むような仕草をしている者さえいた。

 紅旗は道を村の端まで進み、一番大きな家の隣に停まった。そこは村長の家で、車が動きを止めるやいなや中から村長本人が飛び出してきた。彼は待ち構えるように直立したが、車内から人が出てくるまではたっぷり待たされた。

 まず屈強な男たちが、運転席と助手席、後部座席からそれぞれ降りてきた。三人は一様に緑色の軍服を着て、銃を持っていた。遠巻きに見ていた村人たちの様子が一気に緊張するのが分かった。の兵が武器を持って現れるなど、もしかしたら村の薄い歴史上でも初だったのかもしれない。

 続いて、後部座席から降りてきた者が反対側のドアを開けると、黒いスーツを着た男が一人現れた。髪型と体格で男だと思ったが、他のことはよく分からなかった。スーツだってめったに見たことはなかったから、あれが党の人間だろうかと考えた。

 スーツの男はドアを開けた軍人と一緒に村長の案内で家の中に消え、残り二人は護衛するように紅旗の外にそのまま立っていた。あるいは野次馬を威嚇していたのかもしれない。さっと潮が引くように、遠巻きに眺めていた村人たちがそれぞれの家や畑に引き返して行ったからだ。父も同じく畑に来ても良いはずだったが、一向に現れる様子が無かった。

 その時はそれで終わった。その時は。私は男たちのことも車のこともすぐに忘却し、母と共に目の前の仕事に淡々と取り組んだ。

 だから夕方になって畑から家に戻る最中、家々にまたざわめいた様子があっても、私はそれがあの車に乗った一団のせいだという発想すら湧いてこなかった。自宅の数軒隣の家から四人で出てくるのが見えて、ようやく存在を思い出したほどだった。

 出てきた家屋の前で立ち止まったスーツの男は、手に黒い板のようなものを持っていた。鉛筆のようなものでそれに何か書き込んでいるようだった。

 彼が一区切りついたように手を止めるまで、軍人たちも後ろに控えていた。そしておもむろに隣の家に歩き出した。そちらは私の家の並びだった。

「ちょっと、うちにも来るんじゃないでしょうね」

 隣を歩いていた母が、驚きと嫌気を疲労感で包んだような声で言った。私は何も言わなかったが、ぼんやりした不安が胸に湧いた。気づかないふりをして、蓋をした。

 家に着くと、父が先に戻っていた。様子がおかしい。足を投げ出して座り込み、憑かれたかのように爪を噛んでいる。そして部屋に入った私の顔を見るや否や目を見開き、大きな声で叫んだ。

「そ、そいつを今すぐ隠せ!」

 その声は勢いこそあったものの震えていて、私は萎縮したり怯えたりする前にあっけにとられた。それは母も同じだったようで、殴られることがないか様子を窺うようながらも、おずおずと尋ねていた。

「どうして?何かあったの?」

「なんでもいい、早く」

 父が言いかけ、立ち上がりかけたその時、玄関の扉が強く叩かれた。私と母は振り向き、父は中途半端な姿勢で硬直した。

「家の者はいるか、開けろ!」

 命令口調の声が部屋に響いた。威圧的で、ぐいぐいと押し付けるような勢いは叩きつけられるようだった。母が扉に駆けた。

 外には例の四人が立っていた。軍人二人が前に立ち、後ろにもう一人の軍人とスーツがいる。扉を叩いたのは前二人のうちのどちらかのようだった。

「我々は任務として、無戸籍者の摘発を行っている」

 右側の軍人が名乗りもせず、いきなり切り出した。

「この家が摘発対象であるという情報提供があり、訪問した。はい不是いいえで答えろ。この中にいるのか?」

 そいつは部屋全体に呼びかけるような調子で話していたが、視線は母の後ろに立っていた私を捉えていた。私が探している対象だと分かっている目だった。

 私は自分の血流の音を聞いた。何かとてつもなく酷いことがもたらされようとしているという予感が感覚を研ぎ澄まし、私を無感動の膜から引きずり出した。軍や役人がどういうものか当時の私にはその一端すらも分かっていなかったけれど。私の最も身近な危険であった父をさえ、あそこまで狼狽させる存在というだけで十分だった。

「はいか、いいえを述べろと言っている。この中に戸籍が無い者はいるか?」

 軍人は刺々しくもう一度繰り返した。自失した両親がどちらも返答しなかったためだろう。

「まあまあ、そんなに急かすな。突然で驚いているのだろう」

 場違いなほど気楽な調子の声が割って入った。話していた軍人がぴたりと口を閉じ、一歩引いた。

「私はワンと言います。党委員会……まあ、中央の方から派遣されてきました」

 スーツの男が苦笑しながら名を名乗った。右手には先ほど見た黒い板を持っていて、空いている左手を挙げてぶらぶら振っている。その動きと親し気な態度に注意を引かれ、私はついそいつの顔を注視した。

 髪はオールバックで、よく固められていた。目は小さく、下膨れ気味の顔に埋もれそうだ。貧乏人ばかりの村で太めの大人をあまり見たことがなかったから、党の人間は皆こうなのかと思った。

 その感想は半分正しく、半分間違っていたと後に知ることになる。目立たないため、わざとよくいる党員の一人、という格好をしていたのだ。

 その王という男の言葉を聞いて、両親は一層緊張したようだった。姓しか名乗らず中央の方などという曖昧な言い方しかしない、胡散臭さに満ち満ちた男だったが、党委員会という単語だけで十分だった。

「驚かせて申し訳ない。中央からの指示で、各支部において〈人口計画出産法〉が正しく運用されているか、抜き打ちで調査していましてね。私も北京からこんな所まで駆り出されたわけです」

 王は滑らかに語った。そこまで聞いて、私はこいつが親しみやすいなどという印象を取り消した。

 所々で差し込まれる堅苦しい法の名称や中央からの指示というニュアンスが、私たちで抵抗などできるようなものではないということを嫌らしく伝えていた。王のリラックスしたような態度は、私たちをどうとでもできるという確信があるからだと思った。

「この質問も形式的なもので、答えられなければそれでいいんですよ。届出と突き合せれば分かりますからね」

 王は他の者に口を挟む間も与えず、ぺらぺらと話しながら脇に抱えていた黒い板を持ち出した。あれは携帯端末PDAだったのだろう。

「ええと、こちらにはご夫婦が二人だけでお住まいということになっている。なるほど、もし子を産んだりしていたら罰金を取らないといけないわけだ。ほど」

 両親が息を飲む音が聞こえた。あるいは私もそうしていたのかもしれない。私たちの生活では、一日に一度一元札を見ることがあるかないか、という調子だった。

 王はそんな私たちの様子を知ってか知らずか、困ったように眉を下げた。

「さて、お二人が返事をしてくれないと、私たちは見て確認するしかないんですが」

 家の中をぐるりと見渡す。その視線が私を捉えると、引っ張ったかのように大きく目が見開かれ、口まで開けられた。

「おやおや、子供がいるぞ!なんて白い髪と肌だ、仙女のようだな!」

 家中の顔が全て私に向けられた。いきなり話題の中心に引きずり出されたわけだが、私は平静と無関心を装った。それがその日までの人生で培った防衛本能だった。

 あるいは仙女のよう、という言葉が動揺から私を引き離した。私をそう呼んですがり、何もできずに死んだ闇医者を思い出した。彼がいなくなってから誰一人使わなかった形容。自分はそんなものではないという反発心がにわかに湧き、足に力をこめさせた。そんな感情が残っていたことに自分で驚いたほどだった。

「しかしおかしい。この家には子は無いはず。どういうことだ?」

 王が今度は頭痛でもしてきた、というように眉間にしわを寄せ、指をたてた。何か言い訳でもするかと思ったが、父は口を開閉するばかりで言葉を発しなかった。母は呆然とした様子で、私と父と王たちを交互に見ていた。

 しばらく無言の時間が流れた。実際には数秒のことだったかもしれないがずいぶん長く感じられた。

 私は突然、家に背負いきれない苦役をもたらす厄災となったわけだ。このままここで黙って立ち続けていたらどうなるだろうと夢想した。罰金命令を残してこの道化のような男と軍人が消えたら、父は怒り狂って腹いせに私を殺すかもしれない。でも殺したところで事実は消えない。一生かけて徴収されるだけだ。それならば、と労働力として今まで以上に自由もなく酷使されるかもしれない。そうなったら死んでいるのと変わらない。

 死にたくない。死にたくない。死ななないためには、どうすればいい?

 茫洋とした仮面の下でめまぐるしく行き交っていた思考は、王が手をぱちんと叩く音で遮られた。まるで道化が舞台の終わりを告げるような音だった。

「そうか!君は孤児だな。この家に不法侵入し、勝手に住み着いていたわけだ」

 は、という音を口が発しようとしていた。もちろん実際にはできず、息が漏れただけだった。それはまったく予期していなかった言葉だった。王は合点を得た、というように一人で何度も頷きながら続けた。

「この家の子なら罰金の手続きをするだけだが、孤児ならば保護すべきだ。君、私たちと

 王はそう言ってまっすぐ私を見下ろし、手を差し伸べた。

 目元こそ同情するように真剣な形をしていたものの、そのまなざしは猛禽のように感じられた。この手を取ればどこに連れて行かれるかまるで分からなかった。

 それでも、その先には死なない未来があった。そしてそれは故郷にはなかった。

 逡巡しているふりをして大人たちの顔を盗み見た。軍人たちは不自然なくらい微動だにしなかった。両親は他にできることを忘れたかのようにうつむいたり、あらぬ方向を見てみたりしていた。そして二人の眼は揺れていて。

 だから私は、差し出された手を掴んだ。

 とても冷たくて、人間の手に思えなかった。

 王がにんまりと笑った。

「法を犯した者はいなかったし、未来ある子供を保護できた。今日は良い日だ!お二人とも、ご協力に感謝します。では」

 王が一方的に告げて身を翻す。私は引っ張られていった。軍人たちがさっと前後につき、扉を開けた。

 外には誰もいなかった。家のすぐ前に紅旗が停められていて、周囲を遮るようだった。来た時と同じように軍人の一人が後部座席のドアを開け、残りが前に回る。近くだと車体がとても大きく感じられたし、車内も暗くて、不気味な怪物の腹のように思えた。それでも気持ちは静かだった。

「君から乗りなさい。真ん中だ」

 王が手を離し、私の背を押した。

 扉を閉める音がしなかったから、家からも見えていたはずだ。けれど何の声も聞こえてこなかったし、私も何も言わなかった。

 乗り込んだ。振り返らず。


 1-4.


 車内では私の右に軍人、左に王が座った。

、申し訳ないが、我慢してもらうよ」

 王が言い終わらないうちに、軍人が革製の手錠を取り出して、私の腕を拘束してしまった。痛みはないけれど、強く締め付けられていて自由にならない。驚いたが、大人しくしていた。

「騒がない。さすがだ。たまに暴れる子もいてね。あまりに過ぎると、薬を使わないといけなくなる。それは嫌なんだ」

 王はやる気の感じられない拍手をしながら、ぺらぺらと話した。

「事後処理は、何か」

 右隣の軍人が言う。家で話していた男だった。

「何もしなくて構わん。もう十分疲れた」

 王が伸びをする。本気かどうか分からない。

「騒がないでしょうか」

「目こぼししてやったんだ、黙っているさ。強いて言うなら、君たちにもこの件に関しては黙っていて欲しいね。出世に響くぞ」

 軍人はそれきり何も言わなくった。王はやれやれというように鼻息を漏らすと、笑顔で私を見た。

「さあさあ、道中は長いから、親睦を深めよう。そう黙りこくらないで、声を聞かせてくれ。你是什么名字あなたのお名前は?」

 私は目を閉じて上を向いてみせることで答えた。王の目の前には醜い傷が露わになった。

 しかし、しばらく反応が無い。片目を開けて様子を窺うと、しげしげと傷を眺めまわしている王の姿があった。急に恥ずかしくなって、慌てて隠した。

「おやおや、感心していたのに。これほどの傷とは気づかなかったよ、よく生き残ったものだ」

 王が真顔で言った。私はなんだかむきになって傷を指さし、何度も首を振った。

「分かった分かった、話せないということだね?文字は?」

 また首を振ると、王は肩をすくめた。

「仕方ない。しばらくは神仙どのと呼ばせてもらおう。どうせ少しの間だ」

 いかにも些事であるという態度が癇に障ったが、感情的になり過ぎていると感じたので何もしなかった。

「では神仙どのに現状を説明しよう。私たちは今都市へ向かっている。どこかは言えない。そして君はこれからなかなかに辛い目にもあう。あの世の中のどん底のような村で這いつくばって生きていた方がマシだったと思う可能性も否定できない」

 不安が起こるばかりで、大して説明にもなっていないことを王は朗々と述べた。私の内心を察したのか、王は自信ありげに胸を張った。

「神仙どの心配するな、君なら耐えられる。君は私の誘いにほとんど躊躇なく乗った。ためらわないということは、その命以外、何も持ち合わせていないということだ」

 そこまで言って、王はぎゅっと片目をつむった。

「失うものが無ければ、勝ち取って、這い上がるだけだからね」

 ウインクというやつだったが、当時の私はいきなり変な顔をするな、ぐらいに思っていた。ただ、なんとなく励まされているようだと感じて、頷いておいた。

 車中には相当長くいさせられて、故郷を出た夕方からほとんど夜通し走った。一度車を変えて、同乗する軍人も交代したが、それぞれの車に同じくらいの時間乗っていた。

 私が村を出たのは初めてだったが、感動などはなかった。道は街灯もない荒涼とした場所ばかりで、すぐに飽きてしまったからだ。親睦を深めようなどと言っておきながら、王は最初の会話以降何も言わず、気づけばいびきをかいていた。私も耐え切れず、浅い眠りを何度か経験した。

「目覚めると良い、神仙どの。いよいよ下界だ!」

 王の声に起こされたのは朝方だった。私は車窓から、ついに街を見た。

 天にも届くようにそびえる銀色の四角い建物が何本も建っていた。ビルだった。車はその間をすり抜けるように走っており、周りには同様の車が何台もひしめいていた。さらにその脇に、見たこともないほどたくさんの人間が、多様な格好をして歩き回っていた。

「ほらほら、これが都市ですぞ。汚れた空気にあてられて、消えてしまわれぬよう」

 芝居がかった王の言葉もろくに耳に入っていなかった。物事にそこまで惹かれることは何年も経験していなかった。

 珍しいことにもっと眺めていたいとさえ思ったが、そこまでは叶わず、車はすいすいと進んでビルの内の一つに吸い込まれた。他よりひときわ高いように見えた。

 地下の駐車場に車は停まった。全員で降り、すぐそばの銀色の箱に乗り込んだ。何が起こるのかと思っていると、自分が浮遊する感覚を覚えて眩暈がした。エレベーターだったわけだが、誰も教えてくれないので私は一人で耐えていた。

 停止したのは相当高層階だったように思う。私と王だけが降り、軍人たちは敬礼して扉の向こうに消えた。

 降りた先には白衣の人間が数名立っていた。痩せた小男で、だらんと覇気無く立っていた。

「出迎えありがとう、大夫ダーフー

 王が鷹揚に声をかける。

「連絡のあった通り、見事なアルビノだな」

 大夫と呼ばれた男は王の方を見ずに言った。顔全体が細長い、爬虫類的な顔つきで、気味が悪かった。

「見とれないでくれよ。施術の準備は?」

「完了している、付いてきてくれ」

太好すばらしい

 すたすた歩きだす大夫とお付きの人々の後ろを、私と王が進んだ。そのフロアは壁も床も無機的な白色の素材で作られていて、端から端まで部屋の入口らしきドアがずらりと並んでいた。ドアにはそれぞれ四角い覗き窓がついていて、中の様子がわかるようになっているようだったが、私の背では届かなかった。

 唯一、一番奥の角部屋はドアが金属製で、他より部屋自体が一回り大きいようだった。そこに私たちは入室した。

 部屋の中には私の身長ほどの高さの大きな台があった。四隅に黒い器具があり、周囲には待機状態の電子器具やワゴンが整然と並べられていた。部屋に入ると大夫に付き従っていた人々がさっと散り、それらをいじり始めた。

「神仙どの、ここに寝てくれるかな」

 状況が飲み込めないまま、私は王の指示に従って台に上がった。拍子にワゴンの中のものが見えた。金属製の刃物、医療用のメスやピンセットが。

 つい身を強張らせたのに気付いたのだろう、今までずっとつけられっぱなしだった私の手枷を外していた大夫が、口を開いた。

「王営頭イントウ、これから何をするか、説明していないんじゃないか」

「ああ、失敬!確かにそうだ」

 一歩下がって大夫たちの作業を眺めていた王が、いかにも失敗した、という風にぴしゃりと自分の頭を叩いた。

「神仙どの、今から君の四肢をにする」

 聞いたことのない単語で、私はすぐには理解できなかった。眉をひそめているうちに手枷は外れ、大夫に促されて寝転んだ。

「分からないか?うーむ、つまり」

 王は大げさに考えるそぶりをした。そしてやにわに指をぱちんと鳴らすと、無造作に私の腕を両手で掴んだ。私はとっさに反応できなかった。

「この手足を、機械に換える」

 掴まれた場所に激痛が走った。王が急に万力のような力で引っ張ったのだ。苦痛に歪んだ私の顔をたっぷり眺めてから、王はようやく手を離した。王は楽しんでいた。

「分かってくれたかな?こういうことをする。もちろん麻酔を使うから、実際は痛くはないよ」

 荒れる呼吸に揺さぶられながら、私は必死に事態を受け止めようとしていた。

 死なないために、生き残るために、全て捨ててきた。故郷も、家族も。この身ひとつが私の最後の持ち物だった。これだけは捨てないで済むと思っていた。たとえ呪わしい、真白い魔物の身体であったとしても。それすらもまだこれ以上、奪われるというのか?

 暴れて逃げ出そうとした。しかし身体はがっちりと押さえつけられたように動かなかった。見ると、台の四隅の黒い器具に手首と足首が固定されている。それらは拘束具だった。

「その固定具は二百キロの圧力にも耐える。無理をすると骨が砕けるぞ」

 私の方を見てもいないのに、大夫が手を動かしながら言った。そういう反応は慣れ切っているというような態度だった。

「ちなみに、切り落としたお前の手足は、俺が報酬の一部としてもらうことになっている」

 余計な一言まで添えつつ、大夫は作業を続けた。二の腕に鳥肌が立ち、呼吸が乱れて喉がひきつった。もらわれた手足がどうなるか、想像したくもないのに考えそうになってしまった。

「神仙どの、まあそんなに怒らないでくれ。機械の手足はいいぞ。車にも劣らない速さで走り、力を込めれば岩をも砕く。ケガをしたって交換可能」

 王がふざけた茶々を入れる。こいつはやはり猛禽だったと思った。死にかけの獲物を啄みいたぶって、食べてしまう。

 こんなつもりではなかったのに。こんなことになると分かっていたら、あの時こいつの手を。

 取らなかった?

 それは違う、と否定する自分がいた。

 たとえこの事態を知っていても、あの手を取っていただろうと。

 道中で見た景色を思い出した。その時動いた自分の感情を思い出した。私は生きていた。故郷にいたときよりもずっと。昨日までの自分が、実は亡霊だったのではないかと思えるほどに。

 自分の原点を思い出す。。私はあそこに戻りたくない。たとえ、今以上に何かを失っても。

 暴れるのをやめ、呼吸を整えた。すうはあと酸素を輩出する音に自分は空洞だという気持ちを思い出した。塞がれなければ空気は通り抜ける。息はし続けられる。

「……ほう、目が変わったな」

 王が道化の笑みを消し、薄く口の端を上げた。それが王の本当の笑顔だと知るのは、後のことだ。私はただ無感情であることだけを考えながら、腕へ向けて顎をしゃくった。傍観していた大夫が口笛を吹いた。いつの間にかマスクを着けていて、くぐもった間抜けな音がした。

「やれってことらしいぞ。こいつは根性がある、営頭」

「傲岸な神仙どのだ。許可など頂くつもりはなかったというのにな。よかろう、始めてくれ」

 王が口の端を吊り上げたまま答えるや否や、大夫の手に魔法のように太い注射針が現れていた。腕を掴まれ、針先をあてがわれた。

「何、一瞬のことだ」

 大夫の声が聞こえた時、さっと自分の腕を見た。僅かな震えは抑えられなかった。意識はそこで途切れた。

 次に目覚めた時、私は別の部屋にいた。

 薬でぼんやりした頭で見回す。小窓付きのドアがまず見えて、あのたくさんあった小部屋の内の一室だと察した。細長く、それほど広くはない。ドアの反対側に机があって、その上に鉄格子付きの窓があった。その時は分からなかったが、ほとんど監獄と変わらない作りだった。

 身体の下は硬い台ではなく、布団のようなものが敷かれていた。それはいわゆるマットレスで、大した品ではなかったが、それでも私がこれまで使ってきたどんな布団よりもふかふかだった。

 背中でその柔らかさを感じたのを契機に、霧が晴れるように現実感覚が戻ってきた。ひとまず身を起そうと、腕に力をこめようとした。

 ぴくりとも動かなかった。

 慌てて首を動かし、手足を見た。先ほどまであったはずの白い肌は消えてなくなっていた。代わりに金属製の蛇腹のようなものが連なっていた。

 元の腕よりずっと太く、長い。塗装や覆いもなく、金属質が剥き出しだ。繋ぎ目がたくさんあり、同じような形状をした部品をつなげて形作っているようだった。先端は一応手のひらのような形をしていたが、ほとんど骨組みだけだった。

 こんなものにされてしまった。覚悟していたとはいえ、目の前に暗雲が立ちこめていくような気分に襲われた。諦めきれずにもう一度力を込めてみた。やはり少しも動かない。何度か試したが結果は同じだった。

「おやおや、遅いお目覚めかな、

 入口が開く音と共に、近づいてくる声がした。王が悠々と歩いてくる。顔には嘘くさい親切ぶったような笑みが戻っていた。

「君のコードは十四番になった。少しでも早くその擁刃肢ヨンレンツーに習熟すると良い。でなければ

 王は動けない私を上から覗き込み、またウインクらしきものをした。

「勝ち取って、這い上がりたまえ」

 かけられた言葉には反応せず、私は無表情に王を眺めた。心の底に、這い上がってやるさ、お前を踏み台にして、という思いを込めて。


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