第9話

 修学旅行一日目と二日目は、クラスで行動をすることになっている。そして今日は資料館を見て回っていくという。そうして空港から出て、またすぐにバスに乗った。バスガイドも加わってバスの中はさらに騒がしくなっていたが、いくらマシになったとはいえ俺の眠気はまだまだ健在であり、やっぱりぐったりと眠っていた。沖縄の景色はまだまともに見れていない。


 資料館に着いても、俺は眠気と空腹に襲われつづけ、フラフラしながら館内を彷徨った。早乙女はフラフラする俺は置いてきぼりにしてどこかに行ってしまった。いつもは金魚の糞がごとくついてくるくせに、こういうときだけいなくなる。

 資料や展示物になど目もくれないで壁に手をつけて、ゾンビのように歩いていると、ふと声をかけられた。


「大丈夫ですか? それで治りましたか、吐き気と頭痛は」


 顔を上げると、そこに小豆沢さんがいた。俺に目線を合わせるようにして少しだけ腰を下げ、その長く艶やかな黒髪はゆったりと揺れていた。そして彼女は上品な仕草で顔に垂れた髪をかきあげて耳にかけた。その仕草の魅力もまた筆舌に尽くしがたいものがあったのは言うまでもない。ギャップとかではなく、ドストレートな破壊力がある。目を合わせれば石になってしまうメデゥーサのごとく、目を合わせれば恋に落ちてしまうのではないかと思った。かくして俺は必然的にドキッとした。

 俺が見惚れてあんまりにも黙っていたものだから、彼女は小首を傾げて「どうしました?」と訊いてくる。そこで俺はハッとしてなんとか言葉を発した。


「あ、それはおかげで治ったよ。本当に助かった、ありがとう。だけど、眠気が凄くてね」

「治ったならよかったです。しかし、眠気ですか。それはしょうがないですね」


 小豆沢さんが柔らかい声でそう言ったとき、俺の腹がぐうと鳴った。タイミングが悪すぎる。


「……あと、腹が減っているんだ」と俺は苦笑いをしながら言った。あまりに恥ずかしかった。


「そんなに綺麗なお腹の音を聞いたのは初めてかもしれません」


 と、彼女は俺の腹に目をやって言った。顎に親指を当てて興味ありげな様子である。俺は恥ずかしさのあまり、「そ、そう? それはよかった」と訳の分からぬことを口にしてしまった。何がよかったのか自分でもさっぱりである。


「にしても、お昼は食べなかったんですか? お弁当があったじゃないですか」

「ま、まあ、ずっと眠っていたからね。起きたときに食べようとも思ってたけれど、それも早乙女に食われててさ」

「そうですか。それは残念ですね、あのお弁当は美味しかったのに」と言って彼女はおもむろに鞄の中をガサゴソしだした。「お弁当はありませんが、お菓子ならあります。食べますか?」


 俺は小豆沢さんのその優しさに脱帽した。いや、どちらかといえば驚愕した。なぜ彼女がそんなにも俺に優しくしてくれるのかが謎であった。今まであまり話したこともないというのに、やけに心配してくれている。しかも俺はクラスでは早乙女の次に虫けらも同然の男である。俺が空腹で倒れていようとも、誰にも見向きもされないのが当然のはずなのだ。しかし、彼女はそうではなかった。なぜなのか、疑問である。それと、早乙女はいつしか餓死してもよい。

 などと、思いつつ、俺は小豆沢さんに言った。


「じゃ、じゃあありがたく貰おうかな」

「では、いったん外に行きましょう」


 そう言って彼女は歩き出した。

 館内では飲食禁止なので、我々は外に出てベンチに腰を下ろした。空はどんよりと曇っており、いくら南国とはいっても十二月の沖縄は少し肌寒かった。

 俺は小豆沢さんから貰ったスティック状のビスケットをばくばくと食べていた。甘みと塩気がちょうどよくて美味しい。普段であれば緊張で食べ物なんて喉に通らないような状況であるが、今の俺はそれよりも腹が減っていた。なにしろ朝から何も食べていないのである。

 ふと、「私、これが好きなんです」と小豆沢さんは言った。

 隣に座っている彼女もそのスティック状のビスケットをカリカリ食べていた。まるでリスのような食べっぷりである。

 俺は口の中のビスケットをごくりと一気に飲み込んで言った。


「これは食べたことなかったんだけど、たしかに美味いもんですね」

「ならよかったです」


 そう言って彼女はまたビスケットを一つとってカリカリ食べた。そしてそれを食べ終わると彼女は立ち上がった。


「じゃあ私はそろそろいきます。色々と見て回りたいので」

「あ、なんかごめんね。それとこれ、ありがとう」

「いえ、大丈夫です。私もちょうど小腹が空いていたところなので。じゃあまた」


 小豆沢さんは資料館の中へ戻っていった。

 俺がぼーっとしながら残ったビスケットを食べていると、隣に誰かが腰を下ろした。そいつは勝手にビスケットを手にとって口に運んだ。言うまでもなく早乙女である。

 

「何をやってんだ、こんなところで」と早乙女はくちゃくちゃさせながら言った。

「見て分からんのか。腹ごしらえだ」

「いやだって、おまえ、さっきまで小豆沢さんといたよな。それはどういうことだよ」


 見てやがったのか、こいつ……。面倒くさいな。


「腹が減っていた俺に、小豆沢さんがこのビスケットをくれたんだよ、それだけだ」

「ふーん、そうか。でも、おまえ、まさか小豆沢さんに惚れたんじゃあるまいな」


 早乙女は首をゆっくりと横に振りながら言った。「いやー、やめとけやめとけ。おまえにはあまりにもハードルが高すぎる。どうせ無駄に傷つくだけだぞ」


「そんなんじゃない」

「どうせなら、俺が恋のキューピットになってやらんでもないぞ。それは友達として当然のことだろ?」


 俺は溜め息をついた。

 なんだかんだで三年間と二年間もずるずると一緒にいたのだから、今のこいつが何を考えているかなんて、容易に想像が出来た。


「……違うだろ。どうせおまえのことだから、キューピットとか言いつつ結局のところ邪魔しかしないつもりだったろ。そうやって俺がフラれるまでの過程を面白がって、フラれた暁には大笑いするに違いない」

「おお、流石だな」と言って早乙女は笑った。「やっぱりよく分かっているなあ、これこそまさに真の友達ってやつだ」

「そんなことを企てる友達がいてたまるか」


 前にも同じようなやり取りをした気がする。となると、この後、早乙女は体をくねくねさせながら気持ち悪いことを言い出すはずなので、ここは先手を打っておくとしよう。

 

「妬いちゃうだなんて気持ち悪いことは言うなよ」

「だってワタ――お、よく分かったな」


 俺はまた溜め息をついた。

 そうして黙って立ち上がり、早乙女を置いて資料館に戻った。

 

 館内を何気なしにぶらぶらしていると、ふと小豆沢さんが姿は目に入った。

 彼女は展示物をじぃっと真剣な眼差しで見ている。時折、小さく頷いたりもしていた。

 俺はそんな彼女の姿を見てしばし思案した。

 もしかしたらこれが好機なのではないか、と。

 あんなに会話を交わして、さらには一緒にベンチまで座ったのだから、これは好機といってほかにない。ならばもっと積極的にならなくてはならないだろう。なるべく彼女の目に留まるようにして、なるべく彼女の近くにいるようにして、なるべく彼女に話しかけて、好機を掴み取るのである。そうして、ゆくゆくは小豆沢さんとお付き合いすることになり、その当然の結果として童貞を卒業して、そして輝かしいバラ色の青春が訪れるのである。

 言っておくが、これは断じてストーカー行為などではない。限りなく純粋な奔走である。そもそも、これがストーカーだと言うのなら世の中の恋する男子はほとんどストーカーになってしまう。

 とにもかくにも、この修学旅行に転がっていた好機を見つけることは出来たのだ。一安心とはいかないが、これでやるべきことは明確になった。

 かくして俺は偶然を装って小豆沢さんに近寄った。

 俺がどんなふうに話しかけようか悩んでいると、小豆沢さんのほうが俺に気づいて「また会いましたね」とだけ言った。そしてまた展示物に目を向けて真剣にそれを見つめている。


「あ、小豆沢さんはこういうの好きなんですか?」と俺は訊いてみた。

「ええ、とても勉強になります」と返ってきた。


 勤勉だなあと思った。俺はというと、なんで旅行にまできて勉強をせねばならんのだと憤りすら感じていたところがあった。しかも俺の場合、ここに来るのは三回目なのである。楽しく思えるほうが変態である。

 しかし、そんな小豆沢さんの様子からするに、これは邪魔してはいけないなと思った。ここで無闇に話しかけるのは逆効果である。勉強の邪魔はしないほうがいいだろう。

 それからはとくに会話を交わすこともなく、やがてバスへ戻る時間となった。

 積極的にとは何だったのか。しかしこれは致し方ない。まあ、まだ修学旅行は始まったばかりだし、明日また頑張るとする。


 今日は資料館だけで、次の行き先はホテルであった。

 ホテルでは特筆すべきことがない。なぜなら夕食を食べて、風呂に入ったら、すぐにベッドに潜り込んで眠りに落ちたからである。


                  〇


 二日目、我々のクラスはまず、おきなわワールドというテーマパークに向かった。テーマパークといっても、遊園地とかではない。たくさんの商業施設と玉泉洞という鍾乳洞があるテーマパークである。

 最初はクラスでまとまって玉泉洞を見て回り、それから自由時間ということになっている。俺はその自由時間のときこそ小豆沢さんに話しかけるのだ、と臍を固めていた。

 着いて、さっそくクラスでまとまって玉泉洞の中に入った。感嘆の声があちらこちらから聞こえてくる。こういうものにまったく興味がない早乙女でさえ「すげえ」と声を漏らした。まあ、たしかに素晴らしい鍾乳洞だが、三回目となると「ああ、たしかこんなんだったな」という感想しか出てこない。

 玉泉洞から出てくると、クラスメイトたちはそれぞれ仲良しグループに分かれて散らばった。

 

 小豆沢さんは基本的にいつも一人で行動している。今も誰とも話すことなく、悠然と一人で歩きだした。そう、これはまさしく好機でしかない。話しかける絶好の好機なのである。そうして二人でこのテーマパークを一緒に回るところまでいけば、もはや輝かしいバラ色の青春を手にしたことに等しい。いや、それは言い過ぎだが、まあ、確実に距離は縮まることだろう。

 しかし、問題はこいつである。


「おい、これからどこに行こうか」と早乙女は暢気に言った。


 俺につきまとうこの悪霊をどうにかしなくてはならない。運よくハブに噛まれて救急車に運ばれないかな、などど考えていると、ふと、向こうのほうに他校の生徒たちが目に入った。それを見て、俺は「これだ!」と思った。


「おい、早乙女。アレを見てみろ」と言って俺は指をさした。

「なんだ?」

「ほら、あの高校、なんかスカート短くないか?」

 

 早乙女は「なんだと!」とその方向へ目を向けて、「おお、ほんとだ」と嬉しそうに言った。


「だろ? うちみたいに私服じゃないところもあるんだな」

「俺、ちょっくら見にいってくるわ」と早乙女と駆け出した。

「おう、楽しんでこい」


 よし、これで邪魔者は消えた。

 ちなみに言うと、前回も前々回も俺は早乙女と一緒になってスカートの短い女子高生を求めて彷徨っていた。なにも沖縄まで来てやることではない。どうしようもない馬鹿である。

 

 俺は小豆沢さんを探した。

 彼女はどこに行ったのだろうか。ここは広いし、人も多いしで、一度見失ったら簡単には見つからない。それは女子高生を求めて彷徨っていた前回と前々回から学んだことである。

 スカートの短い女子高生を横目に見ながら適当に歩いていると、露店が並ぶ広場のところで彼女の姿を見つけた。しかし何やら様子がおかしい。彼女は一人ではなく、三人と一緒に歩いていた。よく見ると、その三人は制服を着ている男子で、つまりは小豆沢さんは他校の男子生徒に言い寄られていたのである。それに彼女は相手の顔も見ずに淡々と答えていた。


『どっから来たの?』

『言いません』

『これから一緒にまわんね?』

『お断りします』

『名前はなんていうの?』

『あなたたちに、なんで名前を言わなくちゃならないの?』


 しかし、小豆沢さんが何を言っても、その三人組はしつこくつきまとっている。

 俺はその様子を後ろから見ていて考えた。

 あの愚かな三人組をぶん殴ってぼこぼこしてやりたいところだが、残念ながら俺にそのような力はない。返り討ちに遭うだけである。とはいえ、ほっとくわけにはいなない。先生を呼ぶという手もある。だが待て。ここで積極的にいかないでどうする。今こそ積極的になるべきところ、俺が彼女を助けてやるべきではないか。 

 かくして俺は小豆沢さんの前に躍り出た。その三人組は俺を睨みつけ、小豆沢さんは驚いたような表情をした。


「おい、おまえら、彼女に何をしている!」と俺は言った。


 するとリーダー格っぽい男が喧嘩腰に返してくる。


「なんだ、てめえ」


 俺は思わずそのドスの利いた声に圧倒されそうになったが、なんとか声を出した。


「俺は、通りすがりの、彼女の、クラスメイトだ」

「だからなんだよ?」

「だから彼女が嫌がっているではないか! そういうのは、その、やめたまえ」

「あ? おまえには関係ないだろうが」

「いやだから、クラスメイトだから関係あるし、それに彼女は嫌がっているだろうが」


 するとその男は舌打ちをして言った。「もういいわ、冷めたわ」

 それを聞いて俺はとりあえず安堵したが、

 

「だから一発殴らせろ」


 と男は言った。


「え?」


 そうして男たちに合計三発殴られた。右ほっぺと左ほっぺと腹の合計三発である。俺はここでは倒れまいと、痛みに耐えながらフラフラと歩き、なんとか木の下にあるベンチに座り込んだ。結局、返り討ちに遭うとは……。これでは小豆沢さんにダサいところを晒しただけではないか……。

 

「大丈夫ですか?」と隣に座った小豆沢さんが顔を覗き込んでくる。

「なんのこれしき。全然、痛くないな」


 俺は頬を手で押さえながらふがふがとそう言った。せめてもの強がりだが、きっとバレバレであろう。めちゃくちゃ痛い。


「あれくらいのこと、慣れていたのに。わざわざ殴られに来たのですか」と彼女は呆れたふうに言った。


「……ですよね。そうなりますよね、すみません」

「しかし、流石にしつこかったのも事実です。ありがとうございます。また助けられてしまいましたね」


 そう言って彼女はペコリと頭を下げた。


「また、とは……?」

「あ、いえ、それはなんでもありません。そんなことよりも、本当に大丈夫なんですか? ほっぺた」

「え、まあ、大丈夫だ。血は出ていない」

「ならよかったですが」


 小豆沢さんは妙な言い方をしたが、なんでもないのと言うなら、なんでもないのだろう。俺だって、誰かの助けになるような実益のあることをした記憶はまったくないのである。

 しばらくたったが、小豆沢さんはまだ隣にいた。俺はまだ頬が痛いし、真っ赤だと思うので、休んでいるつもりだが、彼女がここにいる理由はないだろう。時間の無駄である。そう思って俺は彼女に訊いた。


「あの、小豆沢さん? そろそろ見に行かなくていいの?」

「何をですか?」

「いや、ここにいたら、見て回る時間なくなっちゃうけど……」

「そういうことですか。いいんです。一人で歩いていると、さっきのような変な輩にからまれるので」

「ああ、なるほど」


 またしばらくがたち、ここでようやく頬の痛みがひいてきたので、俺は立ち上がった。この間に、俺は「なら一緒に見て回ろう」と誘うと決めていた。

 ふうと息を吐き、いざそれを口に出そうとしたとき、小豆沢さんのほうが先に言葉を発した。


「さて、もう時間ですね」

「え?」と俺は思わず声を漏らした。

「もうバスに戻らなくてはいけない時間です」

「あ、そうですか」


 そうして俺たちはバスへ戻った。

 後悔の念に駆られながらバスに乗ると、先に乗っていた早乙女はニヤニヤして言った。


「どうだった? そっちは?」    

「何がだよ」

「いや、女子高生だよ。いいの見れたか?」

 

 こいつは本当にしょうもない奴だな。しょうもなさすぎて、もはや落ち着くまである。


「見れてねえよ……」

「そうか、残念だったな。俺は結構見れたぞ」

「……それはよかったな」

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