後編

 この存在が、どうやら僕の夢の中の存在とは違うと言うことに気がついたのは、つい最近のことだ。というのも、僕は夜中に唐突に覚醒したのだ。いままでこんなことは滅多になかったので、起きた時に年甲斐もなくうろたえた。そして、水でも飲もうと部屋の外に出た。廊下を渡って、厨房へ。その帰りだった。居たのだ。部屋の前にそれが居た。にょろりと長い、真っ黒いものが部屋の前にうずくまっていた。とぐろを巻くような、胡座をかくような姿勢で座っていて、微動だにしない。座っている、と感じたのだから、少なくとも人のような姿であるのは確かだと思う。しかし、如何せん真っ黒で目も鼻も口も分からない。僕が動けないでいると、それはおもむろに立ち上がって、こっちを向いた。こっちを見ていたかどうかは分からないが、兎に角こっちを向いた。そして、そいつの顔に、大きく穴が開いた。口なのか、それとも別の何かなのか。僕にするすると近寄ってきて、まるで覆いかぶさるように背伸びをした。そうして、そいつが僕に触れる直前、僕は目を覚ましたのだ。いつの間にか寝床に寝ていて、布団もかぶっていた。ここで話が終われば、僕も夢だと断定できたのだが。起きて、また廊下に出たら、また居た。昨日の夜と変わらない様子で、座っていた。まあ息が止まるほど驚いたのだが、それは昨日とは違って、すぐさまするりと、窓から逃げていってしまったのだ。窓の外を確認してはみたが、やはりというべきか、何もいなかった。

 


 僕は、意を決して押田さんに話してみることにした。その日は少し暑くて、夜になっても気温がなかなか下がらなかった。帰ってきて夕飯を食べるところまではいつもどおりだったが、僕はこの日、押田さんにお酒を勧めた。なんとなく素面の人間にこんな与太話を話すことはためらわれたし、彼女はお酒はどうやら好きらしいと分かったので、日ごろのお礼もかねて少し高い日本酒を買ってきて、食後に一杯どうですか、と持ちかけた。押田さんは、最初は面食らっていた様だ。それはそうだ。普段そんな事をしない人間がいきなり酒を持ってきたりすれば、驚くのも当然だろう。しかし、こちらの親愛の意思表示と受け取ったのか、嬉しそうに承諾したのだ。彼女は、何と夕飯に加え、更にあてまで作ってくれたのだ。彼女は、酒好きと自分でもいっていたとおり、するすると酒を飲んだ。心なしかあてをつまむペースも速い。一度に飲む量が多いわけではないが、見ていて気持ちの良いくらい淀みなく飲む。一寸蛇っぽい。しばらくすると、気持ちが良くなってきたのか、こっちを見て、

「ふふ」

と笑った。そして、何度も嬉しい、嬉しいと呟いた。そんな事を言われてしまうと、これから自分の妙な体験を話す気になれなくなってしまうのだが、誰かに聞いて欲しい、程度には考えていたので、少し迷った末に、結局話すことにした。

「その、この頃した妙な体験なんですがね」

 押田さんは最初は、少し訝しげではあったのだが、話していくうちに、段々と少し、申し訳なさそうな顔になった。息をかけられる、と言うところまで話し終わったところで、押田さんは言った。

「それは、きっと私なのだと思います」

 僕は、そっちの方に驚いた。毎晩やって来ていたあれは、押田さんだったのか。

「ちゃんと眠れているのか心配で……いえ、このぐらいの年の男の人って、夜更かししがちなものなのでしょう。それで、障子を開けて、ちゃんと寝ていらっしゃるのか」

 僕はしばし唖然とした。あれは、本当に彼女なのか。だというならば、夢とは言え大層失礼な話だ。心配して見に来てくれている彼女をあんなふうに認識しているのだ。幾らなんでも酷すぎる。押田さんは僕がおかしな匂いをかいだ猫のような表情をしているのを見て、くすりと失笑した。それが僕の恥ずかしさを更に煽ったのは言うまでもない。押田さんがまあ所謂綺麗な顔立ちをしているのもあるだろうし、普段は余り笑わず、目を細めるだけにとどめることも多いのもあるだろう。所詮は現金な大学生だ。


しかし。それでは。


 あの朝に僕の目の前にうずくまっていたあれは何なのだろう。やっぱりあれも、凹凸がなくて、全体的ににょろりとしていた。あれも彼女なのか。しかし、人間があんなに真っ黒に見えるはずがない。光の加減で真っ黒に見えた、と言うにしては黒すぎる。逆光なら確かに真っ黒には見えるだろうが、それにしたっておかしい。しかも、としていた。人間でないなら、僕の妄想か。僕の記憶にある人物から、人間の要素、顔のパーツをカットして、真っ黒に塗り潰したのか。そこまで考えて、幾らなんでもそんなことはあるわけがない、莫迦莫迦しい、と首を振った。そのことも、押田さんに話してみた。すると、ちょっと笑って、

「あれのことですか」

といって、居間の天井の隅を指差した。


 神棚がある。榊の入った瓶と、何かの書いてある札、そして、中心には真っ黒い、とした地蔵のような小さな像が鎮座していた。あんなものがあったのか。いや、これだっておかしい。だって今までこんなものに僕は気がつかなかったと言うのだろうか。居間の天井なら、何度もとは言わないが、何回かは見ているはずだ。天井板も、梁の形も覚えているのに、神棚だけがすっぽりと抜け落ちている。

 僕は少し怖くなった。あのした何かではない。自分の頭のほうがである。自分の脳みそがそんなに簡単に何かを作り出したり消去したりするならば、なんとも頼りないではないか。


「フキ、という神様だそうです。どんな神様かは、私も知りません。祖母が知っていたみたいなのですが、私にはついぞ教えてくれませんでした。お祈りの作法すらも分からないんです」

 じゃあ僕は、気がつかないうちにあれを見て、わけの分からないものを想像したあとに、自分の記憶から消してしまったのか。あの神棚に何かあるのか、それとも僕に何かあるのか。分からなくて、黙った。

「こわいですか」

 僕は、弾かれたように顔を上げた。

「怖くない、と言っていましたね。では、少なくとも悪いものではないのではないのですか。何なのかは分からないのに怖くないものなら、あなたはそれが自分に害をなさないと知っているのでしょう。あなたの心が作り出したものなら尚更です。あれは、きっとただそこにいて、眠りに誘うものなのでしょう。ならば———」

 大丈夫、か。そう考えていいのなら、勿論僕もそう考えたい。でももしも僕の方がどうかしていたなら。彼女は少し顔色を悪くしていた僕のそんな心情も何となく察していた様で、そう言った。自分が大丈夫だと思えば、そうなのだ。もしそうではないのだとしても、その時が来るまでは、きっと平気でいられるのかもしれない。やはり、何度思い返しても、僕はあれを見て驚きはしたが、怖いものと思ってはいなかった。

「今日は、居間に布団を敷いて、二人で寝ましょう」

 唐突に押田さんはそういった。僕としては固辞するつもりだったが、彼女はちょっと笑って、あのくろいものが来ちゃいますよ、と言って、僕を脅しにかかったため、結局そうした。常夜灯をつけたまま、彼女とは話をしていたのだが、割とあっさりと眠りに落ちてしまった。

 

 夢を見た。僕は家の前の坂を上がっていて、奇妙に曲がりくねっている。夜だったので家々から灯が漏れていて、周囲はオレンジ色だった。家の前にはあの黒いものがとぐろを巻くように座っていて、微動だにしていなかった。僕はその隣に座って、その影を見た。のっぺりした顔に、穴が開いた。大きく開いた。

「きっと、大丈夫です」

 そいつは、歯のない口で一言、そう言った。そこから先は、覚えていない。

                             

                                                                  (了)

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廊下 @do9

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