第9話 衝動
朝から何も口にしていなくてよかった(本当は喉を通らなかったのだが)。便器に向かって胃液と唾液を垂らしながら、あの男をどうすればいいか浅く思考する。
便器に唾と胃液を吐き棄てる。胃の内容物などありもしないのに、身体が吐こうとする。立ち上がると
「大丈夫かい、
がちゃり、とトイレの扉をノックもなしに開け、何首烏が心配そうにこちらを覗き込んんできた。
その瞬間。
有り得ない。気持ち悪い。ありえないきもちわるいありえないきもちわるいありえないきもちわるい。
私は全ての思考能力を奪われ、絶句し、立ち尽くすしかなかった。
メートルを使うのも馬鹿らしい、手を伸ばせばすぐに互いを
立ち惚ける私のことなどお構いなしに、私のことを気遣っている。なんたる矛盾であろうか。否、この何首烏
その何首烏が躊躇いなく私の背中を擦ろうと手を伸ばした時に、金縛りが解けたように身体の自由が戻った。
「触るなッ!」
手を振り払うと、何首烏は心底驚いたというふうに目を見開く。
私はそれどころではない。どれ程に何首烏を嫌悪したと思っている。その男に自ら触れてしまったのだ。嫌悪という感情は咽喉元にまでせり上がり、胃液という形で奔流した。再び便器に向き直り、胃液をも嘔吐し尽くした。吐くものなどもう何もないのに、吐き気ばかりが私を苛む。更に加えて、何首烏の視線が息遣いが私の全身を蟲のように這いずり回る。
「僕は君を傷付けたいわけじゃない。ただ、十津川
優しげに彩られた声音も凌辱する蟲となり。
行き場を失った細い腕も凌辱する蟲となり。
一挙一動を余すことなく凌辱する蟲となる。
だから私は、自分を守る為にも、こうするしかなかった。
視界に映るのも悍ましい邪悪の男を押し倒し、馬乗りになって、口の端から唾液が垂れていようと構わない、一刻も早く、この男を殺さなければならなかった。渾身の力を込めて、何首烏の首を絞め上げる。
絞めるのは初めてだったが、手応えを感じてそのまま力を緩めないよう意識する。
「僕は、君のことをずっと見てたからね、君のことはなんでも知ってるんだ」
首を絞められているのに気付いていないかのように、何首烏は掠れた声で
「君の好きな食べ物だって、好きな本だって、好きな花だって、好きな科目だって、身長だって体重だってスリーサイズだって月経周期だって。君の知らないことでさえも僕は知ってる」
黙れ。黙れ。黙れ。
「君は、只の淋しがり屋なんだ。自分を見てほしくて、認めてほしくて、常に人から評価を貰っていたいだけだった」
何首烏に触れているという嫌悪よりも、何首烏を殺さなければならないという責務の方が強かった。だから私は耳を貸さず、力いっぱいに首を絞め続けた。
「その反面、君は君に目を向けない人を忌み嫌った。排除を
聞きたくなかった。こんな気色の悪いストーカーの言葉を。
聞きたくなかった。醜い側面を他人に詳らかにされるのを。
「自分が壊れてしまうくらいなら、相手を壊してしまおう。それが君の出した結論で、過去もそうして、"今も"そうしている」
何よりも腹立たしいのが、一番理解してほしかった人には理解されず、一番理解してほしくなかった奴には理解されているということ。
「つまるところ君は、ただのエゴイストなんだ。自分の思い通りにならなければ、自分も思い通りにならなくなる。
私の力が足りないのか、何首烏はなかなかその息の根を止めない。速く止めなければ、自分がどうなってしまうのか自分にも予測がつかなかった。しかし思いとは相反して、首を絞める指先から徐々に感覚が失せてゆく。それでも私は込める力を緩めるわけにはいかなかった。
「君が認めてほしかった、或いは認めてほしい人は誰だい? 父親かな、母親かな、先生かな、クラスメイトかな、
絞殺されようとしているのにも関わらず、何首烏はにやりと笑みまで浮かべてみせる。それは私の怖気を喚起するには充分過ぎた。
「だから、君のその欲求は、全て僕に委ねてしまうといい。僕なら、君の罪も欲も
悪魔がそう囁きかける。認めてなるものかと私の意思が強く警鐘を鳴らす。
何首烏は"自由な少女"が好きだと言い、私を"自由な少女"と形容した。ならば、私が何首烏に心を許し預けてしまえば(万が一にもありえないが)、それは何首烏の言う所の"自由な少女"ではなくなるのではないだろうか。何首烏が束縛し、
罪も欲も、私のものだ。これを掠奪するのは
何首烏の顔が徐に蒼白を帯びる。それでも何首烏は、意に介さず呪言を紡ぎ続ける。
「勘違いしないでほしいのは、別に僕は君を拘束したいわけじゃないということだ。どうやら僕が君を手籠めにしようと企んでいると考えているようだけど、逆だよ。僕は君をよりいっそう自由へと導かん者だ。僕はね、君の存在に感謝してるんだ。だからどうか、そのお礼をさせてくれないか」
なんと非力なことだろう。私はこの手で人一人殺すのにも
「冬華、君がこの世に生まれてきてくれてよかった」
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