2. Èr

 2-1.


 〈研究所〉というのが、私の四肢をもぎ、新たな住処となった場所の呼び名だった。大夫の部下らしき白衣を着た人間が、今後の生活について指示してくる際に言っていた。何事も一見ありきたりで、誰の記憶にも残らないように振る舞うこと。それが王や大夫が与する組織の基本のようだった。

 手術後に寝かされていた部屋が私にあてがわれた。とはいえ、〈十四〉と胸のところに大きく刺繍された簡素な服を着せられ、横になったまま何もできない。寝たきりの病人のように世話をされて過ごす日々が始まった。

 気が滅入ったのは、食事や睡眠はおろか排泄の時間まで決められていたことだ。しかもおむつを履かされ、所定の時間に取り換えに来るだけ。うっかり粗相そそうをしたら、不潔で気持ちの悪い感触を味わい続けなくてはならなかった。

 他の時間には隙間を埋め尽くすように検査や学習、訓練を行わされた。私の意欲などは勘案しないようで、それぞれがどういった目的なのかも知らされなかった。

「十四番、この時間からは語学学習です」

 寝床の裏にスピーカーがあるようで、都度唐突に番号呼ばわりで指示がなされた。不自然な声で誰が話しているのか分からなかった。機械で加工したものだったのだろう。同時にすっと白衣が現れ、教本やらを読めるようにセッティングしてまた去って行く。

 最初はずっと部屋の中だけで行われ、〈研究所〉の他の場所を知ることはできなかった。白衣は何かにつけ現れても、余計なことは何一つ話さなかった。王や大夫は一向に姿を見せなかった。

 苦痛と理不尽ばかりの状況だったが、私は前向きだった。この身体を自分のものにして、王が私の様子を確かめに来ずにはいられなくしてやろうと思っていた。そしてもっと利用してやろうと。

 福音も少しはあったのだ。私は言葉を得た。頭蓋骨に無線通信機が埋め込まれ、通信を脳裏で受け取るだけでなく、念じれば電子の声を出せるようになったのだ。

 GPSやバイタルケア等々も内蔵していると説明されたが、理解しきれなかった。まあ監視装置である。

 それでも、初めて発声した時は感慨らしきものがあった。自分の番号を言ってみろ、と白衣に言われた私は、どこにあるのか見えない寝床の裏のスピーカーに意識を集中するという難題を与えられた。

《……シィスー……》

 途切れながら細く発せられたその音は、高低の調整ができずまるで人間らしくなかったが、確かに私が発したものだった。

 胸につかえていたものがとれたような気がした。別に語れないことに劣等感とか悲しみとか、抱いていたわけではないけれど。以後学習や問診に対する回答は電子音声で行い、慣れてくるとより自然な風に調整することができるようになった。

 しかし身体を動かすことにはなかなか成果が出なかった。

 王が擁刃肢と呼んでいた不格好な金属の蛇腹は、温度や触れられた時の感覚こそあったものの、ぴくりとも動くことがなかった。

「頭のどこかでまだ、手足だと思っていないはずだ」

 行動訓練の際に白衣が言った。それは事実だった。どこかもなにも、ただの金属の塊という意識が少しも拭えなかった。見た目すらも装う気が感じられないのに、どうしてそんな風に思えるだろうか?

 そもそも今まで意識しなくても可能だった行為を意図的に行うということが大変に難しかった。どのように念じても力が入っていかない。

 《金属にしか思えない。動いているのが想像できない》

 正直にそう伝えると、白衣は次の訓練の際に部屋にモニタを持ってきた。電源を付けると、そこには蛇腹の手足を自在に伸縮させて駆け、跳ねる大人の男が映っていた。それは見た目にもかなりの速度で砂地を走り、何メートルにも見える障害物を難なく跳び越えていた。

(車にも劣らない速さで走り、力を込めれば岩をも砕く)

 王の言葉を思い出した。こういうことをして欲しかったらしいと分かったので、その動画は多少の意味はあった。しかし所詮は映像で、しかも自分とは程遠い大人のやることだから、自分にもできるという気がしなかった。だから効果も感じられなかった。

 次の訓練の時には、外に出ると言い渡された。ひと月近く個室に押し込められた末の突然の告知だったので戸惑ったが、私は荷物みたいに持ち上げられて車いすに座らされた。白衣がそれを押した。

 白い廊下に出て、ようやく自分のいた部屋の位置を確かめた。やはり手術を受けたフロアの内の一室で、三つ手前だった。奥には例の金属のドアが見えたが、思い出すと気分が悪くなりそうだったので、意識しないようにした。来た時のエレベーターに乗り込み、階下に連れて行かれた。

 ドアが開いて見えた光景には目を奪われた。そこは全体が広大な一つの部屋のようになっていて、床一面に柔らかい素材が敷かれていた。その上に子供たちが三十人近くおり、並んでいた。

 全員が私と同じ擁刃肢を取り付けられていた。初めて自分と同じく手足をもがれた子供たちに出会ったのだった。こんな境遇が自分だけだと思いあがっていたわけではなかったが、これほどたくさんいるとは予想していなかった。

 立ち上がったり、歩いたりしてこそいなかったものの、わずかなりとも肩口や腿を動かせている者はいた。そういう者たちが必死に前進しようとしている様子が芋虫のように見えていた。

 私の内心など構いもしないように、白衣は私を車いすから降ろし、床にうつ伏せに寝かせた。並べられた子供たちの一番端だった。

「ここからあの線まで移動しろ。終わるまで個室には戻さない」

 何十メートルも先にあるように見える白線を指さしながらそれだけ言って、白衣は去って行った。突然のことに、反応もできなかった。私は動かない手足を投げ出して、死体みたいに寝転がった。

 他の子供たちの不可解な行動の意味がようやく分かった。きっと同じ指示を受けている。いきなり放り出されたわけだ。腹が立ったが、どうしようもない。

 晴れて芋虫の仲間入りをした私は、ひとまず闇雲に力んでみた。首やら背中やらが強張って痛くなるばかりで、肝心の手足はぴくりともしなかった。当然と言えば当然で、その程度で動けていたらこれまでの訓練でとっくに成功していたはず。

 この部屋でも所定の時間になると、白衣が台車をごろごろ押して食事を置いたり、おむつを取り替えに来た。何十人分も一斉にそれをやるので白衣も何人も現れて、なかなか壮観だった。

 そういう時はどうしても少し子供たちを動かす必要があるわけだが、ご丁寧にもといた場所に印をつけておき、その通りに戻されたものだった。

 それから一日一人で頑張ってみたが、身体は数ミリも前進しなかった。その日は自分の汗で湿った、ぶよぶよした素材の上で寝る羽目になった。知らない人間ばかりの空間で寝るのも初めてで、ろくに疲れがとれなかった。

 翌日、参考になるかと、右隣にいた子供を観察してみた。私より少しだけ前にいたからだ。

 痩せた少年だった。あまりやる気が無いのか、ほとんど寝そべるばかりで、しかし気づくと思い出したように前進している。どうやっているのか聞きたい。話せるようになったからこそ抱いた欲求だった。

 何度か進むところを見逃して、一切目を離さないようにしようと決めた矢先、少年が顔を私に向けた。気怠そうな目つきだった。

「じろじろ見るんじゃねえ」

 反応を考えていると、怯えていると思ったのか、少年は嘲るような薄ら笑いを浮かべた。

「気持ち悪い目だぜ。そんななりだと、言葉も分からねえか?」

 自分より弱いと分かった途端強く出る手合いだ。面倒くさかったが、目を逸らすわけにはいかなかった。私は首を振って、なんとか自分の意思を伝えようとした。

「あ?」

 少年は急にじたばたし始めた私を警戒しているようだった。糸が伝わった様子はない。ジェスチャーができないだけでここまで意思疎通に支障があるとようやく気付いた。なまじっか設備があれば言葉が使えるようになったばかりに、余計にもどかしい。懸命に身体をのけぞらせたり、自分の手足と少年を交互に見たりしていた。汗みずくで、ひきつれた喉も痛んだが、なりふり構わなかった。

「……こっちに来たいのか」

 どれくらいたったろう、少年がぼそりとそう言った。私はすぐに何度も頷いた。

「だったら、そんな跳ねまわるんじゃねえ。鬱陶しいし、お前が疲れるだけだ」

 少年は毒気を抜かれたような顔になっていた。そして自分の蛇腹の腕に目をやり、言葉を続けた。

「ひとまず、とにかく、これ全体が手足だって思え。節目に気を取られてるんだよ。力が入れば」

 少年の肘上あたりと、腿のあたりが浮いた。そして、引きずるようにして身体を動かしていた。

「前には進める。関節はまだ俺も使えねえ。理屈じゃ、節目は全部曲がるらしいけどよ。……こういうのが聞きたかったんだろ」

 私はまた頷いた。何度も縦横に動かし過ぎて、首が痛かった。

 少年はその様子を見ると、話は終わりだというようにぷいと顔をそむけてしまった。聞きたいことは聞けたので、私もそれ以上気にしなかった。

 まだ甘えていたかもしれないと思った。細かい形も、何も気にしない。二本ずつそれなりの長さで肩と腰から生えている。手足の条件としては十分ではないか。

 私の手足はこれだ。これが私だ。

 その思いがついに胸の奥底に落ちた気がした。何とかして動かしている同じ境遇の存在を、実際に間近で見れたのも大きかっただろう。私は少年がしていたように、肘上と腿辺りに力をこめるイメージをした。

 そして蛇腹は確かに反応した。下へ突っ張るように、ほんの少し身体が浮いた。

 重い。金属の重量を今になって実感する。こういうものだと自分に言い聞かせた。肩を回すようにして、身を引き上げた。ほんのわずかの上、くたくたになっていたけれど、私は前進していた。

 やったぞと少年に言ってやりたくなった。話したくなる気持ちというものを感じたのはこれが最初だろう。けれど私が操作できるような音声機器はなかったし、少年は私を見ていなかった。

 できるようになれば、あとはやるだけだ。私は不格好に這い続けた。毎日疲労困憊だったが、充実感はあった。だんだんと効率も上がり、指先ほどの違いかもしれないが進める距離も長くなっていた。

 ただ、関節は一向に曲げられなかった。曲がりそうな部分が多すぎて、どこにどのように意識を向けたら良いのか掴めない。隣の少年が言っていた通りだと思った。向こうはできるようになっただろうか。

 あの後私たちの間にコミュニケーションは無く、分からなかった。少年と私の物理的な距離は縮まっていたが、気づいていないのか無視しているのか、少年は私に注意を向ける様子が無かった。

 追いつけば否が応でも気づくだろう。子供っぽい競争心から私は判断し、より頑張った。

 そして動けるようになって五日目、その日が訪れた。私は少年に並んだ。

 少年の頭が自分の横に来て、嬉しくなった私は肩を回した。蛇腹の腕が振り子式にぐるんと回って、少年に触れた。思ったより固い手触りだった。

 少年はそれまでの五日間、頑なに私と目を合わせていなかった。さすがに私も避けられていると分かっていたのだが、昂揚のあまり構わなかった。

「あーあ、追いつかれちまった」

 振り向いた表情は、妙に晴れやかだった。嫌そうな気怠い顔を向けられると決めつけていた私は戸惑った。

「お前、すげえな。どんどん進んでさ。やっぱなんか特別なのか?また頑張りそうになっちまったよ」

 少年は一人で勝手に話していた。何かを終えて、あるいは何かを決めて説明しているような滑らかな口調で。

「俺はここまでにするわ。疲れちまった」

 そう言うと少年は器用に身体を回転させ、仰向けになって手足を投げ出した。そしていきなり部屋中に響き渡るような大きな声を出した。

「おおい、九番だけどさ!誰か、ちょっと来てくれよ!」

 すぐに白衣が二人、駆けてきた。

「どうした、何があった」

 九番だった少年は、彼らに大げさに笑いかけた。

「いや、何かっていうか、俺、もういいわ」

「なんだと?」

「もうさ、ってことだよ。ここに来る前もクソみたいに生きてたけど、こんなもん付けて生きてたってもっとクソだって気づいたのさ」

 九番は笑顔のまま朗々と言い立てた。

「なあ、俺の生身の手足を返してくれよ。じゃなけりゃ、もう終わりでいいよ」

 白衣のお面のような無表情さが、対照的に際立った。驚く様子もなく、白衣の一人が淡々と確認した。

「擁刃肢の訓練を放棄するということだな?」

「難しい言葉使わないでくれよ。鉄のカタマリぶら下げるのはやめ、ってことだって」

 それは九番が言い終わるとすみやかに行われた。確認をした白衣が九番の身体を押さえつけると、もう一人が同じくらいの素早さで何かを注射した。

 九番は暴れたりしなかった。できなかったのかもしれない。身体がひきつったように見えて、すぐに弛緩した。押さえつけていた方の白衣が九番の口元と胸に耳をあてて頷き、小さく呟いたのが聞こえた。

 耳を疑った。擁刃肢を使えなければあっけなく死ぬ、と脅してきた王の薄っぺらな笑顔がよぎった。単に死ぬのではなかった。あっけなく殺されるということだった。使う意志を無くしたとみなされただけでも。

 もう一人の白衣が蛇腹の手足の肩口に近い部分をいじる。音もなくあっさりと蛇腹が外れ、九番の身体と一緒に荷物みたいに持ち上げられた。まがい物の手足を失った九番は随分小さく見えた。

 待てーー思わず頭によぎった。言葉にしようと念じたはずだけれど、もちろん出力できる先はなく、口も動かなかったから、傍目には私の内心なんて伝わらなかっただろう。

 誰を、なぜ止めようとしたのだったか。勝手に諦めた九番か。勝手に死なせた白衣たちか。どちらにしたって私がどうこうできることではなかったのに。死を忌避したからこそ、自分の手足まで捨てたくせに。

 各自の意思と〈研究所〉のルールがごく自然に作動して、当然の帰結として九番は死んだ。九番は先へ進む意志を失っていた。コースという意味でも、将来という意味でも。

 だから私がどれだけ忌み嫌っていたって、近くにいた以上、その死を見せつけられるのは避けようもなかったのだ。

 それでも私は、止められるものなら止めたいと思った。さっさと切り離して、九番と話したかったから。私は九番に何も伝えていなかった。向こうは言いたいだけ言ったくせに。ずるいじゃないか。

 白衣は力の抜けた九番の身体を担いですたすた隣を通り過ぎていく。自分のものなのに持ち上がらない手も、上手く力の入らない足も呪わしかった。立ち上がって、腕を伸ばすことができれば、あるいは止められるかもしれないのに。

 というか、そもそも、私の手足だろう。

 惑乱して頭にぎゅう詰めになった感情が、どろどろ混ざって一色に塗りつぶされる。溶けた鉄のような怒りに。

 いちいち考えさせるな。

 勝手に動け!

 何かが爆発したような大きな音が部屋中に響き渡った。立ち去ろうとしていた白衣二人組が振り向いて、私はそいつらの顔を正面から見据えた。

 いつもお面みたいに均一な無表情だったのに、どちらも驚愕に目を見開いている。よく肉のついた丸顔の方と、ごつごつした馬面の方。初めて違いに気づく。そして丸顔の方の腕の中には、まるで眠っているような少年が。

 私は仁王立ちして、彼等に蛇腹の腕を伸ばしていた。


 2-2.


「太好、太好、十四番」

 王が白衣を従え、私を見下ろしながら手を叩いている。その様子を訓練場の床に寝そべったまま見上げる。

 私は子供たちの中で初めて立ち上がってみせたらしい。

 それ以上何ができたわけでもないけれど。

 腕を伸ばしたのも束の間、踏み出そうとしてすぐバランスを崩し、無様に倒れ伏した。もがいているうちに白衣たちは何事もなかったかのように部屋の外に消えてしまった。九番を連れて。

 姿が見えなくなると急に力が抜けた。それまでの感情の高ぶりも嘘のようで。どこかに漏れ出てしまったようだった。

 誰かの死に姿を見たのは初めてだった。直面してみればあっけないものだ。避け続けたせいで、大げさにとらえ過ぎていたのかもしれない。

 眺めてみれば、騒ぎに関心を示したり、動揺したりするような子供もいなかった。皆何事もなかったかのように、それぞれが生き残るため這いずっていた。勝手に自らいなくなった者のことなど誰も気にしていなかった。

 だから私が気に掛ける義理だってなかったのだけれど。後ろから毎日眺めていた黒髪とか、最後の大仰な笑顔とかがやたら思い出されて、訓練への集中を乱した。そのたびに、あんな風にあっけなく死ぬのは嫌だと思った。

 そういうわけであの日から数日間、私は弛緩して過ごしていた。王がやってきたのはそんな時だった。

 「期待しているんだよ、神仙どの」

 番号呼ばわりした後で、そんなことを言われた。

 「実は手足のが上達している者を選んで、部隊をつくろうとしていてね。今回の報告を受けて、君もその候補になった」

 そこまで言った手にはいつの間にか注射器が現れていて、目を見張った。取り出す素振りにまるで気づかなかった。

 「しかし努力を続ける様子がなければ、考え直さざるを得なくなる。九番に与えたこれを君にも、などと」

 注射器が首筋に近づけられた。平静を装おうとしたが、冷や汗が出るのは抑えられなかった。

 「感傷に浸っている暇は無いぞ。這い上がりたまえ」

 振り子式に腕を振ってやることで答えた。九番に触れた時のように。その手の先、棘のような指を意識し、小指を立ててみせた。中国式〈無能野郎〉のサイン。

 白衣たちが一歩前に出る。王がそれを制する。薄く口の端を上げて。

 それ以降、表面上は従順に訓練に励んだ。生身と一緒で、一度感覚を掴めばそれが無意識になる。短い期間で自然に立ち上がれるようになり、歩けるようになった。私は二本足で、当初の目標だったラインを踏んだ。ただしそれより嬉しかったのは、自分で用を足せるようになったことだった。

 その頃には他の子供たちにも、訓練の進捗が見られるようになっていた。立ち上がってみせる者や、歩き出す者。それらの者たちと私は一緒に、他のフロアへ移されるという指示を受けた。部隊をつくるという王の言葉を思い出した。白衣に囲まれながらぞろぞろと移動させられたが、そこにはなんと大夫もいて、内心緊張を覚えた。

 乗り込んだエレベーターはまた階下へ向かう。擁刃肢を使いこなせるようになるほど、地上に近づけるということか。

 連れてこられたのはそれまでいたフロアと同様、一つの大きな部屋だった。場所自体の違いは床が硬いぐらいで、目立ったのは屈強な男たちが並んで立っていたことだった。

 私たちは男たちの前に立たされた。ちょうど一対一で向かい合う形となり、数えてみれば十二人いた。白衣と共に離れた場所で観察するような体だった大夫が、一歩進み出た。

「あー、今日から君たち、選抜された優秀なお子様には、ペアになってる強そうな大人と戦闘訓練をしてもらう」

 大夫は相変わらず覇気の無い様子で、物騒なことを告げた。トカゲみたいな目は全員を見ているようで、誰とも焦点が合っていないようにしているようにも感じられた。

「目標は大人に一発入れること。じゃ、どうぞ」

 大夫が腕をぶらっと振り上げてみせたのと同時に、私は同じ方向へ浮き上がった。

 衝撃に視界が暗転し、息ができなくなる。すぐに第二陣の衝撃が襲ってきて、ようやく私は自分が仰向けに倒れこんだことを理解した。

 頬が熱を持ち、じんじんと痛む。見上げた先では私と向かいあっていた男が拳を握っていた。殴られた、のか。

 理解が及んだのも束の間、握った拳が振りかぶられた。とっさに横へ転がると、二秒前まで私の頭があった場所へ降ってきた。

 身体が何かにぶつかった。隣にいる子供の腕だ。床に大の字になっている。そいつのペアらしき男が今にもそいつにのしかかろうとしているのが見えた。

 「よそ見とは余裕だな」

 呟く声と共に、蹴られた。胃にいきなり石を投げ込まれたような引力が生じ、後ろに吹っ飛ばされる。床から起き上がれず、虫みたいに震えた。

 「そうだ距離をとれ。そのけったいな手足の利点はリーチだ」

 私を蹴った男がぶつぶつ言っている。口を開かないで早口で話すので、唇の端から泡を吹いていた。この時からこいつを泡泡パオパオと呼んでやることにした。暴力と、私が望んだから蹴り飛ばしてやったというような一方的な口ぶり。父の顔が重なった。

(こんな白鬼子バイグイズは殺しておくべきだった)

 ぶくぶく唾を漏らす口がそう言っている気がした。身体が無意識に強張り、何もしない方が良いという幻想に襲われた。

 すぐに、もう逃れたものだということを思い直す。強いて立ち上がり、よろめきながら後ろに下がった。

 「動きを止めないのは良い。もっと早ければなお良い」

 無造作に歩み寄ってきた泡泡のささやきが耳元で聞こえたのと、腹に拳を埋められたのは同時だった。

 戦闘訓練などと言われていたが、それは暴行、あるいは単なる虐待だった。ようやく立って歩けるようになった程度の子供を一日中小突き回すことを、他にどう表現すれば良いだろうか。這いつくばらせて放り出したのもそうだが、とにかく追い詰めればなんとかするだろうと思っているらしかった。

 「止まるな。止まればただでさえ目立つお前は良い的だ」

 泡泡はいつも正面にだらんと立って、ぶつぶつ言いながら前触れも予告もなく私に攻撃を加えた。殴られ蹴られ投げ飛ばされた。

 最初の内は何も対応できず、木が折れるかのように倒れてはやっとの思いで立ち上がることを繰り返した。諦めて自分を無感動の殻で覆うことはしなかったし、できなかった。力尽きたふりをしたところで起き上がるまで踏みつけられたためだ。一日の訓練が終わるのは私が本当に意識を失い、多少暴行されても起き上がらないのを泡泡が確かめてからだった。

 何日かおきに、大夫の指示の下、白衣によって部屋から担架で運び出される子供が視界の隅に見えた。隣にいたはずの子供も気づいたらいなかった。他人を観察する余裕なんてとてもなかったから、どういう状況だったのか分からない。打ちどころが悪かったのか、あるいは九番のように生きるのをやめてしまったのか。そういう子供が戻ってきたり、あるいは代わりが来るということはなかった。

 そんなことがおよそ一か月も続くと、場所が広くとれるようになって、泡泡は動き回って攻撃してくるようになった。散歩でもしているかのように歩き出したと思ったら突然向き直ってしゃがみ込み、足払いをかけたり。

 ただし、動けるようになったのは私も同じだった。

 鎌みたいに私を引き倒そうとする足から、私は蛇腹の足をばねみたいに使って跳びすさる。そして泡泡には届かない空中から蛇腹の腕を振り下ろす。難なくいなされ着地するところに突っ込まれても、手足を折り畳んで身体を丸めて防ぐ。ボールみたいに転がって距離を取る。私の距離を。

 大夫や泡泡の思い通りになったようでしゃくだったが、結果的に私は擁刃肢で格闘ができるほどになっていた。

 まず殴られ続けているうちにおぼろげに泡泡の拳が見えるようになった。それを避けようと獣のように転がり回り、だんだんと躱すことが成功するようになった。そうすると次はどう自分の腕が動いてくれればこれを防げるかと考えられるようになった。

 後から思えば、というだけでその時々はそんな風に順序立てて考えられていない。そこに至るまでに受けた負傷も数え切れなかった。

 「その丸くなる動きは悪くない。けったいな手足の特性を活かせている」

 私がかろうじて反撃し始めてから、泡泡は指導めいた言葉を口にすることが増えた。腕を伸縮させて泡泡の喉元に突きこんでみせることで答える。いちいちけったい、とか見下したような枕詞をつけて形容されるのに腹が立ったからだ。

 暴力の振るい方を言われ続けたせいで、実践することにも抵抗がなくなっていた。それもこの訓練の目的だったのかもしれない。真っ直ぐ伸びた蛇腹はしかしあっさりと片手一本で払いのけられる。

 「これは駄目だ。直線的すぎる。気負いも過ぎる」

 伸びた腕に沿うように走りこまれ、反応できずに胸の真ん中へ掌底を打ち込まれた。心臓が止まったかのような錯覚を覚え、耐えられずにへたりこんだ。

 「相手の意表を突け。どう動くか悟らせるな。攻撃しようとしていることも気取られるな。殺意を発した時にはもう殺せ」

 動悸に乱れる意識を、ひとり言のように話し続ける泡泡が漏らした、殺すという言葉が引っ張った。私を殺しておけばよかったと吐き捨てる父の記憶が再燃し、気を取られた。

 振り払おうとしても、今回は死の記憶が連鎖した。私にすがろうとした闇医者。自ら動くことを止めた九番。いつでも私の命を奪えるとせせら笑った王。

 どの記憶も嫌で嫌でしょうがない。思い出す原因をつくった泡泡はまだごちゃごちゃ言っている。黙らせたい。不快で、振り払ってしまいたい。その一心で、私は腕を振っていた。

「むおっ!?」

 泡泡のおかしな、くぐもったような声がした。目を見開き、歯を食いしばって文字通り泡のように涎を出している。その脇腹には私の金属の拳がめり込んでいた。

 「ぐ……なんと……こんなに突然実践できるなどということがあるか。まさか今まで実力を隠していたとでも言うのか」

 拳の命中した場所を押さえて、よろめきながら泡泡が離れる。ダメージを受けたはずなのに妙に饒舌だ。泡も今まで一番たくさん飛ばしているようだった。

 自分の腕を見る。だらんと垂れていたはずの擁刃肢が、生身で言えば肘の少し先辺りでいきなり直角に曲がっていた。

 「任意の関節を曲げられたのか」

 いつの間にか、白衣を従えた大夫が傍に立っていた。どこから見られていたのだろう。

 「元の身体の縛りから離れて、擁刃肢に習熟しているということだ。喜ばしい。営頭にご報告しなくては」

 大夫が淡々と言う。唇から舌でも覗かせるのではないかと疑った。

「兵士としての素質もありそうです」

 衝撃から復帰した様子で直立する泡泡も重ねる。私は勝手に自分のことを論評している大人たちを警戒しつつ、力を得ているという実感を噛みしめた。空洞だった私に、中身が詰め込まれていく。


 2-3.


 王の言う部隊がそれらしいかたちで整えられたのは、私が泡泡に一発入れた数か月後だった。〈研究所〉の戦闘訓練が行われていた部屋に蛇腹の手足、擁刃肢を与えられた子供の集団が集められた。四人ずつ四列に並ばされ、総勢十六名。

 私は一番端の列、それも最前列に立たされていた。面倒なことに目の前には王がリラックスした様子で立っていて、訓示を述べていた。

「ついにこの第三十一機械工兵営団が部隊として形を整えた。営頭として私も感慨深いものがある」

 営頭という王の肩書は部隊のおさという意味だったとこの時知った。少し離れたところには泡泡や大夫、白衣たちが並んで控えている。泡泡と大夫は参謀ということだった。

 そういったことをはじめ、私は色々な情報や感情を咀嚼するのに忙しかった。他の子供を見ることすら久々だったためだ。

 泡泡に拳が届き、戦闘訓練の目標を達成した後、私は単独で隔離された。当初寝かされていた個室と同じようなつくりで、ベッドのかわりに椅子と机、トイレしかない部屋だ。入れられた途端、腕も脚も接合部を一部外されて人並みの長さまで縮められてしまった。そしてひたすら学習することを命じられた。抵抗したり、逃げたりさせないためだったようだ。

 初等教育すら受けていなかった私は母国語の読み書きと算数から始めた。そこからの内容も多岐にわたりかつ膨大だった。異国語、化学、生物、歴史、などなど。朝から晩までスケジュールが固められ、習熟確認の試験まで用意されていた。せっかく自由に動かせるようになった身体をお預けにされ、学ぶ理由も分からないまま。

 とはいえ、私はいたって楽しんだ。一人なのも得たものを取り上げられるのも慣れていたし、勉強はこれまで望んでもできなかったことだった。学ぶと自分に中身が詰まっていく感じがする。心地良かった。

 一度だけ、大夫が現れたことがある。一日三回白衣が食事を持って来ていたのだが、それと一緒に不意に現れたのだ。

 「検診だ」

 大夫はそれだけ言うと、私の頭の先から腰までじろじろ眺めた。

 《問題ありませんが》

 生理的不快感が表に出ないよう気を付けながら、私は首元に着けたスピーカーから声を発した。語学をやらされたためか会話にすっかり支障がなくなり、それならということで支給されたものだ。旧式で無骨な機械だったが、普通の人間のように話せるので便利だった。

 「普段通り食事を摂れ。その様子から俺が判断する」

 そう言っている時には、大夫は既に手に持った端末に目を落としていた。とことん自分が興味のあるものしか見ない男だ。

 手下の白衣が進み出て、頭や背中に断りもなく機器を貼りつけたりしていく。むかむかしながら言われた通りに出されたものを口にした。食事はつまらなくて、いつも同じ味気無い固形のレーションみたいなものばかりだ。ごくんと喉を鳴らして嚥下した。

 「飲み込んだな?」

 突然大夫が目を剥いて顔を近づけてきた。危うくむせて色々吹きかけるところだった。

 「少なくとも味覚には問題があるようだ。食感は十分にあるか?ゴムのように感じたりは?」

 《……どういう意味ですか》

 興味深い事象を見つけた、というように質問をたたみかけてくる。不安と警戒心を感じながら、質問で返した。

 「その食事は特別に苦く味付けさせた。常人ならすぐ吐き出してしまう程に。それを当然のように摂取した。ということだ」

 言葉が、石を投げ込まれたように腹へ沈殿した。

 「擁刃肢を受け入れた副作用だな。何らかの肉体的感覚の減退あるいは喪失。程度の差はあるが被験者全員に確認されている」

 聞かされてもいなかったことを大夫が当然のように語る。無意識に母の言葉を連想した。なぜこんな風に生まれてきたのか。ただでさえまともな身体ではない自分が、どんどん人間ではなくなっていく気がする。否。まだ人間気取りか?

 冷たくなっていく心の声を、耐えろ、と封じた。諦めろ、とは思わなかった。

 《なるほど。それなのに私が何も言わないから、いじくり回しに来たんですね》

 皮肉をひとつ投げてやる。それぐらいの高等なコミュニケーションもとれるようになったし、それぐらいの抵抗は見せてやりたくなっていた。

 「そうだ。お前の症状は軽いぞ。視力や聴力を失った奴もいる」

 返答には私の敵意など気にした風もなく、だから我慢しろとでも言うようだった。

 「それより、本当に毎日同じものだと思っていたか?味は日替わりらしいぞ。咖喱カレーやら皮蛋ピータンやら。少しも違いを感じなかったか」

 真顔で馬鹿にしたような問診をし、データをとると、大夫は去った。

 食事や教育担当の白衣以外と会うのは、それ以来だった。最前列で目立つから、他の子供の様子を窺うようなことはできない。この中に大夫が言っていた、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりした子供もいるのだろうか。

 結局その後、食事に違いを感じることは無かった。幸運に思うべきなのだと自分に言い聞かせる。心の奥底に煮える怒りに蓋をするように。

 「これから君たちは、同じ列に並んでいる四人で一組の小隊として行動してもらう。一番前に立っている者が排頭ぱいとう、小隊長だ」

 気がそぞろになっていた私は王の言葉を理解するのが一瞬遅れた。私は最前列に立っている。それが排頭だという。小隊長?私が?

 とっさに王を見た。全体を見渡すように話していて、私の方へ顔を向けてはいない。道化の横顔には笑顔が張り付いていて、何も分からなかった。

 「実戦もすぐにやってくるだろう。連帯し、党と国家に貢献してくれたまえ。それがその素晴らしい身体の対価だ」

 面白くない冗談を言って王は下がり、その後は泡泡が進み出て指図をし、列ごと、つまり小隊ごとに車座にさせられた。

 ようやく顔を見ることができた小隊の人員は、私の他に女が一人、男が二人だった。それぞれの胸には〈八〉〈二十一〉〈三十六〉と書かれている。どの隊も男女比は均等にされているようだった。

「今後はこの隊で共同生活をし、任務にも臨ませる。排頭からそれぞれ番号を名乗り、伝えたいことがあれば言っておけ」

 泡泡が泡を飛ばして命令を告げる。心なしか熱意がこもっているようだ。番号なんて見れば分かるのにと嫌々ながら声を出した。

十四シィスー番。この見た目は生まれつき。地声が出ないけれど、このスピーカーがあれば話せるし、通信はできる》

「お終いだ」

 私が言い終わらないうちに被せるように口を開いた者がいた。〈二十一〉の男だった。

「〈14ヤオスー〉?要死死ねってか?おまけに死人みたいな顔だ。こんな不吉な奴が隊長じゃ、俺たちゃもう死んだようなもんだ」

 目が小さい、太めの男だ。痩せた者ばかりのこの施設では珍しい。私より年上に見えたが、神経質そうに爪に噛みついている。一歩踏み出し、私に詰め寄ってくる。

 「俺が排頭をやる。そんで、てめえはどっか別の隊に行け」

 「ちょっと、やめようよ」

 間に小柄な女が割り込んできた。八番だ。

 「騒ぐとまずいよ、あいつらの指示に従わなかったら、殺されちゃうよ」

 高い声が必死そうに訴える。私に背を向けるように立っているからどんな顔なのかは分からない。おさげにした髪が揺れていた。

 「なんだ、てめえも。女のくせに」

 「だからそういう言い方をやめて」

 勝手に盛り上がって、口論を始める。だんだん声が大きくなる。近くにいた他の隊の奴らがこちらを見ている。面倒くさい、頭痛がしそうだ。私は別にいい、と言いかけた時。

 「何をやっている」

 泡泡に気づかれてしまった。こちらに近づいてくる。

 「俺にこの隊の排頭をやらせてください」

 二十一番が素早く振り向いて言った。

 「お前では無理だな。十四番より弱い」

 泡泡が間髪入れず答えた。考えるまでもないという様子で、泡も吹いていなかった。

 「そんなこと」

 「では試してみてはどうだ」

 泡泡が指で私を示したのが見えた時には、二十一番の拳が私を襲っていた。

 横に跳んで避けた。驚きの声がして近くの子供たちが身を引く。空いた空間に転がる。

 一秒前まで寝ていた場所を金属が削った。攻撃の途中でさらに別方向に派生させられることが、私もよく知っている擁刃肢の利点だ。何のためらいもなく腕を振るってきた。これなら遠慮の必要は無いな、と冷静に考えた。

 脚を縮め、強く床を蹴った。ばねの要領で跳躍力が生まれ、身体全体が浮く。私は弾丸のように二十一番に近づいた。噛みつきそうな顔が驚愕に変わっていくのがスローモーションで見える。自分と同じく離れたところから腕を振るってくると思っていたのだろう。そして私は一撃を。

 加えなかった。

 跳び上がった私を八番が抱き止めたからだ。

 すぐ下の骨格を感じる、それでも柔らかい感触に包まれた。胸のあたりに頭を突っ込んでいた。恥ずかしくなって、慌てて身を離した。

 初めて見る八番の顔は大きい目をしていた。睨むわけではないが、射るような視線だ。

「だから、やめて」

 押し殺すように八番は言う。私が下がったのに、肩から手を放してくれない。それでいて強引に押さえているという感じでもなくて、まるで生身の腕のようだった。同じ蛇腹を付けられていると思えなかった。

 《けれど、あいつが》

 言いかけて顔を上げると、二十一番も同様にもう一人の隊員に動きを止められていた。確か、三十六番か。

 八番とは対称的に背が高く、がっしりしている。組み付かれた方は何かわめきながらじたばたしているが、全く身動きがとれないようだ。やがて諦めたように脱力した。

 「結果は出たようだな」

 泡泡が口を歪めている。なんと、笑っているのだと少しかかってから気づいた。いつも通り泡も出ている。上機嫌だとこうなるのか。

 「全隊が済んだ。早速訓練に移行するぞ」

 その日の内に部隊の子供は全員〈研究所〉から移動させられた。窓に鉄格子がはめられ、その上から目隠しをされた大きな車に詰め込まれたので、どこへ向かっているのかまるで分からない。故郷の村から〈研究所〉へ来た時と同じくらいの時間をかけて移動し、停車したのは夜の闇深い山中だった。降りた際、山林の景色に村を思い出したが、すぐに打ち消した。

 人為的に切り開いたような場所に建物があり、そのうちの一室を隊ごとにあてがわれた。身体を拭いて寝ろと命じると、泡泡や白衣はどこかに行ってしまった。

 部屋にはベッドを二つ重ねたものが二つずつあった。これならば理屈の上では四人が寝られるが、支えが随分細くて不安を感じた。

 「ねえ、名前を教えて」

 手持ち無沙汰な中、おもむろに言い出したのは八番だった。

 「番号ならもう言っただろ」

 二十一番が顔を背けて言う。〈研究所〉で難癖をつけるのを止められてから、私や八番とずっと目を合わせなかった。三十六番は目を閉じ腕を組んで立っている。

 「番号じゃなくて、名前。親からもらったものがあるでしょう?」

 八番は身を乗り出し、首を振る。そして真剣な面持ちで私たちを見渡した。

 「せっかくこれから仲間になるんだから。あいつらの目が無い時くらい、本当の自分でいたいの。私は依依イーイー。あなたたちは?」

 八番の言葉は、〈研究所〉で教え込まれた違う国の言語くらい遠いものに感じられた。仲間という概念は〈研究所〉で学んだ書籍の中だけの存在だったし、本当とか嘘とか区別できるほど自己を主張できたこともなかった。

 共感できずにしらけている私とは違い、他の二人は心動かされるものがあったらしい。どちらもちらりと八番を見ていた。

「……タオ

 先に口を開いたのは二十一番だった。八番――依依が友好的になった途端この調子ということは、単に小心なだけなのかもしれない。

 「大維ダーウェイ

 続いて三十六番が名乗った。何か続けることを期待したが、その一言のきり、目も開かなかった。どういう人間か、まだまるで分からない。

 依依は何度も頷いている。こちらは分かりやすい。善人か、あるいは善人ぶっているかのどちらかだ。少なくとも害はない。ただ、得意ではない。

 「十四番さん、あなたは?」

 自分の善意には他人も善意で答えてくれると、当然のように思っているからだ。

 《私は番号でいい。本名は捨てた》

 返答を聞いて、依依は心底悲しいというように顔を歪めた。罪悪感で引っ込んでくれることを期待したが、そうはいかなかった。

 「じゃあ、あだ名をつけてあげる。何がいいかな」

 《え?よしてよ、いらない》

 私の抗議を無視して依依は首をひねる。濤や大維は我関せずといった風で何もしない。

 「そうだ、あなたの肌や髪、透き通るみたいに綺麗な白だよね。動きもすごくしなやか。だから、白兎バイトゥでどう?」

 依依は強引な性格であるようだ。踏み込むのにためらいが無い。思えば、昼間私と濤の間に割り込んだ時もそうだった。諦めて、好きにさせておいた方が楽かもしれない。

 《もう、なんでもいいよ》

 答えると、依依は笑顔を浮かべた。故郷で見てきたものや、王のそれと違って、心から陽性のものだと感じられた。私にはこれまでもこの先もできなかったもの。

 「よろしくね、濤、大維、白兎。皆で、生き抜こう」

 私の内心を知ってか知らずか、依依がそんなことを言った。

 よろしくなんて返せなかったけど、確かに私はまだ死にたくはない、と思った。


 1-4.


 翌日からより実践的な戦闘訓練が始まった。私たちの擁刃肢は初日に関節部を換装され、字義通り自分の意思で出し入れできる刃を収納したものにされた。

 山全体が〈研究所〉の敷地らしく、訓練は宿舎の周りだけでなく山肌や崖、川など、様々な地形で行われた。 敵役は泡泡のような男たちが務めた。あちこちに隠れ潜む男達の罠や攻撃をくぐり抜け、目標を達成する。

 こちらは一応戦闘用の機械化義肢を付けていたとはいえ、不慣れでほとんど素手と変わらない。一方、彼らは本物の刃物や銃器だけでなく、爆薬や自然を使ったトラップも仕掛けてきた。

 泡泡を含め、男たちは皆元軍人か何か、戦地にいた人間だったのだろう。あまりにも手慣れた動きだったからだ。

 そこには紛れもない殺意があり、父からの暴力とは違う恐怖を感じた。ささいなことをきっかけに殺されるのではなく、積み上げられた殺す手段を回避しなくてはいけないのだ。かつて培った身の守り方、つまり相手をなるべく刺激しないでじっと耐える、などの方法は選べなかった。

 しかも私は遺憾ながら排頭などというものにされてしまったので、自らを鍛えるだけでなく周りに注意し導くという未だかつて経験したことのない難役をこなさなくてはならなかった。

 最初の見立ては正しく、濤は小心で神経質な男だった。縮こまっているのならまだ扱いやすかったが、攻撃を受けるとすぐパニックになるのには閉口した。

「うああああー!」

 叫びながら猪突猛進し、とにかく一刻も早くその場を抜け出すことしか考えられなくなってしまうのだ。平常の行動訓練ならそれでこなせたかもしれないが、生き残るために戦うには向いていないと言わざるを得なかった。

(くそ、また)

 内心で舌打ちした。その時は森の中で敵役を回避、適宜倒しながら目標地点を目指すという訓練で、濤は正面に飛び出してきた一人にサブマシンガンの乱射を受けたのだ。

 錯乱気味ながらも当たった様子が無いのはなかなかの運動能力だが、直線的すぎる。奥に伏兵を控えられているに違いない。

《白兎、私、左から回るから!》

 無線通信を入れてきたのは依依だ。そのように決めたわけではないが、色々と気が回る彼女は副排頭のような立場になっていた。

 私は答えないで右へ動く。依依ならそうすると既に思っていた。白兎という呼び方も、嫌だが慣れてしまっている。

 その内に濤が最初の敵を組み敷き、武器を破壊した。同時に案の上、後方から二人の敵がさっと身を起こした。

 興奮している濤はとっさに反応できない。二人がそれぞれ銃口を濤に向け引き金に指をかける。それに寸分違わず、私と依依は樹上から襲い掛かった。視界の外から擁刃肢を伸ばし、武器を払い落とす。男たち本人は落下の勢いで踏みつけ、失神させた。

 後詰は大維の役割だ。あえて僅かに遅れて到着し、濤に近づく。

 濤は伏兵に襲われたことに逆上して、組み敷いた男を無茶苦茶に殴っていた。そいつが顔を腫らして気絶していることを確かめると、無言で濤の肩を叩いて我に返らせる。常に一歩引いて状況を観察し、他の者が見落としていることを指し示してくれる。

 大維の当初の平坦な印象は、擁刃肢の副作用で皮膚感覚が減衰しているせいだった。影響で、感情の起伏も弱くなってしまったらしい。それを補うために養われた特質だったし、それは何度も私たちを助けた。

 「十四番隊は優秀だな」

 目標地点に四人揃って到達すると、泡泡が待っていた。小隊は排頭の番号で呼ばれる決まりになっていた。

 「派遣も近いだろう。この調子で励め」

 「光栄です!」

 誰よりも早く、依依が返事をした。泡泡は頷き、去った。

 派遣とは十分な訓練を完了したとみなされ、秘密の特殊部隊として実際の戦地へ行かされるということだ。その説明をされた時から、依依は早くその人員に選ばれたいと公言してはばからなかった。

 「だって、そうすれば、自由になることが増えるでしょう?」

 就寝前のわずかな時間、依依はいつも私に話しかけてきた。単に依依の寝床の上段に私がいたからというだけだろう。反対側の男二人は寝転がった途端にいびきをかくようなありさまだった。

 驚いたことに依依は、私と同様生まれながらに身体に問題を抱えていた。生来の四肢欠損者だったのだ。

 しかし私と異なったのは、大変幸福な家庭環境にいたことだった。依依は両親に慈しまれて育てられた。一人っ子政策の下、障害のある女子など生まれてきたその場で撲殺されてもおかしくないところを。

 ただし、依依にも戸籍は無かった。依依が生まれた二年後に弟が生まれ、一家の子供はその弟一人ということにされていた。

「毎日楽しかったよ。分け隔てなく扱ってくれたし。でも、貧乏だったんだよね」

 仕方のないことだ、と苦笑するような口ぶりだった。貧しい出自であることは濤や大維も含む私たち全員が多分唯一共通している点で、実際どうしようもないことだった。依依の家も当然〈人口計画出産法〉に定められた多額の罰金など払えるわけがなく、薄氷の上での生活は長くは続かなかった。王が来て、家族は引き裂かれた。

 「爸爸パパ妈妈ママは泣いてくれた。私も手足なんていらない、このままでいいって言った。どうにもならなかったけど」

 依依は感極まって泣くようなこともなく、いたって淡々と語った。その様子が、言葉の裏の意志をより強く感じさせた。

 「だから私は生きたいの。少しくらい媚びたっていい。戦えるようになって結果を出せば、自由にしてもらえるはず。そしたら家に帰るの。自分の居場所に」

 その話をされた時、私は無言で聞いているだけだった。単に何も思いつかなかったのだ。決定的な一点で、自分と境遇が違いすぎて。親に愛されたか否か。私にとって肉親の愛は学習されられた書物の中の概念で、まるで現実味が無かった。

 「ねえ白兎、あなたは帰りたい?」

 《そうでもないかな》

 眠ったふりをして誤魔化そうかと思ったが、それだけ答えた。自分の過去の話はしていなかった。

 濤や大維なら何と言っただろうか、と想像しかけてすぐに止めた。二人も昔の話はほとんどしなかった。

 「そうなんだ。じゃあ、

 その言葉に、急に九番の空虚な笑顔がよぎった。ほとんど思い出さなくなっていたのに。

 《依依、九番って知ってる?》

 戯れに、思いついたことを尋ねる。私にしては珍しかった。

 「え、私の次の番号の人?ごめん、知らない」

 戸惑った様子の依依の反応は当然だった。それぞれの経験を聞くと、私たちは皆ばらばらに連れて来られ、管理されていた。番号が連番などというのは本当に偶然なのだ。あの広い部屋で這う訓練をすることになって初めて他の子供を見るのが普通で、一人で上手くやれてしまえばあそこに来ることもないようだった。

 知らないならいいよ。そういう、勝手に終わりにして死んだ奴がいたんだ。あいつみたいに死にたくないからだ。

 そう言えばいいのに、なぜか口に出せず。結局眠ったふりをした。出せるようになって、しまうことも覚えたのだ。

 依依もそれ以上聞いてこなかった。遠慮はしないが、退き際も弁えていた。

 泡泡の言葉通り、そして依依の希望通り、それからすぐに派遣されることが伝えられた。行き先は某国との国境紛争地帯で、破壊工作をしているあちら側の部隊を殲滅すべし、ということだった。故郷にいた頃は国と国の境が問題になるのだということさえ知らなかったから、感慨深いような妙な気持ちだった。他の隊から分けられ、その日の内に宿舎を出ることになった。

 「私たちの力が認められた!」

 来た時と同じ外の見えない車両の中で、依依は見るからに喜んでいるようだった。

 「不安だ」

 濤は膝を抱えて小さな目を泳がせている。感情的なところは直っていなかったが、爪を噛んだりむやみに私たちに絡むようなことはしなくなっていた。

 「気にし過ぎだって、私たちなら」

 「人を殺さなきゃいけないなんて」

 濤の呟きに、依依は押し黙った。四人とも、人間の命を自ら奪うことは経験していなかった。依依のことだから、濤の気にしている点を分かっていて、明るく振る舞っていたのかもしれない。

 大維は例によって何も言わない。こういう時はずるいなと思った。口を開けるのは排頭である私だけだった。

 《やるしかないし、できる》

 三人の顔が一斉に私の方へ向けられる。こんな注目のされ方は初めてで、こそばゆかった。

 《私たちは、生き抜くんだから》

 真っ先に頷いたのは大維だった。ちゃんと聞いて、考えているのだ。

 「……あんたにゃ敵わんから、従うよ」

 続いて濤が言った。下を向いてはいたが、もう目は泳いでいなかった。

 「そうだね。ありがとう、白兎。生き抜こう」

 依依はしばらく黙っていたが、最終的にそう言って微笑んだ。

 「生き抜こう」

 自分に言い聞かせるかのように、そのフレーズだけをもう一度繰り返して。

 誰より生きたいと願っていた依依はしかし、誰より先に死んだ。

 任務自体は拍子抜けするくらい簡単に進んでいった。敵側の兵はよく訓練されていて、泡泡たちぐらいには手強かった。しかし普通の二倍以上の長さに伸縮する刃の手足を振りかざして襲ってくる敵、などというものに対応する手段は知らなかったようだった。

 私たちは闇夜に紛れて敵兵を嬲り、分断し、消耗させた。そしてすっかり萎縮し動けなくなった者から確実に息の根を止めていった。

 一人目、硬直し立ち止まった男の頸動脈を、頭上から掻き切った時はさすがに動悸が早まり冷や汗をかいた。しかしそれ以降は頭がすっと冷めて、二人目からはもう作業のように捉えて頭を握り潰していた。頭蓋がみしみし音をたてて、飛び散った血が金属の手のひらを濡らすのにも何も感じなかった。

 だから、そんな中で背後から撃たれるなんていうのは、私たちの油断に他ならないのだった。

 戦闘不能にしたはずの敵が最後の力を振り絞って引き金を引き、的確に依依の胸を穿つなんてことは。

 その場面を私は直に見てはいない。

 銃声がして、自分が今しがた絶命させた相手から目を離すと、もう依依は地面に倒れこんでいた。濤がなんとか止血しようとしていて、その奥で大維が銃撃した者の頭を手刀で砕いていた。

 《依依!》

 思わず名を呼びながら駆け寄った。依依はいかにもやってしまったよ、という風に苦笑していた。顔からどんどん血の気が引いているのに、表情は妙にさっぱりとしていた。

 「は、はは。やっちゃったあ。私、駄目みたい」

 自分の行く末がもう分かり切っているというような口ぶりまで、まるで九番の死に際のようだった。戦慄した。

 《何言ってる、諦めないで》

 声をかけながら、指揮をしている泡泡に無線通信で呼びかけた。

 《こちら十四番隊。戦況は優勢ですが、八番が負傷しました。救援を要請します》

 しかし、沈黙が返答だった。

 繰り返し呼びかけようとして、恐ろしい考えに思い至る。

 あいつらは、泡泡や、大夫や、王は、任務が完了したという報告の通信しか、聞く気が無いのではないか?

 そうしている間にも、依依の声には力が失われていった。

 「白兎、あなたは、したいことの、ために」

 《話さなくていい!》

 私が必死で叫んだのと、依依がふうっと大きく息をついたのは同時だった。

 「爸爸パパ妈妈ママ

 それきりだった。

 「脈が……!くそ、くそっ」

 濤がむきになって動かない依依の胸を叩く。大維は言葉に出せない悲しみを貼りつけたような顔をして立ち尽くしている。

 私は虚脱して、力の抜けた依依の身体を眺めていた。

 したいことのために生きろ。

 依依はそう言っていた。

 したいことなんて。投げやりになりそうになって、思い直した。

 私は別にいい。排斥された、空洞の、肉塊で良い。

 けれど、生きる許可をもらわなくたって。皆がしたいことをして生きられる。そんな風ならば、とても良い。

 

 改めて無線通信を送った。

 《敵を殲滅しました。八番が死亡、しましたが。任務完了です》

 案の上、返信はすぐになされた。

 《太好、神仙どの!》

 答えたのは王だった。久々に聞いたその声は、相も変わらず大げさな称賛に満ち満ちていた。

 《君ならやってくれると思っていたよ。犠牲があったのは残念だが、十分な成果だ》

 怒りが突沸しかけた。使い捨てると決めていたくせに、残念などと軽々とのたまうのが許せなかった。

 《この結果を受けて、君にコードネームが与えられる。勝ち取った評価の証だ。番号ではないまともな名前だ。嬉しかろう?》

 王は私の様子に気づいているのかいないのか、いつもの調子で話し続ける。あだ名をやろうと迫ってきた依依の笑顔を思い出した。彼女がそれを呼んでくれることはもうない。

 《私の命名だがね、君は今日から蛭雪ツーシュエだ。血を啜る白き仙人、いや、鬼人かな》

 見えるわけでもないが、得意げな王に笑いかけてやるつもりで、私は作り笑顔を浮かべた。

 何を失ってもいい。媚びへつらい、他人の足をなめて生きたってかまわない。目的に必要な力さえあればいい。

 そうすれば、私の後ろを歩む者の手には、たくさんのものが掴めるだろう。


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