最終話 呪縛


 ほとんど衝動的に、私は絞殺を断念し何首烏かしゅうの襟元を摑むと、便器目がけてその顔を押し込んだ。胃液と唾液の混ざる水面に何首烏の呼気が浮かぶ。

 死ね。早く。一刻も早く。

 これで何首烏の言葉も耳に入らない。簡単なことだった。どうして最初からこうしておかなかったのだろう。

 かける言葉などない。それは今までも同じだったが、これ程までに憎悪を込めて殺めんとするのは初めてだった。

 何首烏は、一切の抵抗を見せなかった。水面に泡が浮かぶのも一度きりで、それが甚だ不気味だった。

 どれくらいの間そうしていたかは分からない。この男がいとも容易く息絶えるとは思えず、永遠に近いとも誤認しうる時間、吐き気を堪えながら頭を便器に突っ込み続けた。

 ただただ厠の静寂が、殺人という行為を一種の儀式めいて錯覚させた。或いは、まさに儀式なのかもしれなかった。私という人間が、何首烏という男の妄執から遁れる為に必要な通過儀礼だ。これを達せざれば、私は翼をがれた小鳥然として、地にくさびを打ち込まれたままなのであろう。だからこそ、あやまつわけにはいかない。退っ引きならない。

 自分の荒い息と、警鐘のような心拍音のみが聞こえる。そしてそれらが落ち着いて初めて、私は何首烏の頭から手を離した。怪人は今や微動だにせず、便器に頭を垂れている。

 死んだのだろう。今度こそ、本当に。達成感などありもしない。疲弊と憔悴しょうすいと厠を湛える静謐せいひつのみが、私の内外を問わず渦巻いていた。

 この殺人によって得られるものはない。なされたのは、平穏な日常の奪還だ。そう、侵略に対して行われる自衛、防衛の範疇を出ない。国取り合戦ではよくあることだ。しかし問題なのは、一般的見地、常識的観念から指摘されるのは、防衛側が侵略側を滅してしまったということである。これでは過剰防衛のそしりは免れまい。ただしそれは、事が露見した場合であり、私はこの男の亡骸を爪垢の一片も残さず処分すれば世間から後ろ指を指されるようなことはない。

 重い身体を引き摺るようにして、私はひとまず厠を出た。今は少しでもあの男から離れたかった。ひょっとすると、二度とあの厠には立ち入りたくないと厳重に施錠するかもしれないが、邸内に厠は一箇所しかないので、そういうわけにもいかない。

 私は壁に手をつきながら洗面台に行き、そこで手を洗った。手を濡らし、石鹸を泡立て、掌を擦って、手の甲を擦って、指を擦って、爪の間を擦って、掌を擦って、手の甲を擦って、指を擦って、爪の間を擦った。それでもまだけがれが除かれていないような思いに囚われるが、断腸の思いで泡を流してタオルで手を拭く。

 応接間に戻ると、冷めてしまった紅茶と持ち込まれた菓子を捨て、糸の切れた人形のようにソファに身を沈めた。

 そうして一時間は惚けていただろうか。私は徐に立ち上がり、屍体の処分をすることにした。

 厠の扉を開けた途端に、屍体の放つ瘴気しょうきが廊下に漏れ出してきたような気がして、直ちに扉を閉めたくなる。例えばこれを土の中に埋めたとして、その直上では一切の植物が生育しないような、そんなおぞましい瘴気を幻視せずにはいられない。そう、仮令たとい私の感覚するものが幻であると理解していても、それでも尚嫌忌せざるをえない。

 しかし私は、死後硬直が始まってしまう前に、この屍体を処理してしまわなければならなかった。

 屍体の腕を摑んで庭に引き摺り出し、汚れても構わない服装に着替えて新聞紙を携えて庭に戻る。

 新聞紙を広げて屍体をその上に俯せに寝かせ、先程役割を果たしえなかった斧を手に取った。

 斧を振りかぶり、その重量に任せて一気に振り下ろす。下に敷かれた新聞紙ごと切り裂いて斧が地面に突き刺さり、切断面から血が溢れ出す。どんな色をしているのか気になっていたが、他の人間と変わるところのない、鮮紅色だった。あれほどに私を苦しめ厭わせた存在が尋常の人間であるとは、到底信じられそうになかった。しかし証拠は目の前に確としてあり、この屍体は周りの人間とは違うという疑念(或いは願望)を容易く打ち破る。

 私はそのまま頭部、両腕、胸部、腹部、腰部、両脚、合計八つの部分に切り分け、慣れた手つきで不透明な袋に詰め込んでいく。後はこれらを小分けにして他のゴミに紛れさせて出すだけだ。その行程を終えてようやく、私は真に日常を奪還することが叶うのだ。

 分割した屍体と特に役割を果たさなかった新聞紙を家の中に持ち込み、片付けを終えた。

 これでようやく、私はあの男の呪縛から解き放たれ、(奴が望んだそのままであるのは癪だが)自由な少女として、再び平穏な日々に生還したのだ。

 甚だ苦痛だった。奴に苛まれた数日間は、私に一瞬の安らぎも許さなかった。何をするにしても、奴の影が視界にちらつき、私の安寧を妨げていた。物理的な脅威だけに限るなら恐るるに足らぬ俗物ではあったが、特筆すべきはその破綻した精神にあり、私はそこに尋常ならざる嫌悪を抱いたのだ。

 だから排除した。殺害した。私の魂の平安を保つ為に。穢れから身を守る為に。仕方のないことだったのだ。母も、父も、此嘉このかの後輩も、何首烏秀司しゅうじも、私の壊れそうな心を壊さないように、そうするしかなかったのだ。

 ああ、ともあれ、今日は疲れた。ゆっくりと湯船に浸かって、自らを慰労するとしよう。

 私は着替えを持って脱衣所で自らの衣服に手をかける――。


冬華とうか、君がこの世に生まれてきてくれてよかった』


 打たれたように振り返る。

 誰もいない。

 当然だ。

 あいつは私が確かにこの手で殺したのだから。

 だからあの男が私の背後に立って末期の言葉を繰り返すことなど有り得ない。

 そう、私は、自分を愛する為に、人に愛される為に、再びいつもの日々へと……。

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Narcissism in a girl 水ようかん @mzyukn0809

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