異世界の地図

 デイヴィッドは僕を見た。その目は穏やかで、僕に対する信頼が溢れていた。


「鍵を君に渡したいんだ」


 僕は驚いた。どうしてそんなことを? と尋ねる。デイヴィッドは少し考えて、言った。


「どうしてなのか……。僕にもわからない。でも君に預けておきたいんだ。僕が持っていても仕方がない気がするし……。ちょっと待ってて」


 言い終わると、デイヴィッドは家の奥に引っ込んだ。ほどなく出てくる。僕のほうに、何かを差し出した。


「これが、そうだよ」


 小さな金色の鍵だった。僕は戸惑いながらそれを受け取った。デイヴィッドは笑う。


「大切にして欲しいな。ああ、でも、鍵だけ持ってても仕方ないか。でも……箱は渡したくないな。――そう、もしもまた僕らが会えたら、その時、地図を取り出すことができる」


 デイヴィッドの顔が輝いた。いい考えを思いついて、満足しているみたいだった。


「その方が素敵だろ。僕らはまた――会えると思うよ」


 そう、会える。僕は思った。僕はデイヴィッドにもう会えないかもしれないが、デイヴィッドは、祖父は、未来で僕に会うことができる。


 僕は鍵を握った。鍵は固かったが、ほのかに温かかった。




――――




 それから数日後、僕はクライブ氏の住まいを訪ねていた。彼は成功した医者で、高級フラットの一室に住んでいる。影のように密やかな使用人に案内されて、僕は彼のいる部屋に行った。


 外は冷たい雨が降っていた。けれども室内は暖かだった。大きな安楽椅子に、クライブ氏は座っていた。相変わらず痩せていて――祖父の葬儀で見たときよりも、さらに痩せているように思った。頬がこけて高い鼻がその間から突き出ていた。皮膚にもはりがなく、あまり健康ではないのだろうかと、ふと心配になった。


 薄い灰色の目が僕を見ていた。そうだ、この目だった。彼はレナードだ。僕らが、僕とデイヴィッドが一緒に旅をしたレナードだ。僕は促されソファに座り、そして、今回の訪問の目的を話した。


 あの夜、祖父から鍵を渡された後、気づけば僕はベッドの中にいて、外はすっかり朝だった。また夢――と思いそうになったけれど、今度は違った。驚くべきことに、僕は片手に鍵を握りしめていたのだ。小さな金の鍵。祖父からもらったものだ。


 僕は祖母に、祖父が大事にしていた小箱がなかったかと尋ねた。祖母はすぐにそういえばそんなものがあったと教えてくれた。しかし鍵がなくて開けられないのだと言う。僕はその小箱を譲ってもらった。小さな木の箱で、周囲に蔦の模様が彫られていた。


 鍵はその小箱とぴたりと一致した。そして中には――古い紙があった。その紙を持って、僕は今日、ここにやってきたのだ。最初は戸惑いながら、けれども次第にはっきりと、僕はクライブ氏に語った。祖父の葬儀でのこと、その夜のこと、異世界での冒険のこと。


 クライブ氏の目がみるみる驚きで大きくなっていった。信じてくれないかな、と僕は思った。けれども、そうではないようだった。


「あの日――」クライブ氏は言った。「デイヴィッドの葬儀の日、君を見たのだ。幼い頃、不思議の世界で出会った少年によく似ていた。私は驚いて、まさか、と思った。正直、もう何十年も前のことなので、記憶も薄れている。私の思い違いだろうと、思ったのだが……」


 僕は、ヘンリーですよ、とはっきりと言った。一緒に旅をした仲間です、と。クライブ氏の顔がわずかに緩んだ。そして彼もまた、はっきりと応えた。


「わかるよ。君の話を信じよう。君は僕らの仲間だった」


 僕は嬉しくなった。それから続けて、再び祖父に出会ったことも話した。祖父が、寂しがっていたということも。一度緩んだクライブ氏の顔がまた硬くなった。


「……離れていったのは、デイヴィッドの方だと思ったのだ。私は意固地でプライドが高くて、人付き合いが上手くなかった。デイヴィッドは違うな。彼は優しく素直で、みんなに愛された。私は一人で……そう、今だって一人だ」


 クライブ氏が二度結婚して、二度離婚し、今は独身でいることを僕は既に知っていた。18歳の祖父はレナードと会う機会が減ったと言っていた。その後二人はどんな風に交流を続けていたのか、ふと気になったが、聞くのははばかられた。


 やや重くなった空気を振り払うように、僕は話を続けた。異世界の地図のこと、それを入れた小箱のこと、その鍵を渡されたということ。僕は持ってきた紙を、クライブ氏に渡した。


「これがそうなんです。見覚えがありませんか?」


 黄色く変色し、ぱさぱさした紙だった。クライブ氏はそれを広げる。安楽椅子の側の小さなテーブルに紙を置いた。紙の上には、子どもの絵と文字が広がっていた。つたない山が見える。川も。宮殿はバランスが悪く崩れそうだ。ドラゴンも描かれているが、よく太ってなんだかカバのように見える。クライブ氏の顔の強張りが溶けた。たちまち、笑顔になった。


「そう、これだ。これだよ」


 目が煌めいた。僕は一緒に旅をしたレナードを思い出した。確かに意固地でプライドが高かった。気も強くて、時に喧嘩をすることもあった。けれども根は優しい奴だった。僕はレナードが好きだったのだ。そして目の前にいるのは、あきらかに、はっきりと、あの日のレナードだった。


 レナードが語り始めた。僕らの冒険を。僕はそれを聞き、そして僕もまた冒険の話をした。僕らの会話は大いに盛り上がった。話すことはたくさんあったのだ。それはそれは長く、偉大な冒険だったのだから。


 外ではまだ雨が降っていた。けれども雨の音に混じって、違う音も聞こえてくるような気がした。エメラルド色のドラゴンがゆっくりと身をもたげるのだ。その瞼が開いて、金色の瞳が現れ出る。ドラゴンの翼がそうっと上下を始める。その羽音が、都会の雨音に混じって、微かに聞こえてくるのだった。




――――




 クライブ氏が亡くなったのは、それから三日後のことだった。

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異世界の地図 原ねずみ @nezumihara

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