廊下

@do9

前編

 この街の山沿いのほう、西のはずれに、ぐねぐねと曲がりくねった、でこぼこの石畳の坂がある。そこの坂には、町家、と言えばいいのだろうか、両側に黒い木造の建物が並んでいて、坂の曲がり具合に態と逆らうように直線的なシルエットを晒している。夜になると、その建物にぼうと灯がともって、石畳を暗いオレンジ色に照らし出す。その左側、上から二番目に、古い家がある。近所の住人からは、角に小さな石の碑があることから、いしやと呼ばれているのだが、僕は、そこの店に行くために、坂道を登っていた。この家の二階の一室を、僕は間借りしているからである。僕は県外の大学に進学したから、まず家捜しをせねばならない状態にあったのだが、偶然祖父の古い知り合いであった、この街の肝煎りどのに相談してみたところ、その家の二階を借りれば良いのではないかと提案されたのだ。いまどきこんな話もないだろうが、相手方のほうも祖父の孫であるならば、と色よい返事が来たため、これは幸いとばかりに間借りしたのであった。この家の玄関には石畳とは別にまた石が敷いてあり、相当古いのか磨り減って真ん中がへこんでいる。玄関の引き戸もこのあたりの住宅の例に漏れず黒っぽく、木枠には小さな玄関灯が引っかかっている。これも電気式ではあるが古く、かなりさびも浮いている。引き戸を開けると、思ったとおり、家主はすでに帰っていた。

 この家の家主の名前は、押田さや、という。家の奥の座敷、天井から釣り下がったランプの下のちゃぶ台で書き物をしていた。

「ん」

 どうやら戸を開ける前からこちらが帰ったことに気がついていたようで、あけると同時に声がかかった。

「おかえりなさい、直ぐごはんを準備します」

 押田は、こっちを見てぽつりと、静かな声で言った。そうしていそいそと厨房のほうへ向かっていった。夕食はすでにできているようで、暖めなおすだけでよかった。彼女の料理は、大抵が質素なものである。動物性たんぱく質が少ないとかそういうことではなく、何と言うか、味付けも色合いも素朴であることが多い。彼女自身は食の太いほうではないのだが、若い人が来たということで、沢山作って出してくれる。腹が減っていたので、がつがつと食べた。対照的に押田さんは、するすると食べている。上品、と形容すればいいだろうか。何となく、食べ方に淀みがない。上品と言うか、綺麗な食べ方だった。食事が終わっても、僕は食卓についたぎりまごついていて、黄色っぽい照明の下で、厨房で洗い物をする彼女を見ていた。

 押田さんは、首が白くて長い。厨房に立つ押田さんの着物の襟元、髪の毛の下から時々肌が覗く。照明は真下は明るいが、隅に行けば少し暗く、その白い肌がよりいっそう目立つ。彼女は着物の襟を開いてきると言うことはなく、しっかりと着ているから、これは単に首が長いせいだろう。身体も、何というか、長い。長身とか痩せているいうわけではない。ただ、長い。襦袢姿の彼女を見たことがある。彼女は就寝時には襦袢を着て寝るからだ。見た限りでは下着もつけておらず、身体の線が良く見えた。その時、僕はなぜ彼女の身体が長いかをはっきりと理解したのだった。凹凸が少ない。特に腹から腰にかけてがのっぺりとしていて、こういう言い方は気が進まないが、全体的に蛇のようだった。

 そこまで考えたところで、押田さんは蛇口を閉めた。思考が急激に目の前に引き戻される。軽く頭を振り、押田さんにお礼を言って部屋に戻ることにした。その後は、課題をやったり、本を読んだりしているとあっという間に夜も更けて、十二時半になった。いつも僕はこの時間に寝床に入ることにしている。電気を消して、常夜灯に切り替える。オレンジ色の光が本当にうっすらと部屋を映し出す。表を照らす窓灯みたいだ、といつも思う。そうしてすぐに睡魔が忍び寄ってきて、僕は目を閉じた。中学生の頃から全く変わらない僕の生活リズムだ。しかし、睡魔は忍び寄ってきても、少なくとも僕の場合は、すぐに眠りにつけるわけではない。まどろみと言うやつで、半分起きているような、半分寝ているような、そんな状態になる。頭の中の思考の『文脈』と言うべきものが唐突に乱れて、よく分からない全然関係ない文章が挟み込まれる、そんな感じだろうか。夢うつつ、という言葉のほうが近いかもしれない。しかし、僕の身体の感覚はまだ働いている。そして、僕の感覚は、決まってあるものを捉えるのだ。


 みしり。


 跫だ。かすかにぺたり、と言う音もするので、多分裸足の足から出る音だ。僕は身体を動かせない。いや、睡魔に包まれたまま動かそうとしていないから、動かない。音はゆっくり、近づいていくる。これは、自分の夢の中で起きていることなのか、それとも現実のものなのかは、いつも僕は判別できない。


 みしり。


 音の歩みはゆっくりだ。こういう事をいうと、なんだか怖いもののように思いがちだが、僕はそのまま寝ているあたり、ちっとも怖がっていないのだろう。目を瞑っているから、姿は見えない。いわば、あしおとだけの存在だ。それは、部屋の前で立ち止まる。すうっと障子が開く音がして、廊下の板張りを踏む音から、畳を踏む音に変わった。入ってきている。またみしりと畳が軋んだ。ひざをついて、僕の顔を覗き込んでいるらしかった。顔の前の温度が変化する。湿度が変わる。そして、顔に息がかかるのだ。はあ、と一回だけかかる。

 すると、唐突にその存在が消えて、気がつくと。

 朝になっている。そうした体験を、もう何度もしている。あの廊下を歩いてくる何者か、いや、「何か」はなんなんだろうか。何かと言う表現をしている時点で何なんだろうかも何もないような気もするが、あれは僕がまどろむと、律儀にも毎回やってくる。そして、息をかけられた時点で僕は決まって深い眠りに落ちる。

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