第2話

 教室内はざわざわとしていた。自分の席から離れて出回っている生徒が多い。ちょうど休み時間だった。

 いつの間にか席に座っていた俺はハッとした。周りをきょろきょろ見回して「おお、マジか……」と呟いた。

 これは間違いなくタイムリープである。

 気がついたら道端から教室にいるし、私服から制服になっているし、夕方から昼間になっている。

 黒板には九月二十日と書いてあった。そしてクラスメイトの顔ぶれからするに、今は俺が一年生の時だということが分かった。

 俺はあの自称女神の力によって、高校一年生の九月にタイムリープしたのである。

 本当に過去に戻れるとは、そして本当にアレが女神だったとは、しばし混乱していたが、頭の整理が追いつくにつれて、まずは嬉しさがこみ上げてきた。これで何一つとして青春といえるべき経験がなかった高校生活がやり直せるのだ。俺はこれから訪れる好機をことごとく掴み取り、そして麗しの彼女も掴み取り、そしてその当然の結果として童貞も卒業できる。まさにリア充である。この先に待っているのは輝かしいバラ色の青春へと続く一本道にほかならない。

 俺がそういったことを思っていると、


「どうしたんだ、おまえ?」


 横から声をかけられた。「急にきょろきょろしだして」

 その声の主は、俺の友人にして悪友にして悪霊である早乙女であった。見ると早乙女は隣の机の上に腰掛けている。よくもまあ人の席に、それも机の上に遠慮なく尻を乗せられるものだ。人の気持ちが分からんやつめ。隣の席の人が可哀そうだと思ったし、早乙女の尻を押しつけられている机も可哀そうだと思った。


「かと思えば、嬉しそうにニヤニヤしやがって。気持ち悪いな」

「……何でもねえよ、ほっとけ」


 俺が早乙女と友人になったのは、一年生の五月頃である。今はもうとっくに友人になった後だ。出来れば早乙女と友人になる前に戻りたかったところもあるが、それはワガママというやつである。過去に戻れただけで充分であろう。これからはなるべく早乙女と関わらないようにすればいいだけの話でもある。


「でもさすがに今のは気持ち悪かったぞ」

「おまえにだけは言われたくない。おまえはいつ見ても気持ち悪い」

「ひどいなあ、それを言うならお互い様だろ?」と早乙女はへらへら笑う。

「一緒にするな」


 そう言って俺がにらみつけてやると、早乙女は体をくねくねさせながら言った。


「きゃっ、そんなに睨まれると顔が赤くなっちゃう」

「……はあ、そういうとこだぞ」

「あれ? なんだよ、今日はノリが悪いじゃんかよ。おまえがノッてくれなきゃ俺がおかしなやつみたいになっちまうだろうが」

「いや何も間違っていないぞ、それ」


 俺は溜め息をついた。こんな奴とこんなやり取りばかりしてきたんだから、輝かしいバラ色の青春なんて送れるわけがないと改めて思った。こうやって早乙女と馬鹿やっているうちに積極性を失い、待てば来るを妄信するようになり、せっかく到来した好機をことごとく逃して、後悔する羽目になったのではないか。

 過去の失敗からきちんと学ばなくてはならない。

 同じ未来を辿ることにならないためにも、まずは早乙女との縁をどうにかして断ち切りたいと切実に思ったが、一度友人になってしまった縁はなかなか断ち切れるものではない。とくに、俺に憑りついた悪霊とほぼ同義の早乙女であったら尚更そうだ。こっちから一方的に縁を断ち切ろうとしたところで、早乙女はしつこくその縁を結びなおしてくるだろう。それくらいにタチが悪い男である。


                 〇

 

 授業中、俺は思案を巡らせていた。

 タイムリープしたのはいいが、何か行動しなくては意味がない。バラ色の青春へと続く道に立っているには違いないが、そこから歩き出さねば意味がない。

 とりあえず早乙女となるべく関わらないようにするは決定事項としたが、これから訪れる好機をどのようにして確実に掴み取るかが一番の問題なのである。常々思っていた「あのとき、ああしていれば……」なんて考えは結局は漠然としたただの憶測であり、実際にそれを実行したところで上手くいくわけがない。掴み取ろうとした好機がウナギのように手からするすると逃げていかないように、もっと具体的にどうするかを考えなくてはならないのだ。

 とはいえ、これから何が起こるかはだいたい分かっているのだから、当時の俺とは違った選択をとり、細心の注意を払い、それでいて積極的になれれば、とりあえずは大丈夫な気もする。迫る好機に備えて、気を引き締め、女子との会話のシミュレーションを脳内で何度も繰り返しておけばなんとかなるだろう。


 色々なことを考えていたから、当然、授業の内容なんてこれっぽっちも頭に入っていない。どうせ一度やったことだから大丈夫――とかではなく、どうせ前も分からんかったから今も分からんだろうというじつに頭の悪い理由で授業を聞き流すことに決めたのである。

 いや待て。

 このタイムリープによってなかば副産物的に成績を上げることだって出来るのではないだろうか。そうすれば、あそこまで受験勉強に苦しむことだってなくなるだろう。――あ、でもそのときには傍らに彼女がいるはずだから、むしろ楽しいまであるのか。

 そう思って、結局、勉強はどうでもいいという結論に至った。俺が歩きたいのは輝かしい青春の道であって、学問の道ではない。足つぼマットが彼方まで敷かれているような学問の道は早々に踏み外してもよい。ただただ苦痛を味わい続けるだけである。


                〇


 ふと、あの女神は俺を好機が訪れる前あたりに送ってやる的なことを言っていたのを思い出した。つまり俺にもうすぐ好機が訪れるというわけとなるが――改めて思い返してみるに、たしかにこの頃、彼女が出来そうな好機といえるべき出来事があったのだ。


 放課後のことである。人目も憚らずおっぱいがどうこうの熱弁を奮っている早乙女をシカトしながら、俺が帰り支度をしていると、一人の女子がぱたぱたと駆け寄ってきた。


「あのさ、古市君。今日も部活には来ないの?」


 話しかけてきた彼女は軽音楽部に所属している姫野さんである。肩くらいまで伸びている明るい茶色の髪が小気味よく揺れている。こちらを捉える目はまん丸で、宝石のようにキラキラとしていた。彼女は男子の間でも「可愛い」と評判が高く、密かに恋心を寄せている人も多いと早乙女から聞いたことがある。

 俺は彼女――姫野さんの顔を見るなり「これだ!」と思った。早くも好機到来である。

 この頃、俺は姫野さんによく話しかけてられていた。内容は彼女がいま言った通りのことで、やけに俺を部活に来させようとしてくるのである。その言いぶりたるや、まるで「俺と一緒に部活に行きたい」という気持ちが見え隠れしているよう感じであった。このことが「あれ? もしかしてこの子は俺に好意を抱いているんじゃ……」と俺が思ってしまった出来事の一つである。まさしく彼女が出来そうな好機といえるだろう。

 しかし、当時の俺はそう思いながらもあの部活に行くことだけは嫌だったので、「行けたら行く」的なことを言って誤魔化し続け、悩んだけれども、いつになっても行こうとはしなかった。それどころか早乙女から持ち掛けられたある悪事が、とても魅力的なものであったから、悩んだけれども、結局それには加担してしまい、部長もろとも軽音楽部を潰す寸前まで追い込んだのである。

 そんなことをしていたら、いつの間にか姫野さんが俺に話しかけてくることはなくなったのだ。かくして当時の俺は好機を逃した。

 あのとき、姫野さんと一緒に部活に行っていれば、それは輝かしいバラ色の青春への道を歩き出したことに等しく、そしてゆくゆくは姫野さんとお付き合いすることになり、そしてその当然の結果として童貞を卒業していただろう。リア充の俺がそこにはいたはずなのである。

 そう思うにつけ、タイムリープしてまさしく「あのとき」に立っている今の俺が、やることと言えば、一つしかない。

 姫野さんの誘いに乗って部活に行けばいいのである。

 

 そうして俺がその旨を伝えようと息を整えていたところで、


「こいつはもう部活にはいかないですよ」


 と早乙女が言った。「だって『あんな部活はおかしい、二度と行くか』とか言ってましたから」


 おいこら。てめえ何言ってやがる。いや、たしかにそんなことを言った記憶はあるけれど、なぜおまえが口を挟んでくるのか。姫野さんは俺に問いかけたのであって、おまえが口を出す権利はない。

 腹立たしいも極致といったところで危うく早乙女の胸ぐらを掴みかかりそうになったが、なんとか抑えた。俺は冷静に、そして論理的に考えた。姫野さんの前にしてそんなことをしてはダメだ。今、掴むべきなのは早乙女の胸ぐらではなく、目の前にある好機ではないか、と。

 

 姫野さんはまん丸な目をぱちくりと瞬かせてから、「あ、そうなんですね。残念です」と苦笑いを浮かべて言った。

 そこで俺は慌てて否定した。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は言ってない。俺はそんなこと言ってないからね、姫野さん」

「言ってただろ」

「おまえは黙っていろ!」


 早乙女を黙らせ、気を取り直してまた姫野さんに目を向けた。

 すると姫野さんは小首を傾げて「えーと、どっちなの?」と訊いてくる。

 姫野さんのような女子が、困惑気味な表情を浮かべて小首を傾げる仕草をしたときの魅力たるや、凄まじいものがある。俺含め、男子の恋心が揺さぶられるのは当然のことであろう。それを分かったうえで、見せつけるようにその仕草をするいわゆる「あざとい女子」もいるらしいが、姫野さんの場合はそうではなく、あざとさのカケラも感じさせない純然たるごく自然な仕草なのである。そして、ごく自然なその仕草からくる魅力たるや、もはや筆舌に尽くしがたいものがあった。

 俺が姫野さんのその仕草にドキッとした挙句、見惚れてしまいそうになったのは言うまでもないが、まずは彼女の問いにきちんと答えなくてはならない。


「い、いやだからそんなことは言ってないし、それに部活にはちゃんと行くから」


 と俺は答えた。

 すると姫野さんは少しだけ身を乗り出して訊いてくる。


「そうなの? いつ?」


 俺は姫野さんが少しだけ身を乗り出してきた分、少しだけ後ろにのけぞりながら答えた。


「そ、そう、これから。まあ、たまには行ってみようかなって」


 それを聞いた姫野さんは顔を少しほころばせたようにも見えた。


「あっ、そうだったんだ。なんだ、それはよかった。やっと部活に来てくれるんだね。……じゃ、じゃあさ」


 一緒に行こうよ、とでも言われるのかと思った。そしたら俺は「もちろん」と即答するつもりであったが、姫野さんは言葉に詰まっていてなかなかその先を言わない。

 やがて、はにかむような表情を浮かべて、


「部室で待ってるから」


 と言った。

 俺は、ほのかに期待していた言葉があまりに自意識過剰だったことを反省しながら、「お、おう」と返した。

 

「……じゃあ先行くね。また部室で」


 そう言って姫野さんは自分の席へと戻っていき、そこに置いてあった鞄を手に取り、髪の毛を小気味よく揺らしながらぱたぱたと教室から出ていってしまった。


 ちなみに、「それなら一緒に」とこっちから声をかけられるような勇気は、今の俺にもなかった。

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