第8話 妄執


 がつん、という音は、何首烏かしゅうの頭蓋ではなく、彼が座していたソファの骨組が砕けた時のものだった。

 すんでのところで身をよじり、殺戮の余韻を前にした何首烏は、額に汗一つせず、ひゅうと口笛を鳴らす。

 裂けたソファのクッションからは綿が飛び出し、皮の下の肉のようにその中身を露わにしていた。

「危ないよ、十津川とつかわさん。斧はそういう風に使う物じゃない。そんなことより、お茶をお願いできるかな。話したいことは沢山あるし、僕が用意しても構わないけれど何せ勝手が分からないからね」

 私の蛮行を特に意に介す素振りも見せず、何首烏は先刻と同じように飄々と話し続ける。言いようのない悪寒が全身を駆け巡った。

「――っ」

 最早渋面を隠すこともなく、私は斧をソファから引き抜く。足腰に力を込め、身体全体の筋肉を使って重い斧を再び持ち上げ構えた。

 気味が悪いというだけの話ではなかった。

 私はこの男を殺すつもりで斧を思い切り振り下ろしたし、今も剥き出したままの殺意は変わらず刺さり続けているはずだ。にも関わらず、何首烏秀司という男は鉄面皮と称すに相応する飄然とした態度をまざまざと見せつけてくる。眉一つしかめることなく笑っている。

「ほら、十津川さん。そんな物騒な物は仕舞って、お茶を酌み交わしながら歓談に興じようじゃないか」

「……どうして」

 喘ぐように零すので精一杯だった。嘔吐感が胃の底からせり上げてきて、受容し難い酸味が私の味蕾みらいを舐めくすぐった。

 斧を手に硬直したままの私を、何首烏はまるで慣れ親しんだ知己を前にしたように莞爾かんじと笑んだ。

「君の言いたいことも、僕の言いたいこともそれぞれあるし、ともかく、お茶がなければ始まらない。早急にとは言わないから、お願いできるかな」


 唯々諾々と、傀儡くぐつのように私はそれに従った。斧を抱えたまま踵を返すと同時、何首烏はひしゃげたソファに悠然と腰掛けた。奴の一挙手一投足が、何事もないかのように自然で、私からすればこの上なく不自然だった。

 言われるがままに、黙々とお茶とお茶請けを用意している間は、何も考えられなかった。機能を果たし得なかった斧は元あった通り厨房の片隅に立てかけてある。

「…………」

 何首烏に交際を迫られた時、囁かれたことを思い出す。彼にとっては交渉材料程度の認識でしかなかったかもしれないが、私にとってそれは、充分に脅迫たりえた。脅迫どころではない、最後通牒のようですらあったのだ。

 今やどのような行動も功を奏すまい。完全に後手に回され、且つ、詰んでいる。嫌悪していただけの何首烏秀司という男が、越え難い壁となっていた。

 かちゃかちゃと、カップがソーサーの上で震えて音を立てる。いや、震えているのはそれを持つ私の手だ。どうしても震えを止められない。心臓も早鐘を打つ。噴き出した汗が背筋を伝う。


 何度彼奴のせいで不調を被ったろうか。胸に去来するのは憤怒ではなく、或いは痛切な、懇願でしかなかった。

(もう嫌だ。もう一秒たりともあいつの顔を見たくない、顔を見られたくない。罰ならこれで充分でしょう? どうして私がこんな思いをしなくてはいけないの? どうすればいいの? いっそのこと死んでしまえばいいの? お願いだから、これ以上私に付き纏うのはやめてよ。やっとのことで手にした自由を、どうしてあんな奴に侵されなくちゃいけないの)

 彼奴を殺すことは叶わない。どうして失敗してしまったのだろう、どうして立ち竦んでしまったのだろう、どうして言われるがままなのだろう――。


 自らの日常を奪還するつもりが、却ってそれは自らを縛る桎梏しっこくとなった。私の思いは、悔恨と呼ぶにはあまりに歪みすぎていた。

 這う這うの体、という表現を自らに使うとは露程も思わなかったが、全くその通りに、私は何首烏の元にトレーを持って戻った。今にもくずおれてしまいそうな眩暈めまいが襲う。再び、おめおめと、この男の前に戻ってきてしまった。

 何首烏は依然、にこにこと微笑を浮かべて私を捉えていた。その視界に納まることの、気持ち悪さたるや、筆舌に尽くし難いものである。

「待ってないよ。こういう時には、君の戻りを一日千秋の思いで待っていたと言うのが一種の浪漫ではあるけれど、僕にはこれくらいの時間なんて待つうちに入らないよ」

 などと彼はうそぶいた。果たしてその真意は知り得ないが、いずれにせよ、私が応接間を後にしてから戻るまで、石化したかのように待ちかねていたというのは容易に想像がついた。忠犬ここに極まれり、である。尤も犬というなら愛玩の価値はあるが、誰が蛭のように気味悪いものを愛でるだろうか。私はそのような変態性は持ち合わせてはいない。だから至極真っ当に、私はこう切り出した。

「どうやって、私のことを知ったの」

 トレーを置いてソファに浅く腰掛け、自らの分のカップを手に取った。賓客とは程遠い人間にカップを渡してやる義理などない。

 私の核心をついた問いの後、何首烏は薄ら笑みを解くことなくトレーからカップを取り寄せて中身を口に含む。洗剤でも混入させてやろうかとも思ったが、味に支障のない量では致死性に乏しいため、結局断念した。その他、様々な殺害方法を思案したが、決定的なものは何も浮かばなかった。どうにかして、あの男を殺したかった。

「偶然だよ。全くのね。たまたま、僕は君の秘密を垣間見てしまった。それだけのことさ」

 私は胡乱な視線を止めなかった。

「嘘ね。馬鹿にしないで。女ってのはね、嘘を見通せるのよ」

 そう、嘘に違いなかった。奴の芝居がかった雄弁闊達な振る舞いを見れば、女でなくとも虚言を看破できる。この期に及んで、まだ茶を濁そうというのがおかしいのだ。


「流石は十津川さんだ。いやはやそのご慧眼は衰えることを知らないね。……まぁ正直に言えば、偶然なんてことはないよ」

 何首烏は私を称賛し、そして観念したように呟いた。

「僕が君に妄執を抱いていたのはいつからだと思う? 君の秘密を知った時? いいや違う。一年と半分前からさ」

 何首烏は紅茶を口に含み(この動作もまた無駄がなく洗練されており、私の嫌悪を掻き立てた)、私の目をじっと、いや、じっとりと見た。

「僕が君を見つけたのは、入学式の日だよ。凡百の衆愚の中で、君はとりわけ輝いていた。君には分からないだろうね。泥人形だらけの世界で硝子細工の精緻せいちな人形を見つけたような気分だったんだ。そして、その綺麗なお人形が周りの泥にけがされてしまう様は、見るに耐えなかった。御伽噺おとぎばなしの英雄のように、願わくば君をその世界から救い出したかった。しかしどうだ、先日、僕は君がこの泥の世界で楽しそうにしているのを目の当たりにした。その時悟ったよ、君には僕なんて必要なかったっていうことを。いや寧ろ、僕が君を必要としていたんだ。僕は決心した。内在する君を求める気持ちを否定せず受け容れて、内なる道徳法則に基づいて行動を起こすと。その結果がこれさ。僕はものの見事に君との交際を始めたというわけだ」

 胃液が逆流しそうになった。と同時に得心がいった。何首烏の行動が如何に特異でも、彼は一切の悪びれる態度や負い目といったものを感じさせなかった。それは心の底から、自分は間違っていない自分は正しいと、半ば自己暗示の要領で自らを洗脳していたからだったのだ。

 泥の人形だとか硝子細工の人形だとか、何やら大仰に比喩してみせたが実のところこいつは、この機械じみたマネキン野郎は、執拗しゅうねく私をストーキングし続けてその末に私の秘密を握ったのだ。遅かれ早かれ、この男には私の秘密をさらしていたのだ。何首烏が私を見ていたのは最近に限ったことではなく、今の学校で生活を始めてから、ずっと。これほど気味悪く悍ましいことがあろうか。

 吐き気があまりにも酷いので、私は手で口を覆ってトイレに逃げ込んだ。或いは、吐き気を言い訳に何首烏という男の前から逃げ出した。

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