ボヘミアン・ラプソディ



 客船は、エリス島に向かう。移民局がそこにある。地下鉄建設の掘削工事で出た土砂を使って、拡張工事をしたというその島は、アメリカの玄関口だ。


 建設ラッシュの高層建築群が創るスカイスクレーパー。整然としたチェス盤のような道路。船の左舷から望む、リバティ島の自由の女神像。

 明らかにロンドンとは違う独特の風景を造る。


 さすが、四百万の人間を抱える大都市ニューヨーク。

 一言で表すなら、“未来”が広がっていた。


 ■


 グリニッジ・ヴィレッジが〈ボヘミアンの首都〉と呼ばれるのは、自由な芸術家達の居場所だからだ。明るい赤が印象的な煉瓦造りのオランダ風アパートが並び、楓の街路樹が緑を添える。穏やかな雰囲気だ。

 なぜ、ここに若手芸術家が集まるようになったか。一説には、マンハッタン特有のチェス盤の目が崩れる、この一角の入り組んだ道路が、借金取りから逃げるのに適しているとか、いないとか。


 ジョンジーとスーは、グリニッジ・ヴィレッジに住む芸術家の仲間達に、〈最後の一葉〉の話をよく語ったという。

 芸術に情熱を燃やし、命を賭けて一枚の傑作を描いた画家。そんなエピソードは、そこに住む芸術家達に希望を与えた。

 そして、そこに住む芸術家達は、亡くなったベアマン氏を称え、一つのムーヴメントを作り出そうとした。


 結果から言えば、それは成功する。

 そして、それが発端になる。


 ■


 私はグリニッジ・ヴィレッジに居た。壁画〈最後の一葉〉があるアパートの壁を見上げ、ぽかんと口を開けた。


「撤去中……?」


 蔦の葉が描かれた壁には足場が組まれ、立看板が置かれていた。つなぎを着た作業員が、足場を掛け上がる。

 二十フィートのところ、〈最後の一葉〉が描かれた煉瓦の壁には布が掛けられ、ノミを入れている……らしい。地上からは、全く見えない。


「今日、観に来たのか。タイミング悪いなぁ」


 足場の上の作業員が、私に声を掛けてきた。

 その作業員によれば、壁画〈最後の一葉〉は、壁ごと取り払われるらしい。


「 取っちゃうんですか?」


 私は呑気に聞いた。


「えぇ、芸術保護ですって。このアパートの大家さんが言ってました」


「はぁ」


「雨風に晒されるなら、今、ちゃんと扱ってくれる美術商や美術館に預けた方が良い、ということを大家さんは言ってましたね。最近、ベアマンの評価がうなぎ登りですから」


 死後に評価が上がる画家、というのは皮肉なものだが存在する。

 例えば、フィンセント・ヴァン・ゴッホ。一八九〇年に亡くなった彼は、今まさに評価を上げてきている。絵画そのものの評価に加え、書簡や伝記が発表され彼の人間的な側面においても、市民から認知されてきている。

 これは周囲にいた人々の尽力に他ならない。

 大家さんがのっそり出てきて、呟いた。


「良い芸術は保護するべきです。みんな、ベアマンを尊敬してますから」


 今回も、そんなところだろうか。


「はぁ」


 私はため息をついた。船旅までして、まさか観れないとは思わなかった。すると、隣の見物人、青年が苦々しい表情で囁いてきた。


「あの大家、カッコイイことほざいてっけど、たぶん売るんすよ」


 安っぽい衣服だが、やけにこざっぱりしている。彼は顎で大家を指して、冷ややかな視線を送る。


「ベアマンによる名画っすよ。高値で売れるんす」


 私は大家さんの顔をよくよく観察する。ホームズなら、あの表情から何を読み取るだろうか。

 じっと凝視すれば、確かに、ほくそ笑んでいるような気もしてきた。


 その見物人の青年が、遠慮の無い一言を、大家に放つ。


「絵画の素養なんて、有ったんすね」

「いえ。まぁ、みんながそう言ってるんで……」


 大家さんが歯切れ悪くそう言うもんだから、やはり金目のものとしか、理解していないのかもしれない。


 台車がある。〈最後の一葉〉が描かれた煉瓦は、このあと台車に乗って、意気揚々な大家さんによって運ばれて行くのだろう。


 ■


 何かの縁だから一緒に飯でも食おう、と青年は近くのデリカテッセンに誘ってくれた。デリカテッセンは、ユダヤ系移民が開業したサンドイッチなどを売る飲食店のことだ。賑わっていた。


「ここのパストラミサンドがうめぇんだ」


 牛肉の赤身を薫製にしてピクルスと一緒に、パンで挟む。肉々しいが、香辛料も利いていて美味しい。


 彼はライトだと名乗った。小説家志望の貧乏青年だった。私も「ワトソン、ジョン・H・ワトソンだ」と自己紹介すると──。


「え、ホームズの?」


 ライトは驚いた顔をする。ニューヨークに私の名前が届いてるとは思いもしなかった。


「よく知っているね」

「おいおい、ここはグリニッジ・ヴィレッジだし、僕は小説家志望だ。推理小説の元祖、エドガー・アラン・ポーも住んでたこの地で、あんたを知らない方が失礼だ」


 彼はサンドイッチをがっつきながらで馴れ馴れしく私に語り掛ける。


「ベアマンってさ、昔、グラフィティ描いてたらしいんだ」

「え?」

「知らない? ストリートアートだよ。簡単に言えば、街中の壁や高架下をキャンバスに描かれた、落書きアート。知らないの?」


 ストリートアート、グラフィティ。私の全然知らない単語が飛んできた。芸術の最先端も、パリからニューヨークに変わったのかもしれない。


「二十年前には、もうストリートから手ぇ洗ったらしいんだ。だが昔はベアマン、至るところにグラフィティ描いてたらしい」

「へぇ」


 と話の流れが見えず間抜けな返事を返すと、ライトは周囲を窺い、近付いて声を潜めた。


「じゃあ、とっておきを教えてやるぜ──」


 悪戯をする子供の顔だ。


「──あれはな。壁に描かれた金だ」

「はぁ?」


 物騒な香りが鼻をつつく。


「だから、壁に描かれた金だってんだよ、壁画〈最後の一葉〉の件、見ただろ。街の落書きが高値で美術館に行くんだぜ」


 はぁ、と返事をする私を見つめる彼は、戦に向かうまえに奮い立つ戦士のようだった。


「もうすぐ始まるぞ、争奪戦が──」


 壁画〈最後の一葉〉を見ているときも、彼は高値で売れると呟いていた。


「競争だ、競走。この狂騒には、ビッグチャンスが含んでいる。話題沸騰のベアマン初期作品が、まだ、このマンハッタンに転がってんだよ」


 青年ライトが画策していることを、ついに私は察した。


「つまり、見つかり次第、あの〈最後の一葉〉のように壁ごと盗って、売っちゃえば大儲けできるなんて、君は思ってる?」


 察しがいい、さすがワトソンさんだ、と貧乏青年は笑顔になる。


「この街にある残りの葉は──」


 青年ライトは、不敵な表情を作った。


「──あと五枚しかないらしい。早い者勝ちだ」

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