解剖

三津凛

第1話

緩い風が、屯する。

標本どもの合間を縫って。


医学部を卒業する間近に、タイの大学病院で夥しい数の人体標本を目の当たりにした。冷房のない、大きな羽根の扇風機が緩く動く中で標本たちは一様に同じ方向を向いていた。微かに波紋をつくるホルマリンの中で、赤ん坊も成人男女も老人も、妊娠している女だって収まっていた。奇形児の多さに、どこか偏執的な匂いを感じて、わたしは飽きることなく標本の群れを眺め続けた。

こめかみに汗が伝う。背中にシャツが張り付く。天井まで続く棚には隙間なく内臓や未熟児や奇形児の標本が並ぶ。木造の部屋の隅には横になった等身大の男女の標本が置いてあって、男の方は顔も股間も丸見えなのに、女の方は顔のあたりだけ異常に水滴が集中していて全く表情が見えなかった。

わたしは男の標本には早々に飽きて、女の見えない表情ばかりを見ようとうろうろした。

こうやって、何人もの人間が女の周りをうろうろとしたのだろうか。胸から下は魚を捌くように、綺麗に切り分けられて色の沈んだ内臓が隙間なく収まっている。わたしは訳知り顔で神経や血管の走行、内臓の大きさなんかを見て回った。

だが女の顔は結局見えなかった。

壁に掛けられた白黒写真を丹念に眺めて、鋭いメスを握る男が国王であることにようやく気がついた。静止したままの鋒と、腑分けされるだろう献体の白い体を交互に眺めて、わたしは緩い風の中で緩いため息を吐いたのだった。



わたしはあの夥しい標本を眺めた頃から随分隔たって、いまは全くの無医村で診療をしていた。老人が多く、独りきりで死ぬので解剖もしなければならない。大抵は脳出血か、心疾患で死んでいる。

初めの頃は随分いじめられた。代々の庄屋が倒れた時に居合わせて完治させてからは、いじめられることもなくなった。普段はめぼしいことはない。型通りの問診をして、紹介状を書いてやり、薬の処方をしてやるだけだ。

相変わらず老人が多いが、ここに来て子どもの数がほんの少し増えているようだ。都会からの移住というのだろうか、好き好んでなにもない田舎に来る家族が数年に一度の割合で越して来る。その子どもたちの間では、奇妙な遊びが近頃流行っていた。

幼稚な降霊術の一種で、狐の霊を呼び寄せては何か知りたいことを各々が聞いていく、というものだった。林の中で屯している子どもを眺めると必ずそれをやっている。

「君らも好きだね、本当に信じているのかい」

額を寄せ合っている頭に向かってわたしは声をかける。誰も返事はしない。なんでも霊を呼び寄せているときは一言も他人の問いかけには答えてはならないのだそうだ。答えると狐の霊が飛び出して、なにか恐ろしいことをするのだという。わたしはまるきり信じていなかった。集まった子どもの中に、お調子者の小林少年がいることを認めるとわたしはちょっと意地悪な気持ちで再び声をかけた。

「せっかく、アイスクリームでも買ってやろうかと思ったのだが、惜しいね」

するとむっつり黙っていた輪の中から、パッと小林少年が顔を上げた。

「先生、それ本当?」

彼は思わず声を出した。

周りの子どもたちが大騒ぎをする。早口に霊を退散させる文句を唱えて、小林少年は戦犯のように詰め寄られる。

「狐の霊に呪われるぞ」

「あたし、知らないわよ」

わたしは少し彼が気の毒になって、声をかけた。

「まあ、そのくらいにしなさい。みんなの分も奢ってあげよう」

子どもはゲンキンなものて、先ほどの文句も怖さもけろりと忘れて、わらわらとこちらに走って来る。

わたしは無邪気なものよ、と微笑んで手を広げた。



その日の夜は珍しく、土地の人間以外の死人が出た日だった。見るからに不健康そうな、青白い男である。民宿に急に泊まりに来たそうだ。早々に敷かれた布団に潜ったきり出てこない男を不審に思って主人がのぞくと、布団の中で死んでいたそうだ。そのまま診療所に担ぎ込まれて、わたしは間を置かずに見知らぬ男を解剖することになった。まさに男を切り開こうとする時に、小林少年の両親が血相を変えて飛び込んで来た。

「先生!うちの坊がおらんのです!村中総出で探してもどこにもおらん!」

わたしは汗まみれの両親と、乾いた肌の死人を見比べて一旦その場を離れた。

「夕方見ましたがね」

「でも帰ってこんのですよ。どこにもおらんのです」

「ここには来ていませんよ」

「はあ、それは」

小林少年の両親は動転してあまり話が通じなかった。

わたしは夕方の出来事を反芻した。狐の霊を呼び寄せている時に話しかけられても、答えてはならない。答えてしまうと、狐の霊が飛び出してなにか恐ろしいことをする。

まさか小林少年は狐の霊に呼ばれたのか。両親の前で突飛なことは言えず、わたしは少年がここに来たら必ず知らせると約束して再び男の解剖に向かった。



解剖する医者の手つきは、感情のない職人のそれと重なる。

魚を捌く寿司職人、家畜の屠殺人。解剖をする医者。迷いがなく、どこまでも無感動だ。

わたしはメスを一直線に入れていく。小学校においてある人体模型さながらに、皮膚を捌く。脂肪の薄い皮膚の下に、樹木のように硬い骨が現れる。油気のない男の顔を一瞥してから、わたしは肋骨をペンチで折っていく。丁寧に膜を取り除いて心臓や肺を露わにしていく。ふと、若い頃にタイで見た色の沈んだ内臓を晒した標本たちを思い出す。あそこで見た色と、この男の臓器の色は綺麗に重なるだろうか。

だがわたしは奇妙なことに気がついた。死人のものにしては嫌に瑞々しい。そして、全体的に小振りでまるで子どものそれのようだった。わたしは他の臓器も改めて見た。胃も肝臓もまるで生きているように、膨らんでいる。わたしはそっとゴム手袋をはめた左手を、動かない心臓に置いてみる。

まるでびくんと怯えるように心臓がその瞬間に動き出した。

まさか!

わたしは反射的に男の顔を見た。

それはわたしが解剖していたはずの男の顔ではなかった。

小林少年が、腹を切り開かれて横たわっていた。どうして彼がここにいるのか。確かにわたしは死んだはずの男を解剖していたはずだった!

わたしは半信半疑でメスで心臓の表面を突いた。その瞬間におびただしい血潮が噴き出してわたしの顔を汚した。思わずメスを取り落とす。まだ血飛沫は止まらない。

「先生!なんてことをしてくれたんだ!」

いつの間にか小林少年の父親が解剖室にいて、わたしの胸を思い切り叩く。わたしは全くわけがわからなくなった。あの死んだはずの男は一体どこへいったのだ。なぜ小林少年がすり替わるようにして切り開かれているのだ。

混乱の中で、わたしは胸に鋭い痛みを覚えた。

般若の顔が目の前にあった。

小林少年の父親がメスを握りしめて、わたしの胸を突いている。何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

わたしは自分の体が床にばらばらになって落ちていくことだけを、最後に覚えていた……。



再び気がついた時には、男の死体も小林少年もその父親も解剖室からは消えていた。刺されたはずのわたしの胸も全く綺麗なままだった。

わたしは自分の胸をさすりながら、外へ出て行った。

わたしは男の遺体を担ぎ込んだ民宿の主人に、男の居場所を問いただしたが主人はそんなことは知らないと言う。わたしもしつこく「そんなはずはない、あんたが連絡を寄越してきたんじゃないか」と詰め寄ったが主人は首を振るだけだった。

昨日死んだ男なんていない。

わたし納得できないながらも、遺体は消えているし、主人も知らないと言う限り探しようもない。

狐に化かされたようだ、と思いながら解剖室に戻る途中で小林少年とすれ違った。

「君は……体はなんともないのかね」

「えぇ?先生何変なこと聞いてんだ」

「いや……」

わたしは誤魔化した。

小林少年はいたって健康そうな日焼けをこちらに晒して、走り去っていく。

たが小林少年はふと思い出したように振り返った。

「そういや先生、俺たちが狐降ろしてる時に、昨日話しかけたろ?狐の霊って話しかけた人に乗り憑るんだってさぁ。先生んとこに化け物来なかったかあ?」

わたしは何も知らない小林少年を覗き込んだ。

死んだ男なんていない。

小林少年は生きている。

「馬鹿だな、君は。そんなことまるで起こらなかったよ」

「へえ、そうか。つまんねぇな」

わたしは捨て台詞を吐いて走って行く小林少年の背中を、見えなくなるまで見送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

解剖 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る