第5話 千鯉さんと図書館司書

 六月。すでに暑い日々が続く。千鯉さんは五月から長襦袢を夏物に変えていた。そもそも、袷(あわせ)とは裏地の付いている二枚あわせの着物の事であり、着物といえば、大半がこれにあたる。裏地がついていることで透ける心配もなく、二枚あわせの着物のため、比較的暖かい。だから十月から五月の間に着られ、着る事の出来る時期が長い。一方、単衣ひとえは裏地のついていない一枚はぎの着物のため、暑くもなく寒くもない季節の変わり目の六月、九月に着る事が多い。


 千鯉さんは単衣を入れている桐ダンスを開け、今日は何を着ようかと考える。レトロモダンを思わせる淡いオレンジと水色の大きなストライプの単衣の小紋を手に取った。これに合わせた帯があったはずと千鯉さんはたとお紙を開く。同じく淡いオレンジとグレー、ベージュがストライプになった名古屋帯がそこにはあった。単衣は着る時期が限られているので、その分着る喜びが大きいように感じながら、千鯉さんは帯を自分の体に巻いていく。帯締めは帯の印象を壊さないように薄い黄色にした。帯揚げは発色の良い緑にしてポイントとした。


 今日は図書館に行こうと思っていた。着物の本を借りにいくつもりだった。前回行ってなかった本なのだが、他の図書館から取り寄せ借りられると連絡があった。千鯉さんは単衣になった事と、本が借りられるうれしさとで、図書館に向かう一歩一歩が身軽に進むような気がしていた。千鯉さんの通う図書館は分館であり、規模は小さい。もう少し足を延ばせば県立の大きな図書館があるのだが、本がありすぎて千鯉さんはめまいを起こしてしまいそうな気分になるし、分館でリクエストすれば取り寄せられるのでそれで良しとしていた。分館のカウンターに千鯉さんは進む。するといつもの司書の女性が千鯉さんに気がついてほほ笑む。


「こんにちは。あの本来てるわよ」とパソコンのキーボードをはじきながら言う。

「楽しみにしてたの」千鯉さんはお財布から貸出カードを探す。確かこの内ポケットに入れていたはず。

「あなたくらい着物の知識がある人が着物の本を借りるなんてね」と女性司書は立ち上り、自分の後ろにある本棚に近づく。

「写真がたくさんあってかわいいんだもの。それを見るだけで楽しいの」そう言って千鯉さんはようやく貸出カードを見つけた。

「そんなもんかしらね」女性は下から二段目の棚にある本に手をかける。千鯉さんが予約していた本だった。それを持ってまた先ほどの椅子に座る。千鯉さんの貸出カードのバーコードを読む。

「あっ、そういえば絵本も見たいんだった。カード持ってて」そう言って千鯉さんは絵本の棚の方にさっと消えてしまった。


 司書の女性はいつもの事だと言わんばかりに肩をすくめて、カードと本とを一緒に自分の横にある本のタワーの上に置く。そしてまたキーボードを打ち始める。千鯉さんはと言うと絵本の棚でじーっとタイトルを見まわしている。先日、知人の子供が幼稚園から借りてきたという絵本が心のどこかで気になっていたのであった。同じものがあればいいのだけれどと思いながら一心にタイトルを探す。


「うわっ」ばさばさっ、声と何か落ちる音がした。


 千鯉さんはその音がした右側を向いた。本が数冊、人を下敷きにしていた。


「大丈夫ですか?」千鯉さんは本を一冊一冊手に取りながら、その下にいる人物を心配する。

「すみません。誰かいると思わなくて、びっくりして」と本の下になっていた人物が上半身を起こした。


 黒いエプロンをしているという事は司書だということがわかる。そして真っ先に束ねている黒髪が目に入る。肩甲骨よりもっと下である。だが、顔と体つきを見る限り紛れもない男である。薄い唇、すっと光のすじが見える鼻、目は一重で瞳の色が少しだけ緑がかって見える。まゆげはその一重の眼とと同じくらい細くすっきりとしていた。こけて上半身だけの姿だけではわからなかったが、その男が立つと千鯉さんの顔をゆうに越しており百八十センチはあると思われた。


「びっくりさせちゃってごめんなさいね」千鯉さんはそう言いながら拾った本を男に渡す。

「いえ、お騒がせして申し訳ありません」とその男は千鯉さんから本を貰い受けながら丁寧に謝罪をした。

「何かお手伝いできることはありますか?」と司書らしい言葉をかけられた。

「探している本があって」千鯉さんはまた棚の方に目を向ける。

「パソコンで検索されました?」その言葉を聞くと千鯉さんは男の方にまた目をやって

「そういうのは苦手で、多分そうした方が早いんでしょうが、すぐ本棚の方に向かっちゃうのよね」と苦笑した。

「じゃ、僕が見てきますので」と千鯉さんから本のタイトルを聞き、踵を返した。五分もしないうちに男は帰ってきた。

「その本、今貸出中なんで、予約入れていきませんか?」男はそう言うと千鯉さんの手を引き、カウンターに連れて行った。


「お帰り」とカウンターの女性司書が、パソコンの画面を見ながら言った。先ほどの本と貸出カードを千鯉さんに渡し、絵本予約しておいたからと千鯉さんに目を向け言った。千鯉さんはではまた来ますと頭を下げ図書館を後にしたのだった。


 十分間くらい歩いただろうか、タッタッタッと千鯉さんの後ろから人が走る音が聞こえてきた。ランニングでもしている人だろうか。その音はどんどん近づいてきた。千鯉さんは若干端の方に寄って歩いた。


「あの」と走る音が止んだ。


 千鯉さんは振り返る。そうすると黒くて長い髪の毛が屈んで両手を両ひざに置き、少し息を上げていた。さっきの司書だとすぐに分かった。どうしたことかと千鯉さんは息が整えられるまで待った。


「あの、さっきの絵本、あなたが図書館出て行った後に返却されて、だから持ってきました」よくよく見たら男の右手には絵本が一冊。

「でも、私のカードがないと貸出できないでしょ」と千鯉さんは当然の疑問を口にする。

「ええ、だから僕が借りました」男はそう言いながら少し顔を赤らめた。

「すみませんっ、勝手に。でも僕あなたに会いたくて、考えるより先に体が動いてしまって」男の赤い部分がじわじわと広がりを見せる。

「ありがとうございます。うちはすぐそこなのでお茶でも飲んでいきませんか」と千鯉さんは自宅に向かってまた歩きはじめる。男は絵本を手にしたまま、いきなり歩き始めた千鯉さんの後を追った。


 千鯉さんはお草履を揃えて自宅の玄関を上がる。男もそれにつられるかのように靴を揃える。千鯉さんは本の入ったバッグをキッチンのテーブルに置き、やかんを手に取りお水を入れ湯を沸かす。男はキッチンの入り口に立ったままだった。全体的にやや低く設計されている千鯉さんの家であるが、男の身長ではあと少しで扉の上のレールに頭が当たりそうだった。緑茶を淹れながら千鯉さんはそれに気がつく。


「やっぱりあなた背が高いわね」そう言って男に近づいた。自分の手を扉の上の方に伸ばす。その手を男が奪い、自分の方へ千鯉さんを寄せる。

「すみません」そう言いながらも男の力は強くなるばかりだった。

「あなたすみませんって言ってばかりよ」と千鯉さんはその強さに抵抗することなく言った。


 すみませんと謝りながらも強引さを放つこの男が、本当に考えるより先に体が動くタイプなんだと、なんだか幼い男の子にも思えた。千鯉さんは、一度男を剥がして、もう少し着ていたかった単衣の着物を脱いだ。男はその姿に瞬きができないでいた。


「着物ってそういう風になっているんですね」初めて見たのであろう言葉であった。


 先に床に落ちた帯を拾って撫でた。男はその帯に何を見たのであろうか。


「これも脱いだ方がいいかしら」と長襦袢姿の千鯉さんが言う。

「お願いします」と男は床に落ちた着物も拾った。

「この色、きれいですね。ありきたりな事しか言えなくてすみません」とまた自分がすみませんを発した事に気がついて千鯉さんを見る。


 赤い肌襦袢姿になっていた千鯉さんはくすっと笑っていた。自分の顔を見られたくなかったのだろうか、千鯉さんをまた自分に引き寄せて、自分の腕の型がつきそうなほど千鯉さんの背中に押し付けた。


「着物を脱がせた責任を取ってもらえるのかしら」千鯉さんは男の耳にささやく。


 男はまた顔を赤らめた。やはり小さい坊やがそこにいるようだと千鯉さんは思えるのだった。男は千鯉さんの顔に両手を添える。沈黙が数えるほどつづく。千鯉さんは動かない。キッチンのテーブルでは緑茶の湯気が二つ上がっている。やかんもまだ熱を帯びたままである。男は一文字の唇を千鯉さんに重ねる。千鯉さんはそんな初々しいキスにうれしくなるのだった。


「もうこれ以上無理です」と男は顔を離す。

「じゃあ、続きはいつできるのかしら」と千鯉さんはいたずら心で言った。

「えっと、絵本を読み終える頃には」と男は動揺をそのままに床に落ちていた絵本を手に取る。上半身を下に曲げた時に背中から落ちる長髪は男の言葉とは裏腹に情熱を求めいてるように見えた。


 千鯉さんは緑茶を乗せたお盆を男に渡す。絵本を持ってこっちよと言わんばかりに庭の見える縁側に進む。千鯉さんは思う。この絵本を何分で読んだらこの長身の子供の気持ちの整理がついて大人の男になるのだろうか。それによくよく考えてみたら、これは絵本のお礼になるのか、出来心に対するお詫びになるのか、さっぱりわからないと。


 千鯉さん縁側につくと男を先に座らせた。男の前に千鯉さんは座り、自分の背中を男に預けた。心はどうしようもなく子供だが、その体は安心して任せる事のできる広さと温かさがあった。千鯉さんは緑茶が冷めてしまった事など気にしないで、絵本の表紙をめくるのであった。男の目の前に小さなハイビスカスが咲いたかのようだった。そのハイビスカスは咲いたままだろうか、摘まれるのだろうか、愛でられるのであろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

半襟365(はんえりさんろくご) @hasegawatomo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ