第6話
いつも通りの日常を過ごし、毎日部活にも顔を出して、とうとう文化祭の日がやってきた。
現在、俺と早乙女は真面目に皿洗いをやっている。
クラスの出し物である喫茶店は家庭科室で開かれており、結構な客入りがあった。マグカップやら皿やらスプーンやらがどんどん増えていく。手を休める暇がない。
「なあ、さっきから注意深く見ていたんだが、これは結構可愛い子が使ってたものだ」
と早乙女は持っているスプーンを訝しげに見つめながらそう言った。
「……何をする気だ」
「そりゃ決まっているだろ」
まさかと思ったが、そのまさかだった。早乙女はそのスプーンをゆっくりと口に近づけていった。
「おい、馬鹿! やめとけ!」と言って、俺はその手を掴んだ。
「ちょ、離して! 俺は、あの子と間接キスするんだから!」
「自分が何言ってるか分かってんのか、おまえ。流石に度を越えてるぞ!」
「いいでしょ別に。これは洗い物なんだから、いくら汚したって関係ないだろ」
「屁理屈を言うな。少しは人の気持ちを考えろ」
「あ、もしかして、おまえもこれを舐めたいんだな。そういうことだな。しかしダメだ、そうはさせない。これは俺が見つけたものだ!」
「そんなわけないだろ! とにかくやめろって!」
正直なところ、こいつが可愛い子のスプーンを舐めるだなんてズルい、と思っていたのはあった。
そうやって馬鹿らしい攻防を繰り広げているうちに、早乙女の手からスプーンがするりと落ちた。床に落ちたスプーンを見て、「ああ」と早乙女は呻いた。ざまあみやがれ。
そのとき、俺たちが騒いでいるのが聞こえたのか、
「何してるの?」
と姫野さんが顔を出してきた。
姫野さんはウェイターをして働いているが、やたらとひらひらとした服を着ている。それを見て思ったのが、「あれ、ここってメイド喫茶だったっけ?」ということである。つまりは眼福である。その服を用意した人の感謝の気持ちを申し上げたい。客入りが多いのも、女子がそういう格好で接客しているからなのかもしれない。少なくとも、俺だったら即入店は免れない。
彼女は床に落ちたスプーンを拾って、シンクの洗い桶にぽちゃんと入れた。それを見て、早乙女はまた「ああ」と呻いた。どんだけ舐めたかったんだ、こいつ。気持ち悪いな。
「ごめん、なんでもない。気にしないでいいよ」
「そう? 交代まであと一時間くらいだから、頑張ってね」
「あ、ありがとう。姫野さんも頑張って」
「うん。私ももう少しだから、ありがとね」
そう言って姫野さんは軽く手を振りながら戻っていった。
俄然やる気になった俺は皿洗いを再開させたが、早乙女はなかなか皿に手を付けようとしない。
「おい、いつまで落ち込んでんだ。さっさと皿を洗え、あと一時間だぞ」
「へいへい、分かりましたよ」
不貞腐れながらも、早乙女は皿洗いを再開させた。
俺たちが皿洗いをするのは午後一時までとなっている。それからは自由時間となるわけだが、俺にはやるべきことがいくつかあった。まずは軽音楽部で楽器運びの手伝いをして、それから正義の鉄槌を下すための準備をして、そしていよいよ午後三時には軽音楽部の発表がある。今日は文化祭を楽しむ時間はほとんどない。しかし、軽音楽部の発表はある意味ではすごく楽しみである。あの憎き鴨志田先輩に正義の鉄槌が下されるのは楽しみでしょうがない。
「そういやおまえ、アレ、ちゃんと持ってきたんだろうな」
「ん、ああ、もちろんだ。出来るだけ細いのを選んで買ってきた」
「そうか。ならいいが」
やがて一時になって、交代の人たちがやってきた。皿洗いを代わってもらい、俺たちは家庭科室から出た。
俺はこれから楽器運びの手伝いしなくてはならないが、早乙女は文化祭をウロウロしてくると言う。
「あ。じゃあ先にアレ貰っておくよ」
「おう、そうだな。頼むよ」
俺は早乙女から受け取った『釣り糸』をポケットの中に押し込んだ。
〇
機材運びとやらの手伝いをするべく部室に来たのが、なぜだか部室には誰もいなかった。
「あれ? じゃあ俺は何を運べばいいんだ?」と思ってフラフラしていたら、机の上に置き手紙が置いてあるのを見つけた。
見てみると、それには『古市はドラムを頼むわ』と書いてあった。
「は?」と俺は思わず声を漏らした。
部室の隅にあるドラムのところに行って、それに被せられている毛布をとった。姿を現したのはもちろん、ちゃんとしたドラムセットである。
俺は唖然とした。
もう一度、置き手紙を見てみたが、書いてあることは変わらない。『ドラムを頼むわ』と腹が立ってくるような字で書いてある。その字を見ていると、鴨志田先輩のあの憎たらしい笑顔と声が思い浮かんできた。俺は舌打ちをして、置き手紙を思いっ切りくしゃくしゃに丸めて、勢い良くゴミ箱に投げ入れた。怒りがぼこぼこと湧き上がってきて、「ふざけんな!」と叫んだ。
これを一人で全部運べと言うのか。しかも一つ一つが重いうえに、何回かに分けて運ばなくてはならない。もう想像するだけで足に乳酸が溜まってきそうである。断じて一人でやるべきことではない。これは完全に鴨志田先輩による嫌がらせだろう。
しかし、了承してしまったからにはやるしかない。
俺は溜め息をついて、まずスネアドラムを持って、部室から体育館へと向かった。
本当になんで俺が一人でドラムを運ばなくてはならんのだ。東校舎三階から体育館までどれだけの距離があると思っているんだ。馬鹿か。というか、どうせ使わないではないか。馬鹿か。
といったことずっと思いながら、運んでいた。
そうしてスネアドラムを体育館のステージ袖まで運んで、また部室に戻り、今度はフロアタムを運び込む――といったのを何回か繰り返した。とくにバスドラムを一人で運ぶのはあまり苦行だった。馬鹿かと思った。辛いと思うたびに、鴨志田先輩への怒りが募っていったのは言うまでもない。
汗をダラダラ垂らし、ヒイヒイ言いながら、なんとかドラムセットを体育館へと運び終えた。
最後のシンバルをステージ袖に運び終わったとき、そこに鴨志田先輩はいた。
「おう、ご苦労だったな」
と鴨志田先輩は偉そうに言った。「しかし、ちょっと遅かったぞ」
そう文句を言われたときは流石に本気で殴りかかりそうになったが、どうせこいつはもうすぐ正義の鉄槌が下されるのだと思い、なんとかこらえた。
もう午後二時半になっており、軽音楽部のステージまで三十分を切っている。
シレっと軽音楽部の部員として裏方にまわっていた俺は、ステージの準備中、マイクスタンドに取り付けてあるハンドマイクに釣り糸を括り付けた。そしてその釣り糸をなるべく隅を通るようにして体育館左の扉の前まで引っ張ってきた。するとそこに早乙女はいた。
「上手くいったか?」と暢気に訊いてくる。
「ああ。後はこれを思い切り引っ張れば、あのマイクが転げ落ちる」
「ふひひ。楽しみだなあ」
早乙女が思いついた作戦というのはマイクに釣り糸を括り付け、その釣り糸を遠くから引っ張ってマイクを落としてやるという単純明快なものであった。
詳しく言えば、鴨志田先輩がサビのところで気持ちよく歌っているフリをしているときに、遠くのほうから釣り糸を引っ張ってマイクを転げ落とし、鴨志田先輩の口パクが衆目に晒されるという作戦である。
ちなみに、俺がこれをやるのは二回目である。つまりは同じことを前にもやった。
やはり文化祭で軽音楽部がバンド演奏するというのは、人気が高いようで、人がみるみるうちに体育館に集まってきた。
やがて体育館の照明が落とされ、ステージだけに照明がついた。時計を見ると、もう三時になっている。
そしてやかましい音楽とともにまずは他のバンドメンバーが出てきた。バンドメンバーがステージ上に出揃うと、鴨志田先輩はステージ袖から姿を現し、すでにカッコつけて手を挙げながら悠々と歩いている。よくもまあそんな気取っていられるものだ。口パク当て振りでステージに立つことに対して何の罪悪感もないのか。
何も知らない女子たちはキャーキャー騒いでいる。俺たちは黙ってそのときを待った。
そうして軽音楽部によるバンド演奏のフリのステージが始まった。
なにか喋ってから始めるのかと思いきや、いきなり曲が始まった。正確には音源を流し出した。
バンドメンバーはそれぞれ楽器を鳴らすフリをして、鴨志田先輩はギターを弾くフリをしながら歌うフリもしている。
体育館のあちらこちらから「すげー」「歌上手いな」「演奏のレベルも相当だぞ」「カッコいい!」といった称賛の声が聞こえてくる。そりゃ上手いに決まっている。なにしろネットから拾ってきた上手い音源をたれ流しているだけなのだから。強いて言うなら、演奏しているフリは無駄に上手いと思う。
「よし、そろそろだな」と俺は言った。
「おう、いよいよだ」と早乙女は言った。
曲がサビに入った。緊張の瞬間である。俺が今、手に持っているこの釣り糸を引っ張れば、鴨志田先輩に正義の鉄槌が下る。自分が何をやっているか衆目に晒されて、今までの行いをとくと反省するがいい。
これで姫野さんが鴨志田先輩に惚れることもなく、鴨志田先輩は部活からもいなくなり、まともな軽音楽部になって、ゆくゆくは俺が姫野さんとお付き合いすることになり、その当然の結果として童貞を卒業して、満を持して輝かしいバラ色の青春が訪れる。
この釣り糸を引っ張るのは、鴨志田先輩に正義の鉄槌が下ることに等しく、また俺が好機を掴み取ったことに等しいのである。
鴨志田先輩がサビをやたらと体を揺らしながら熱唱しているフリをしているとき、「ここだ!」と思った俺はマイクと繋がっている釣り糸を思いっ切り引っ張った。
すると、まずマイクスタンドが倒れ、それに取り付けられているマイクが外れた。
鴨志田先輩は一瞬「は?」と驚きの表情をして、慌ててマイクを拾い上げようとしたが、そのマイクは逃げるようにして転がっていく。
あれだけカッコつけて歌っていた鴨志田先輩が慌てふためく様子は滑稽だった。
転がっていくマイクを必死に追いかけてながら「違うんだ、違うんだ、これは!」と叫んでいる。ケーブルに足を引っ掛けて転んだりもした。しかし、スピーカーからは無慈悲に音源が流れ続けており、もう口パク当て振りだったってことは誰がどう見てもバレバレである。
当然、体育館内はざわざわとしていた。「口パクだったってこと?」「嘘……」「おい、どういうことだよ」「口パクかよ、ひでえな」といった失望や非難の声が聞こえてくる。
それに対して、まったく弁明の余地がない鴨志田先輩はステージ上で涙目になりながら、「違うんだ! これは!」と叫ぶことしかできないでいた。
それを見ていた俺と早乙女は体育館左の扉のそばで笑い転げた。あまりに滑稽な光景だった。
「ざまあみろ」
「いやあ、これは傑作だな」
と二人して腹を抱えて笑っていた。
間もなくして、軽音楽部のステージは強制終了となった。鴨志田先輩はいつの間にか逃げたらしい。
体育館内はまだざわざわとしているが、俺たちは余韻に浸っていた。
「最高だったな」と早乙女は言った。「スッキリしたし、なによりも面白かった」
「ああ、これで俺は輝かしいバラ色の青春を送れるんだ」
「何言ってんだよ、おまえ」
「こっちの話だ。そういうことになってんだよ」
そんな会話をしつつ、さっきのあまりに滑稽な光景を思い出してまた二人で笑っていた。
そのとき、ふと後ろから誰かに声をかけられた。
「古市君……?」
振り向くと、そこには訝しげな表情を浮かべた姫野さんが立っている。
「あれ? どうしたの姫野さん」
「今の騒ぎ、もしかして古市君がやったの……?」
いきなりそう問われて、俺は唖然とした。いやでも姫野さんも鴨志田先輩のことをよく思ってはいないはずだから、別に言ってもいいことなんじゃ……、しかし何か違和感がある。なぜそんなにも悲しい顔をしているのだろう。
「えっ? 姫野さん、いや、これは違くて……」
俺が言葉に詰まっていると、
「正確には我々二人でやったことですけどね」
と早乙女がなぜだか誇らしげに言った。
「おい、おまえは黙ってろ」
「どういうこと?」と姫野さんは詰め寄ってくる。
「いや、あの、これはだから姫野さんのためで! ほら、普通の軽音楽部がよかったって言ってたでしょ? だから、鴨志田先輩をもう部活に来られなくなるようにしたくて……」
姫野さんは唇を噛みながらしばし俺を見た。そうして言葉を発した。
「だからって、こんなやり方ないよ! それに私、今の部活も楽しいって言ったよね! これじゃ軽音楽部の皆が来なくなっちゃうよ!」
姫野さんはいつもキラキラしている目をさらにキラキラさせている。つまりは涙目であった。
有無を言わさず、姫野さんは続ける。
「もっと優しい人だと思ってた!」
そう強い口調で言い残して、姫野さんは足早に去っていった。
俺は膝から崩れ落ちた。
あれ? なんでだ、これは俺の思っていたことと違う。これではまるで好機を掴み取るどころか、手放したみたいではないか。これから俺は輝かしいバラ色の青春を送れるはずではなかったのか。
「あらあら、これはフラれたな」
そんな早乙女の言葉で、いよいよ俺はどん底に突き落されるような気分を味わった。
〇
それからというもの、姫野さんが俺に話しかけてくることは一切なかった。目も合わせてくれない。俺は完全に嫌われたのである。部活に行く意味も失った。
俺はショックでなかなか立ち直れなかった。
あの女神に会えばなんとかなるかもしれないと思い、街中を探し回ったが、どこにもいなかった。
いつしか、もう何もかもがどうでもよくなった。好機なんてどうせ何をやっても掴めやしないんだと輝かしいバラ色の青春へ道を諦めて、早乙女としょうもない日々を過ごすといういばらの道を選んだ。
そうして、たまにくる好機をみすみす逃し、ただのうのうと日々を費やした。
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