あなたへ綴った言の葉

庵田恋

拝啓

 あと一歩。

 それを踏み出したら、きっと私は彼と同じ場所へ行ける。

 こんな世界に、あなたのいない場所に、未練なんてない。

 この真っ暗な穴の中へ、あと一歩。

「あなたに、会いに行くからね」

 そうつぶやいて、私は落ちていった。


――――


 拝啓

 なんてことをあなたへの手紙で書くのは少し他人行儀みたいだね。ちょっとカッコつけてみたけど、やめておこう。

 メールとかある時代に、わざわざ紙とペンで手紙を書くなんて、すごく時代遅れな感じがしてたけど、最近はあんまり気にならなくなってきたよ。相変わらず周りからは変な人みたいに見られるけどね。

 最近と言えば、こっちはちょっと暑くなってきたかな。そろそろ夏が来るんだと思う。昨日は久しぶりに入道雲を見たんだ。すごく白くて、大きくて、どこか懐かしくて。

 そういえば子供の頃はよく一緒に外で遊んだりしてたよね。あなたのことを思い出して、少しだけ寂しくなっちゃった。

 早く帰ってきてほしいな。

 やっぱり、あなたがいないと、寂しいよ。

 

――――

 

 こうやってあなたに手紙を書いていると、ふとした時にあなたが私の傍にいるように感じることがある。だからなのかな、こんな旧時代のものに縋っちゃうのは。

 本当ならメールでもいいけれど、それじゃなんだか味気ないと言うか。だからこんな風にあなたに手紙を書いてる。

 よくひいおじいちゃんが言ってたっけ。

「今の若いもんは自分で字を書かんなんて、ありえん!」

 あの時は笑ってたけど、今は少しひいおじいちゃんの気持ちわかるかも。

 メールだとどんなに考えて言葉を綴っても、この、なんていうんだろ、感情って言えばいいのかな。それを上手く伝えきれる気がしないもの(綴るって文字、書くために調べたけど、自分で書いてみると綺麗だよ! 書いてみて!)

 あなたは今頃どうしているのかな。

 ちゃんとご飯食べているかな。

 風邪引いたりしてないかな。

 笑ってたら、いいな。

 

 またお手紙書くね。

 

――――

 

 グニャリと歪む。

 全てが歪む。

 まるで押し潰された粘土のように。

 

 何が。

 

 何が起こって――

 

――――

 

 寒い日が続いて、もうマフラーを手放せなくなっちゃった。

 いつだったか、あなたがクリスマスにプレゼントしてくれた、赤いチェックのマフラー。覚えてるかな。

 今も使ってるんだよ? ちゃんとほつれたところは自分で縫い直したりして。

 あ、いま嘘だって思ったでしょ? 私そういう細かいの苦手だったもんね。そもそも今の時代、裁縫機にかければいいだけだし。

 でもね、あれから勉強と練習したんだ!

 大切な宝物だから、どうしても自分の力で、自分の手で直したくて。

 今じゃ自分でちょっとした小物も作れるようになったんだ。あなたが帰ってきたら自慢の作品たち見せてあげるよ! 楽しみにしててね!

 

 ……あー、やっぱりダメだね。

 会えたらって考えたら泣きそうになっちゃって。

 重いのかな、私……。

 会いたいよ。

 会いたい。

 

 もう、帰ってこないのかな。

 

――――

 

 部屋の前にある公園の、桜が咲いたよ。

 立体映像とかじゃなくて、本物の桜。

 なんだか環境保全とか何とかで、植物を埋め始めたんだって。

 あなたにも見せてあげたいな。

 映像よりも形は崩れていて、花びらは欠けていたりするけど、すごく綺麗なの。

 あと、匂いがするんだ。

 最初はへんな感じがしたけど、生きているのが伝わってきて、感動した。

 もう少ししたら花は散ってなくなっちゃうけれど、来年にはまた花が咲くんだって。

 来年も、再来年も。

 それから先も、ずっと。

 いつか、一緒に見ようね。

 

――――

 

 

「緊急事態発生、緊急事態発生」


「DMV急激に低下! このままでは……!」


「一体何が起こったんだ!」


「ただいま確認中です!」


「ぐっ、な、何をするんですか!?」


「やめろ! 止めるな!! あそこにはあいつがぁ!」


「う、うそ……。こんなことって……」


「危険です! 離れていてください!」


「ありえません……、これではまるで……」


「く、くそぉ……っ!!」


「時空が、断絶しているとしか……っ!」

 

――――

 

 あなたがあの事故に遭ってから、もう少しで一年になるね。

 少しだけだけど、あなたがいない毎日に慣れてきていて、それがいいことなのかどうかわからない。

 開くはずのない玄関の扉を見て、胸が痛くなるのも少なくなる。

 あなたの顔が、あなたの声が、今までずっと思い出せていたあなたが、少しずつ消えていく。

 私とあなたってどんな風に毎日過ごしてたのかな。

 どんな話をしたのかな。

 どんな風に笑っていたのかな。

 私の生活から、あなたが薄れていくのが辛いよ。

 それを辛いと思わなくなっている自分が悲しいの。

 もしも、たった一言でもあなたが私に話しかけてくれたなら、こんな風に思うこともなくなるのかな。

 

――――

 

 終わっていた。

 何もかもが、目に映るもの全てが荒廃していて、生きているものの存在を視認できない。

 空を見上げるが、一面灰色の雲に覆われている。夜ではないようだが、それ以外の情報は皆無だ。

 一見、岩のように見える塊は、よくよく見てみると高層ビルの成れの果てだった。倒壊してから一体どれだけの年月が経ったのか。

 コンクリートの壁面は経年劣化で風化しているようで触れるとボロボロと崩れていく。恐らく数十年、数百年の単位では言い表せられない程にまで達しているのではないだろうか。

 しかし心のどこかでここが一体何なのか見当がついていた。

 覚えている最後の記憶は、時空間の穴、所謂ワームホールを空ける実験を行っていたこと。

 繰り返される『緊急事態発生』の機械音声。

 何かに自分の体が押しつぶされるような感じがして、それで今に至る。

 俺は時空間における何らかの座標移動をしてしまったのだということは、想像に容易かった。

 石ころでざらつく地面を踏みしめて歩く。大きく変化しているものの、その道にはどこか見覚えがある。

 勘違いであってほしいという願望と、何もわからない状況下での数少ない手がかりになりうるものを見つけた嬉しさが入り混じる。

 

 ああ、間違いない。

 この場所は昔、街だったのだ。

 俺が住んでいた、あの街だ。

 

 俺の生きていた世界は、いつだったか滅びてしまって、それからまた数えきれない年月が積み重なった果てなんだ。

 一切の生物の気配を感じない。虫一匹すら見つけることができない。

 地球が生まれてから何世紀もの時を経て誕生した生物は、今この時においてはその全てが消え失せてしまったのかもしれない。

 ここは言うなればまさに世界の終わりだ。

「はぁ……」

 意味を失った世界で一つため息をつく。それ以外は完全に無音だ。

 まだかろうじて酸素は大気中に残っているらしく、最後の生命が生を維持することはできるようだ。どうせなら酸素すらもなければ、こんな絶望を感じるよりも先に死ぬことができていたのに。

 皮肉的な幸運が、何とも憎らしかった。

 そうしてどことなく歩いていたつもりだったが、自然と自分の足は家に帰ることを望んでいたらしい。

 俺が住んでいたはずのアパートは、老朽化してボロボロになりながら、それでもなお主の帰宅を待っていた。

「壊されていなかったのか……」

 俺が住んでいた時も決して新しいものと言える代物ではなかったが、だがしかしどうしてこいつは残っている。その事実が暗示する事柄。

 世界が滅亡した瞬間、この建物はまだ残っていたということ。

 つまり、この建物が壊されるよりも先に、世界は滅びたということ。

 俺が愛し、俺を愛してくれた人は、それに巻き込まれた可能性が高い。

 全てが死に絶えた事実をわかっていながらも、彼女が死んだことが俺の心に追い打ちをかける。

 そうだ。どこか他人事のように感じていたが、全てが死んだということは、それは俺の周りの人たちも同じこと。

 親も、兄弟も、友人も、そして恋人も。

 俺の大切な人たちはみんな死んだ。

 あまりにもぶっ飛びすぎて、ショックを受けてはいても悲しみが湧いてこない。実感がない。

 玄関のドアを開く。鍵はかかっていたようだが、錆びきっていてその本来の役割を果たせていないも同然だった。

 荒れに荒れた部屋。しかし、その家具の配置になぜか既視感を抱いた。

 微かに心の奥の声が囁いてくる。希望の声が聞こえてくる。

 誰もいるはずがない。誰かがいるわけがない。もぬけの殻の空間に、俺は一体何を期待しているのだろう。

「ん? これは……?」


――――


 この間ね、あなたの友達がうちに来てくれたの。

 ほら、よく一緒に研究してたって話してくれた人。その人から聞いたの。あなたが実験の最中に事故に巻き込まれたって。

 時空が何だとか、難しいことはよくわからないけど、あなたはどこか遠くのところに行ってしまったみたいだね。

 今よりもずっと昔のいつかなのか、それともずっと遠くの未来なのか。誰もわからないみたいだけど。

 だから、もしも今あなたが未来にいるなら、いつかこの手紙も読んでもらえるのかな。

 そんなことを最近はよく考えてる。まるで小学生の頃のタイムカプセルみたいだね。

 

 ごめんなさい。

 

 いきなりどうしてこんな風に謝っているのかわからないよね。

 えっとね、うん。うまく書けるかな。

 

 もう、私十分待ったよね。

 何日、何週間、何ヶ月……、ううん、何年待ったのかもわからなくなっちゃったよ。

 ずっとずっと待ってたのに、帰ってこないあなたがいけないんだから。文句はいいっこなしね。

 

 もう、耐えられないんだ。

 

 本当に、ごめんなさい。


――――


 四角いスチールの缶箱の中には、たくさんの封筒がぎっしりと詰まっていた。見ると、その缶は一つだけではなくいくつもしまわれている。

 そのどれもが同じように封筒で埋め尽くされている。

 封筒から中身を震える手で取り出し、恐る恐る開く。

 それは、彼女から自分に向けた手紙だった。

「これだけの数を一人で、俺のために……?」

 俺はそれを読みふけった。もはやそれは貪るという言葉の方が近かった。

 彼女は俺がいなくなってから手紙を書き始めたようで、たくさんの彼女がそこにはいた。

 過ごしている日常が目に浮かんでくるようだった。だが、便箋を捲る度に胸を締め付ける痛みが増していく。

 そこにいるのは、ずっとただ一人の恋人を待ち続ける女性しかいなかった。

 それ以外の情報はなく、また同時にそれ以外の出来事もなかったように思えた。彼女の孤独な文字から伝わってくる情景は、ひどく寂しげだった。

 自分のために待ってくれていたことが嬉しく、また同時に辛かった。

 俺のいない世界で、俺のいない人生を歩んでほしかった。

 だが、自己愛がその願望を滲ませる。自分の醜さがひどくおぞましい。

「これで、最後か」

 気づけば全部の箱を開けてしまったらしく、その中の封筒も残すところあと一つだけだ。

 その最後の手紙の文章は途中まではそれまでのものと同じような内容だったが、最後の数行で急にその雰囲気が変わった。

『ごめんなさい』

 そう綴られた六文字は、上の行の字とはかけ離れて綺麗だった。ただ形が整っているだけでなく、力強いようで儚いようでもあって。

 どれだけの思いを込めれば、こんな文章を書けるのだろう。

 これを書いた時、彼女はどんな顔をしていたのだろう。

 わからない。

 彼女がどれだけ長い月日を一人で待っていたのだろう。

 生きているのかもわからない俺を、どんな思いで。

 そんな事を考えているとふいに、恐怖と不安が胸の中を覆った。

 この文章だけでは、彼女にこの後何があったのかがわからないのだ。

 最初は俺とは違う人と人生を歩む道を選択したように思ったが、よく見てみるとそんなことはどこにも書いていない。

 耐えきれずに自ら死を選んだようにも見えなくはない。むしろ一旦その可能性を挙げてみると、最悪のパターンばかりが頭の中を駆け巡る。

 それから俺は彼女が生きていた証拠を探すために、街中を歩き回った。しかし多くの情報はデジタルで保存されていたせいで、アナログのデータがほとんど存在しない。

 たとえ保存されていても、それを読み取るための媒体が存在しない。

 いくら探しても、その時間は徒労に終わるばかりだった。

 時間、というのは語弊がある。

 もはや時間という概念そのものが存在しないのだ。

 それに気づいたのはふと空を見上げたときだ。雲が動いていない。そこでようやくこの場所の異常性に気づいた。

 空の色が変わらない。暗くなるはずの空は同じ灰色を映すのみで、わずかに薄れることも濃くなることもない。

 俺以外のものが微動だにせず、風すら吹かないのはそういうことが関係しているのかもしれない。

 自分が動けている理由の説明がどうしてもつかなかったが、最早時空体が歪んでいて人間には理解できない範疇でことが運んでいるのだと思うことにした。

「俺は、どうすればいい?」

 誰も答えてくれない。どうせなら死んでしまおうか。

 そう思った瞬間のことだった。

 

「な……? 身体が勝手に……?」


 そう思った瞬間のことだった。

 誰も答えてくれない。どうせなら死んでしまおうか。

「俺は、どうすればいい?」

 自分が動けている理由の説明がどうしてもつかなかったが、最早時空体が歪んでいて人間には理解できない範疇でことが運んでいるのだと思うことにした。

 俺以外のものが微動だにせず、風すら吹かないのはそういうことが関係しているのかもしれない。

 空の色が変わらない。暗くなるはずの空は同じ灰色を映すのみで、わずかに薄れることも濃くなることもない。

 それに気づいたのはふと空を見上げたときだ。雲が動いていない。そこでようやくこの場所の異常性に気づいた。

 ”もはや時間という概念そのものが存在しないのだ。”


――――


 弾性:物体に力を加えているときに生じた変形が,力を除くともとに戻る性質。

 ――ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より


――――


 終わっていた。


――――


 終わっていた。


――――


 終わっていた。


――――


 終わっていた。

 何もかもが、目に映るもの全てが荒廃していて、生きているものの存在を視認できない。

 空を見上げるが、一面灰色の雲に覆われている。夜ではないようだが、それ以外の情報は皆無だ。

 一見、岩のように見える塊は、よくよく見てみると高層ビルの成れの果てだった。倒壊してから一体どれだけの年月が経ったのか。

 コンクリートの壁面は経年劣化で風化しているようで触れるとボロボロと崩れていく。恐らく数十年、数百年の単位では言い表せられない程にまで達しているのではないだろうか。

 しかし心のどこかでここが一体何なのか見当がついていた。

 覚えている最後の記憶は、時空間の穴、所謂ワームホールを空ける実験を行っていたこと。

 繰り返される『緊急事態発生』の機械音声。

 何かに自分の体が押しつぶされるような感じがして、それで今に至る。

 俺は時空間における何らかの座標移動をしてしまったのだということは、想像に容易かった。

「ん……?」

 なぜだろう。この感覚に俺は覚えがある。所謂デジャヴというものだ。

 しかも一度だけではない。俺は何度も何度もこの感覚を味わっている――?

「あ……」

 ふと、一つの可能性が頭に降りてくる。もしかしたら何度も繰り返された記憶が俺にその発想に至らせたのかもしれない。

 この世に無限が存在せず、突き詰めてしまったら全てが有限であるとしたら?

 時間にもまた終着点があるとしたら?

 ここは、時の果てなのではないだろうか?

 もしも時間に物質的な性質があって、その中に弾性が含まれていたとしたら。

 俺は時間が進むように動き、そして弾性によって戻されている?

 あまりにも子供じみた発想だが、この尋常でない既視感を説明するにはそれがもっともらしく感じられた。

「そんな……」

 ありえない。

 そう思いたいが記憶の残痕が絶えず否定してくる。恐らく俺は何度も繰り返している。何度も同じ考えに至っている。

 自殺も、している。自ら首を吊ったような感覚がぼんやりと残っている。

 未遂ではなく、本当に『死んでいる』。

 しかし今の俺は『生きている』。

 生きている。

 確かに死んだのに、生きている。

 つまり、俺は――

「死ぬことも、できないのか……?」

 目の前の風景がぼんやりと揺れる。脳を直接握りしめられるような頭痛が止まない。

 あまりの絶望に吐き気すら催してくる。

 そのどれもに、既視感がある。

 俺は、同じことを繰り返している。

 同じ思考を、同じ行動を。

「くっ、あ、あぁ……っ!」

 逃げ出したい。

 誰か助けてくれ。

 脳裏には無意識に一人の顔が思い浮かんでくる。

 そこへ逃げ出せば、この痛みから解放されることを知っている。

 あの場所に行けば、俺は彼女に会える。その断片に触れることができる。

 早く彼女の文字を見たかった。

 もう何度も見ているあの手紙に触れたかった。

 足は勝手にその場所に向かって動く。もう自分の意志なのか繰り返しの上での惰性なのかわからない。

 ただ、歩く。

 彼女に、会いたい。

 ただ、それだけを思う。

 何度も思っている。

 玄関のドアを開く。

 その瞬間――

 

 バリッ。

 

 何かがヒビ割れたような、そんな音がした。

 そんなことは初めてだった。勝手に動いていた身体が途端にそれからどうすればいいのかわからなくなったように、急に動きを止める。

「えっ……?」

 この世界で、初めて、動くものを見た。

 俺が動かすのではなく、勝手に動くもの。

 赤いチェックのマフラーが、ゆらりと揺れる

 時間の終着点に抗う自分以外にはありえない現象。

「どうして……?」

 そこには、俺が求め愛した人が、あの手紙の箱を手に持って立っていた。


――――


「本当に、やるのか?」

「はい」

「そっか……。こんなのバレたら始末書どころじゃ済まないな……」

 彼の親友だったその人は、困ったように後頭部をかいた。

「ありがとうございます。本当に、心から感謝しています」

「いや、いいんだよ。あいつがいなくなってからのあんたは、正直見てられなかったからな……」

 私の目の前に広がる、真っ黒な穴。彼はどうやらこの穴に飲み込まれて行方不明になったらしい。

 それからずっとこの穴はこの場所に残ったままで、消えることもなくただここにいるらしい。

 死ぬことになるかもしれない。むしろその方が可能性としては高いことも聞いていた。

 それでも私は――。

「もしも会えたら、よろしく頼む」

「はい。わかりました」 

 あと一歩。

 それを踏み出したら、きっと私は彼と同じ場所へ行ける。

 こんな世界に、あなたのいない場所に、未練なんてない。

 この真っ暗な穴の中へ、あと一歩。

「あなたに、会いに行くからね」

 そうつぶやいて、私は落ちていった。


――――


「どうして、お前が……」

 夢でも見ているのか、それともあまりのストレスに幻覚を見るようにまでなったのか。

 眼前に広がる現状に理解が追いつかず硬直していると、彼女の長い髪とマフラーが大きくはためいた。

 まばたき。

 次に目を開くのと同時に、全身があたたかな温度に包まれた。

 それは気が遠くなるような長い間、一度も感じることのなかった人の温度だった。

「おかえり……っ」

 理解はまだできていない。

 なぜ彼女がここにいるのか。

 時間が止まっているはずなのに、なぜこのような変化が起こったのか。

 何もわからない。

 けれど、今はそんなことはどうでもよかった。

 俺も、彼女を同じように抱きしめ返し、こう返した。

「……ただいま」


――――


 二人の部屋の外にはかつて桜の木があった。

 

 時の終着点に至った今では、その名残すらも見つけることができない。

 

 しかし、窓の外に広がる空の雲は少しだけ動いていた。

 

 二人はそれに気づかない。

 

 だが、確かに、動いていた。


――――


 塑性:固体が弾性限度をこえた大きい力を受けて変形するとき,力を除いてもその変形がもとに戻らないで残ってしまう性質。

 ――ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より

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