第5話

 次の日、授業中の出来事において特に特筆すべきことはない。いつも通りである。

 強いて言えば、ロングホームルームの時間に文化祭についての議論があった。この高校の文化祭は毎年九月の下旬に行われている。あと一週間とちょっとである。

 議論というのは、このクラスの出し物である喫茶店で誰が何をするかの役割分担を決めていた。俺がどうなるかは分かっていたから適当に聞き流していた。そして思った通り、俺は早乙女と一緒の皿洗いに振り当てられた。

 前の俺は、早乙女の考えた悪事で忙しかったから、この皿洗いをまるっきりすっぽかしてしまっている。それのせいでクラス内での俺の印象が、最悪になったのは言うまでもない。そういうのもあって、姫野さんは俺に話しかけなくなったのかもしれない。なので、今度は真面目に取り組もうと思った。でも早乙女の印象はもっと最悪になってしまえばいい。


 休み時間、早乙女はまたも隣の机の上に尻を乗せていた。そうして人目も憚らず、ケツがどうこうの熱弁を奮っているが、俺はシカトしていた。もう早乙女と一緒になって猥褻談義に花を咲かせるつもりはない。


「そういや、もうすぐ文化祭だな」


 と早乙女は唐突に言った。何があったらケツの話からいきなり文化祭の話に変わるのか。意味不明である。まあでも、猥褻談義じゃないなら、シカトはしなくてもいいだろう。


「それがどうした。俺たちはずっと皿洗いしてるだけだろ」

「いやずっとではねえだろ。交代制だぞ」

「そうだけど、今回は真面目にやるからな。変なこと考えるなよ」


 早乙女は訝しげに俺を見た。


「今回は、ってなんだよ」

「……気にするな」

「まあいいが、ちょっと気になったことがあってよ」


 嫌な予感が頭をよぎった。俺は思わず緊張して「なんだ?」と詰め寄った。


「いやさ、軽音楽部って文化祭は何やるんだろうって思ってな。普通ならステージでバンド演奏でもするんだろうが、おまえらは軽音楽部だけど、楽器禁止で、おしゃべりしかしてないんだろ? じゃあ何を発表するんだ?」

 

 早乙女はそう言って文化祭のパンフレットをだした。「ほらここ、ステージのタイムテーブルに軽音楽部の名前がある」

 

 もちろん、俺は軽音楽部が文化祭で何をやるか知っている。しかし、それが早乙女の理不尽な怒りを買ってしまうことも当然知っている。そうして早乙女はあの悪事を企てたわけであるから、それを阻止するためにも、ここは何も言わないほうがいいだろう。


「そんなの知らん。というか、おまえには関係ないだろ。余計な詮索よせ」と俺が言うと、早乙女は「いやあ、それでも気になるなあ」と首を捻った。


「どうせ当日になったら分かることだろ」

「それもそうだけど……」


 口ではそう言っているが、こいつは気になったことはとことん調べ上げるきらいがある。もうたぶん、手遅れだろうと思った。まあ、俺がその悪事に加担しなければいいだけの話であろう。


 教室での出来事において特筆すべきことはこれくらいで、もう放課後である。

 今日は教室で姫野さんと会話することはなかった。

 

                 〇


 放課後、俺は部室へと向かった。部室の引き戸をちょこっとだけ開けて、中を覗いてみると、姫野さんはすでに来ていて友達と談笑していた。それにしても否が応でも目に入ってくる光り輝く便器のような白い歯を剝き出して笑っている鴨志田先輩が、なんとも鬱陶しい。俺はそんなことを思いつつ、引き戸を静かに開けて部室に入り、昨日と同じ隅のほうの席に座った。

 さて、今日はどうしよう。もっと積極的になるためにも、あの和気あいあいとした中に単騎で突っ込んでみる必要があるのではないか。そうして今度は俺からのほうから姫野さんに話しかけるべきではないか。

 そう思い至った。

 ――よし。

 と、勇気を振り絞って立ち上がろうとしたとき、誰かが隣の椅子を静かに引いた。見ると、そこに座ったのは姫野さんであった。俺は立ち上がるのをやめた。


「や、やあ、今日も来たんだね」


 彼女はそう言ってお茶を手渡してきた。片方の手には自分のお茶も持っている。

 そしてその立ち振る舞いたるや、やっぱり孤立している俺に手を差し伸べる天使のようだったと言っても過言ではない。

 とりあえず俺は「あ、ありがとう」と言って、紙コップを受け取った。

 すると姫野さんは手にしている紙コップに目をやりながら「なんか、ごめんね」と言った。彼女が何のことに対して謝っているのか、さっぱりだった。


「え? なんのことだ?」

「同じクラスなのに、教室じゃ声もかけられなくて」


 俺は彼女の優しさに脱帽した。なんていい子なんだ、なんて優しい子なんだ、なんで姫野さんのような人が、こんなしょうもない部活に所属しなければならなかったのか、と昨日と同じようなことを思った。


「いやいや、そんなことなんとも思ってないし、大丈夫だぞ。謝るようなことじゃない」

「古市君、教室だといつも早乙女君と楽しそうに話しているから、なんか声をかけるのは悪いかなって思ってさ」


 話しかけてこなかったのが、彼女の優しさがゆえのことだったのは分かった。しかしちょっと待ってほしい。俺が早乙女と楽しそうに話してるってのは分からない。そのような憶えはない。


「……俺と早乙女って、そんなふうに見えてるの?」

「え、うん。だっていつも一緒にいるよね」

「そうなのか……。そう見えてしまうのか……」


 俺がうなだれて言うと、姫野さんは「うん」と頷いた。「すごい仲良しだよね」

 これは俺の沽券にかかわる問題である。俺も一緒になってあのような猥褻な話をしていると思われたらもう最悪だと言ってほかにない。そう思われないためにも、ここはきちんと訂正しておかなくてはならない。今の俺が早乙女と楽しそうに話してるなんてことは絶対にないのである。


「……姫野さん、それは勘違いだ。たしかに一緒にいるように見えるかもしれないけど、断じて仲良しではないし、あいつと楽しく話してるってこともない」

「でも、友達じゃないの?」

「いや違う、ただの腐れ縁だ。万が一にも友達ってことはない」


 姫野さんは顎に人差し指を当てながら、しばし訝しげな顔を浮かべていたと思ったら、やがて何かを汲み取ったかのように言った。「分かった。じゃあそういうことにしておこう」そうしてふふっと笑った。

 どういうことなのかさっぱりだったが、彼女が分かったと言うのなら、それでいいのだろうと思った。

 一息ついて、お茶を飲んでいると、

                 

「そういえば、古市君は聞いた? 文化祭の話」 


 と姫野さんは訊いきた。


「え? な、なにそれ、まだ聞いてない」


 姫野さんはどこか楽しそうな調子で言った。


「なんかね、鴨志田先輩たちでバンドやるらしいよ。密かに練習してたみたい」


 当然のごとく先刻承知のことだったが、俺はあたかも今知ったことのように返した。


「へ、へえ、そうなんだ」

「先輩も自分で楽器禁止なんて言っておきながらおかしいよね。ステージでバンドやるのはすごいけどさ」

「そ、そうだね……」


 俺はそう言いながら、鴨志田先輩のほうをチラリと見やった。依然として、便器のような白い歯を剝き出して女子部員たちと楽しげに戯れている。

 それを見て、俺はほとほと呆れた。そして無性に腹が立ってきた。

 密かに練習してたとは……、やっぱり部員たちにすら嘘をついていたのか、鴨志田先輩め。

 鴨志田先輩はバンドの練習なんて一つもしていないのである。それでいて、文化祭のステージでバンド演奏をきっちりとするつもりなのだ。いや、演奏なんてしない。というのも、鴨志田先輩はネットから引っ張ってきた歌が上手い音源を垂れ流し、あたかも自分たちが演奏しているふうに見せるという、すなわち口パク当て振りでステージに立とうとしているのである。

 鴨志田先輩が女子にキャーキャー言われたいがために、口パク当て振りという不正行為を働いてまで文化祭のステージに立つという暴挙に出ることをタイムリープしてきた俺は当然のごとく知っていた。

 このことがのちに早乙女のもとに知れ渡り、彼の理不尽な怒りを買うことになるのだ。そうして早乙女はあの悪事を企て、当時の俺はその悪事に加担したということになる。文化祭のステージでバンド演奏するというのは、言わずと知れた文化祭の花形であり、とくに女子から絶大な人気を勝ち取ることが可能とさせる。つまりはやたらとモテるのだ。それを不正行為してまで勝ち取ろうなんて、許しがたい暴挙である。モテない我々の怒りを買ったのは当然のことであろう。要するに、ただの嫉妬であった。

 ここで今の俺はふと思った。前の俺にはなかったある懸念が生まれたのである。

 このまま誰の邪魔も入ることなく、鴨志田先輩が口パク当て振りによる完璧なステージを披露してしまえば、姫野さんでさえ、あの鴨志田先輩に惚れかねないのではないか、と。現に、「鴨志田先輩がバンドやるらしいよ」と言ったときの彼女は妙にワクワクしているように見えた。

 それは絶対にあってはならない。それだけはどうにかして回避しなくてはならない。そんなことで好機を逃すのは納得がいかない。なによりも鴨志田先輩なんか惚れてしまう姫野さんが可哀そうである。

 しかし、ここで姫野さんに鴨志田先輩は口パク当て振りで云々を言ったところで、信用してくれるわけがないし、むしろ嫌われてしまうだろう。

 やっぱりどうにかして鴨志田先輩のステージを阻止するしかないではないかと思ったが、まだ考える余地はある。出来れば、前と同じような陰湿な悪事に手を染めたくはない。

 

 俺があんまり黙っていたものだから、姫野さんはそれを不思議と思ったらしく、「どうかしたの?」と訊いてきた。


「あ、いや、なんでもない」

「なんかすっごい真剣な顔になってたよ?」

「まあ、ちょっと考え事」

「考え事かあ、悩みでもあるの?」

「そんなとこだけど、大したことないから大丈夫」


 そのとき、鴨志田先輩がこちらにやってきた。


「なんだおまえら、昨日からやけに仲がいいな」と不機嫌そうな顔をして言った。


 それには姫野さんが答える。


「クラスメイトなんですよ」

「そうか、まあいいが」と言って鴨志田先輩は俺のほうに目を向けた。「そうだ、古市」

「……なんですか?」

「文化祭のことなんだが、悪いがちょっと手伝ってくれるか?」

「何をです?」

「ステージに機材を運んでほしいんだ。それにステージの準備とかな。皆、色々と忙しいらしくてな、女子にやらせるわけにもいかないし」


 正直やりたくないが、姫野さんの前で断るわけにもいかないだろう。


「分かりました」と俺は言った。


 すると鴨志田先輩は俺の肩をばしばし叩いた。「じゃ、よろしく頼むな」そう言って、満足げに歩いていった。その後ろ姿に向かって、舌を出してやりたくなったが、姫野さんがいるのでその気持ちはなんとか抑えた。

 鴨志田先輩がいなくなってから、姫野さんは言った。


「私も手伝おうか?」


 俺は彼女の優しさにまたも脱帽した。そして姫野さんのような人が、鴨志田先輩なんかに惚れてしまうのだけはあってはならないと改めて思った。


「いや、いいよ。こういう雑用は俺みたいのがやるもんだから。姫野さんは文化祭を楽しんで」

「あ、ありがとう。じゃあそうするよ」


 そう言った姫野さんは、ほのかに顔を赤くしているようにも見えたが、それはきっと射し込んできた夕陽が彼女の顔を照らしているからであろう。またしても紛らわしい夕陽め。


 それからは他愛もない会話をして、今日の部活は終わった。

 帰り際、鴨志田先輩が大きな声で「さて、今日も練習だあ」と言っている姿は、俺の苛立ちに拍車をかけまくったのは言うまでもない。


                 〇


 次の日、休み時間に早乙女は言った。


「おい、文化祭の軽音楽部について調べていたんだが、驚くべき事実が発覚した」


 いくらなんでも調べ上げるの早すぎだろと思いつつ、俺は黙って耳を傾けた。


「なんでも鴨志田先輩のバンドは口パク当て振りで文化祭のステージに立つらしいぞ!」


 そう言って早乙女は俺の机に身を乗り出した。

 前の時もそうだったが、早乙女はいったいどこからその情報を仕入れてきたのかが甚だ疑問である。そして不気味である。

 もうしらばっくれる意味もないので、俺は「ああ、知っている」と言った。

 すると早乙女は怒りのままに喋りだした。


「鴨志田の奴は歌もすごく下手で、楽器だって何一つ弾けやしないのに、口パク当て振りで堂々とカッコつけてステージに立つんだぞ。それで女子にキャーキャー言われるのは納得がいかなくないか? な? めちゃくちゃ腹立たしいことだろ。俺はゆるせん」


 ああ、そうだ。たしか前にもまったく同じことを言ってた気がする。


「おまえはこれをどう思うんだ!? 俺はどうにかしてそのステージを台無しにしてやりたいと思うのだが」


 それをやったら前と同じになってしまう。アレは単なる嫉妬による陰湿な悪事に過ぎなかったし、前と同じことをやったらせっかくの今ある好機も掴み取ることが出来なくなる気がしてならない。

 あくまで俺としては、姫野さんが鴨志田先輩の口パクを知って幻滅してくれればいいだけなのだ。そうして姫野さんが万が一にもあんなろくでもない男に惚れることがないようにすればいいだけで、なにもステージそのものを台無しにするようなことはしなくてもいいのである。


「いや、たしかに納得はいかない。でも台無しにするとまでいかなくてもいいんじゃないか?」

 

 俺がそう言うと、早乙女は怒りを露わにして叫んだ。

 

「軽音楽部でただ一人ギターを弾けるおまえは悔しくないのか!」

 

 その言葉は俺の胸に深く突き刺さった。当時の俺もこれとまったく同じことを言われて早乙女の考えに加担することを決意したのを思い出した。

 俺はしばし思案した。

 いや待て、そうか。ステージを台無しするのは、鴨志田先輩をどん底に突き落とすことだけじゃなく、ついで鴨志田先輩を軽音楽部から引きずり降ろせることも出来るではないか。

 姫野さんは普通の軽音楽部としての活動がしたかったらしいし、鴨志田先輩がいなくなるのは彼女にとっても悪い話ではないだろう。まさに一石二鳥。姫野さんが鴨志田先輩なんかに惚れることもなく、鴨志田先輩がいなくなった軽音楽部は普通の部活となるのだ。そしてそこからの俺は輝かしいバラ色の青春を送ることになるから、これはもはや一石三鳥ではないか。ならば、早乙女の考えに加担しない理由がない。

 そもそも、悪はどっちだと言えば、明らかに鴨志田先輩のほうである。口パクなんてまだマシなほうで、あの男は部活においてちっぽけな権力を振りかざして女子部員に猥褻な悪事を繰り返し行っているではないか。どう考えても軽音楽部から引きずり降ろすべきであり、懲らしめるべきなのである。


「……分かった。おまえの考えに乗ろう」と俺は言った。


 前はただただ鴨志田先輩に嫉妬したからの行動であったが、今回は違う。

 そう、すべては姫野さんのためである。そして、好機を掴まんとする俺のためでもある。そして、我々の行動は、正義の鉄槌を下すためなのであって、陰湿な悪事などではない! 俺はやる気に燃えた。

 

 早乙女は嬉しそうに言った。「よし。じゃあまずどうやって台無しにするか、だな」

「なんだ、考えがあるわけじゃないのか」

「忙しかったからな」


 そうして早乙女は首を捻った。

 俺はこれから早乙女がどんな悪事、いや、正義の鉄槌を下す方法を思いつくのか知っているが、敢えて何も言わなかった。もしかしたら今回は違うことを思いつくかもしれない。こいつは悪事を企てることも無闇にうまかった。

 あまりにも黙って考えているので、暇だし、たまに口を挟んでみる。


「アレは口パクだとビラでも配って噂を広めるのはどうだろうか」


 と俺が言うと、すぐに否定的な意見が返ってくる。


「それだと信じてもらえない可能性があるし、あっちが言いがかりだと主張するだけだろ」

「そうか、それもそうだな」


 またしばしの沈黙があった後、

 

「それにどうせなら、見てて面白いほうがいい」


 と早乙女はニンマリ笑った。「いい作戦を思いついちゃった」


 こいつは悪友でもなく、悪霊でもなく、悪魔なのではないかと思うほどの不気味な笑みだった。

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