第8話

 教室内はざわざわとしていた。自分の席から離れて出回っている生徒が多い。ちょうど休み時間だった。

 黒板を見ると、十二月十日と書いてあった。そしてクラスメイトの顔ぶれからするに、今は俺が二年生の時だということが分かった。


「どうした? 急にキョロキョロしだして」


 と隣から声をかけられる。

 言うまでもなく早乙女である。見ると、早乙女はいつものように隣の机の上に尻を乗せていた。


「なんでもねえよ」

「そうか」

 

 俺は早乙女と三年間一緒のクラスだった。腐れ縁もいいとこである。もしどこかでクラスが違っていれば、もうちょっとマシな高校生活を送れていたに違いない。そう思うにつけ、やはり早乙女と関わりを持ってしまったことがそもそもの間違いで、出来ることなら一年生の最初の頃に戻りたかったと思ったりもしたが、それはワガママというやつである。またしてもタイムリープすることが出来ただけで有難く思うべきであろう。

 さて、あの女神は俺を好機が訪れる前あたりに送ってやる的なことを言っていたが、この頃、彼女が出来そうな好機といえるべき出来事はあっただろうか。そのような出来事はあまり記憶にない。もしかしたら俺が気づかなかったような些細な好機だったのかもしれない。

 それに気になったのは、ここは一回目のタイムリープした時間軸、つまり俺がさっきまでいた時間軸なのか、それともまだタイムリープしたことのない時間軸なのか、ということである。それで話は多少なりとも変わってくる。 

 まずはそれを判明させるべく、俺は早乙女に訊いた。


「なあ、一年のとき、俺が姫野さんにどんなことを言われたか憶えているか?」

「突然どうした」

「いいから、答えろ」


 早乙女と首を捻った。「うーん、姫野さん? たしか去年同じクラスだった女子だよな」

「そうだ。その姫野さんに俺が何を言われたか、だ」

「いや、知らんな。おまえが姫野さんにどんな酷い罵倒されたかなんて俺は知らないぞ」


 なんで俺が女子に言われることは罵倒に等しいと思ってんだろ、こいつ。なんか腹立つな。 

 まあそれはそうとして、早乙女があの文化祭で俺が姫野さんに言われたことを知らないというのであれば、そもそもこの時間軸ではそんなことがなかったのであろう。アレを憶えていないわけがない。

 つまり、ここは俺がさっきまでいた時間軸ではなく、俺がまだタイムリープしたことのない時間軸ということである。


「そうか、ならいい」

「いや待て。いったいどんな罵倒されたんだよ、気になるだろ」

「罵倒なんてされてねえよ」


 しかし、それにしてもこの頃にあったされる好機が思い出せない。何があっただろうか。姫野さんのように、やたらと特定の誰かに話しかけられることもなかったし、軽音楽部はとっくに辞めた後だし、相変わらず早乙女という悪霊に憑りつかれているしで、さっぱりである。

 まあ、後々になってピンとくるのかもしれない。とりあえず今のところは、当時の俺とは違った選択をとり、細心の注意を払い、それでいて積極的にを意識しておけば、大丈夫であろう。そうして迫る好機に備えて、気を引き締めて、女子との会話のシミュレーションを脳内で何度も繰り返しておけばなんとかなるはずである。


 ふと、「にしても、いよいよ明日だなあ」と早乙女は言った。「楽しみだ」


 何のことだろうと思った。この頃に、こいつが楽しみだと言うような悪事を企てていただろうか。


「明日? 何がだ?」

「いや明日だろうが、修学旅行」


 あ、そうか。今日は二年生のときの十二月十日か。考えているみれば、明日は修学旅行の日ではないか。


「そういや、そうだったな」


 すると早乙女は訝しげに俺は見た。


「大丈夫か、おまえ。さっきから様子が変だぞ」

「いや、俺は至っていつも通りだが」

「まあ、そうか。いつもは変じゃないと言えば、それも違うしな」

「おまえにだけは言われなくない」 


 早乙女は妙に高い声を出して「きゃっ。そんなに睨まれるとおかしくなっちゃう」と気持ち悪い意味不明なことを言ったので、流石にそれはシカトした。

 そうして俺は机に突っ伏して思案した。

 あの女神が言ったことを鑑みれば、この修学旅行に好機が転がっているのは間違いないだろう。しかし、修学旅行で好機といえるべき出来事があっただろうか。やっぱり憶えていない。

 修学旅行は三泊四日で沖縄へ行くことになっている。それだけの時間、沖縄という場所、修学旅行ということを踏まえれば、好機はいくつでも転がっていそうなものだが、何が好機なのか分からない以上、それを掴み取れるかどうかも分からない。

 思えば、前の俺は修学旅行をあんまり楽しまなかったから、そもそも好機を見落としていたのかもしれない。そう考えると、今の俺はまず修学旅行をなるべく楽しもうとすれば、自ずと好機のほうから姿を現すのではないだろうか。

 そういうわけで、俺は三回目の修学旅行をとりあえず楽しむことに決めた。


                 〇


 翌日、俺はバスに揺られていた。今は学校から羽田空港へと向かっているところである。まだ朝も早いというのはバスの中はやたらと騒がしかった。それほど皆楽しみにしているのだろう。修学旅行なのだから当たり前と言えば当たり前である。

 しかし、俺はそれどころではなかった。楽しもうとするがあまり、昨夜はほとんど眠れなかった。その寝不足のせいでひどい頭痛に襲われて、さらにはひどい車酔いにも襲われていた。バスの中が騒がしいのがその症状をさらに悪化させ、またすぐ隣に早乙女がいるのもその症状をさらに悪化させた。俺は早くも修学旅行を楽しめる気がしなくなった。

 そうして俺がぐったりしていると、隣の早乙女はグミをくちゃくちゃ食いながら言った。


「しっかし、寝不足とはな。おまえは小学生かよ」

「うるさい」

「頭痛は知らんが、車酔いの薬なら誰か持ってるんじゃないか?」

「おまえは持ってないのか」

「俺は車酔いとは無縁だからな。薬なんて持ってきてないぞ」

「……はあ、だろうな。まあいい、車酔いなんてじきに治るだろ」

「吐くのだけはやめろよな」

「安心しろ。吐くときは右を向いて吐くから誰の迷惑にもならん」

「いやそれ、俺にかかってるんだが」

「だからそのつもりだが? 誰の迷惑にもなってないだろう」

                  

 そんな会話をしていると、前に座っていた女子が座席の上からぴょこっと顔を出してきた。


「もしかして車酔いですか? 薬ならありますよ」


 彼女の名前は小豆沢さんという。長く艶やかな黒髪を持ち、まさに容姿端麗といった感じの美人である。成績も優秀であると聞く。基本的に口数が少なく物静かであり、表情もあまり変えないが、だからといって冷淡な性格をしているわけではない。それに喋るときは、しっかりと喋る。しかし、歯に衣着せぬ物言いをするので、美人であっても男子が言い寄ってきているところをあまり見たことがない。なんなら女子と話しているところもあまり見たことがない。孤高な人である。それでも密かに恋心を寄せている男子は多いと早乙女から聞いたことがある。

 そんな彼女が顔の半分だけをぴょこっと出してこちらを見据えているのは、なんとも言えない魅力があった。孤高な彼女から繰り出されるその可愛らしい仕草の魅力たるや、もはや筆舌に尽くしがたいものがあった。いわゆるギャップをいうやつであろう。

 俺が思わず見惚れてしまいそうになったのは言うまでもないが、まずは彼女の問いにきちんと答えなくてはならない。


「……そう、車酔い、ですね」

「そうですか、それは大変ですね。ちょっと待っててください」


 そう言って小豆沢さんは顔を引っ込ませた。しばらくしてまた座席の上から顔の半分だけをぴょこっと出してきた。


「これは酔い止めの薬です。酔ってから飲んでもちゃんと効果がありますから」と言って座席と窓の隙間から手を伸ばしてきた。まるで彫刻のように綺麗で華奢な手のひらには薬が乗っかっている。

 俺はそれを受け取って「あ、ありがとう」と言った。すぐに「どういたしまして」と返ってくる。

 そのとき、「小豆沢さん、もしかして頭痛薬なんてのも持ってたりしますか?」と早乙女が問いかけた。


 こいつはまた余計なことを……。


 俺は「おい、何言ってんだよ、図々しいだろ」と小声で言いながら早乙女を揺さぶった。

 早乙女の言葉に、小豆沢さんはとくに表情を変えることなく俺に向かって訊いてくる。 

「頭痛もするんですか?」

「ええ、まあ、しますけど……」

「しかし、吐き気に頭痛とまでなると、もしや風邪なのではないですか?」

「あ、いや、そんな感じではないと思う」

「そうです。ただの寝不足なんですよ。こいつは昨日、眠れなかったんです。小学生みたいに」と早乙女がまた口を挟んできた。ニヤニヤしながら言っているのが、またなんとも腹立たしい。

「おい、余計なことを言うな」と俺は早乙女を黙らせた。


 すると小豆沢さんはしばし間をおいてから、「そうなんですね」と言った。表情は変わっていないが、それまでより声が柔らかいような感じに聞こえた。

 

「いや、まあ、そうなんですけど、断じて楽しみで眠れなかったとかではないですからね」


 何としてでも、楽しみで眠れなかった小学生と一緒にはされたくはなかった。それは俺の沽券にかかわる。


「ええ、分かってます」

 

 そう彼女は言ったが、どうも信じていないような気がする。


「あ。それで、頭痛薬もあるにはあるんですが、ただ、酔い止めと鎮痛剤を併用すると眠気がひどくなると聞いたことがありますね。どうしますか?」

「眠気がひどいのは元々だし、じゃあありがたく貰っておこうかな……」

「ちょっと待っててください」


 そう言って彼女は頭を引っ込ませた。しばらくして座席の上から顔の半分だけをぴょこっと出してくる。行ったり来たりさせてしまってなんか申し訳なく思ったが、やはり彼女のその仕草はとても魅力的で、見ているだけで癒された。薬がなくとも車酔いと頭痛が治りそうなまであった。


 そうして彼女は「これです。これはよく効きますよ」と言って、座席と窓の隙間から手を伸ばしてきた。その手のひらに薬が乗っかっている。

 それを俺が「ありがとう」と受け取ると、「ではお大事に」と言って彼女は顔を引っ込ませた。

 このときの小豆沢さんは、苦しむ俺に手を差し伸べる天女のようだったと言っても過言ではなかった。



 それから俺は薬を飲んで眠っていた。

 バスに揺られて二時間、羽田空港に着いた。早乙女に無闇に叩き起こされて、限りなく不愉快になったが、起きたときには車酔いも頭痛も小豆沢さんがくれた薬のおかげで治っていた。だがしかし、それにしても眠気が凄まじかった。元々寝不足だったのと、薬の副作用が相まってしまったのだから、無理もない。

 飛行機に乗ると、俺はすぐに眠りについた。

 皆が弁当を食べ、空からの景色を見て喜んでいる中、俺は弁当も食わず、景色にも目をくれず、ずっと爆睡していた。ちなみに俺の弁当は早乙女が無断で食ったらしい。

 沖縄に着いた頃には眠気もだいぶマシにはなっていたが、今度は腹が減ってしかたなかった。

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