第3話

「軽音楽部にはもう行かねえんじゃなかったのか。なんでまた急に行く気になったんだよ。わざわざ孤立しに行くのか?」


 教室から出て、部室へと向かう途中、早乙女がそんなことを訊いてきた。


「どうでもいいだろ」

「というかおまえ、まだ退部してなかったんだな。あんなにクソクソ言ってたのによ」


 俺が九月に至るまで退部届を出さなかったのは、今の部長――鴨志田先輩が卒業したら今の現状も変わるかもしれないと僅かながら思っていたからである。まともな次期部長が就任して、まともな軽音楽部となったとき、楽器を触ったことすらない部員たちが手こずっている最中に、ギターを持った俺がさながらヒーローのごとく登場すれば、チヤホヤされること間違いなしと密かに目論んでいたのだ。そのために俺は家でギターを練習して、この頃には弾けるようになっていたのである。準備は万端であった。

 しかしあるとき、早乙女と俺が実行したあることによって、鴨志田先輩もろとも軽音楽部を潰す寸前まで追い込んでしまったのだから、もう部活なんてどうでもよくなった。それはそれで愉快なことではあったが、一つの好機を逃したことにもなった。やがて退部届を提出した。思えば、鴨志田先輩がいなくなって潰れかけた軽音楽部にギターを持った俺がさながらヒーローのごとく登場していれば、ワンチャンスあったのかもしれない。

 とはいえ、次期部長にも、部活動として唾棄すべきその意思はしっかりと受け継がれ、再建した軽音楽部の活動内容もなんら変わっていなかったらしいから、当時の俺であったらどうせまた孤立していたかもしれない。


「おまえには関係ない」

「あっ、そうか! おまえ、まさか姫野さんに惚れたな」

 

 早乙女は首をゆっくりと横に振りながら言った。「いやー、やめとけやめとけ。おまえにはハードルが高すぎる。どうせ無駄に傷つくだけだぞ」


「うるさいな、ついてくるなよ」

「心配してやってるんだぞ。なんなら応援してやらんこともない」

「そんなもんいらん。だいたい、俺は姫野さんのことが好きになったわけじゃないからな。勝手に決めるなよ」

「なんだ違うのか。面白いと思ったのに」

「なにが面白いんだよ」

「いやさ、どうせなら俺が恋のキューピットになってやろと思って。友達として当然のことだろ?」


 俺は溜め息をついた。

 なんだかんだで三年間もずるずると一緒にいたのだから、今のこいつが何を考えているかなんてのは容易に想像が出来た。


「……違うな。どうせおまえのことだから、キューピットとか言いつつ結局のところ邪魔しかしないつもりだったろ。そうやって俺がフラれるまでの過程を面白がって、フラれた暁には大笑いするに違いない」

「おお、流石だな」と言って早乙女は笑った。「やっぱりよく分かっているなあ、これこそまさに友達ってやつだ」

「そんなことを企てる友達がいてたまるか」


 早乙女はまた体をくねくねさせながら、やけに高い声で言った。


「だってワタシ、妬いちゃうんだもの」

「だから、そういうのはもう気持ち悪いからやめてくれ」


 以前の俺は、このような吐き気を催すようなやり取りにも普通に応じていたのだと思うとゾッとする。


「なんだよ、ほんと今日はやけにノリ悪いよな、おまえ。なんか様子もいつもと違うしよ。あとな、俺だって言ってて気持ち悪いんだからな」

「じゃあ言うなよ。どこまで馬鹿なんだ」

「いや、成績は俺のほうが上だが」

「馬鹿に成績とか関係ないだろ。馬鹿は馬鹿だ」


 早乙女はいやらしくも成績が優秀であった。悪事と猥褻なことばかり考えているくせに、なぜだが勉強もできる奴なのである。最初はカンニングとかの不正行為をしているに違いないと思っていたが、最後までその証拠を押さえること出来なかったので真偽は不明とするしかない。しかしやっぱりアヤシイ。一方で俺の成績はというと、常に最下位争いのデットヒートを繰り返し、のちに受験勉強という地獄を味わうことになったのは言うまでもない。

 早乙女は「まあ、そういうことにしておいてやるか」と呆れたふうに言った。

 このようなやり取りも、もう何百回としてきたはずなのに、いまだ腹立たしく思えるのはきっと早乙女の才能というべきものである。こいつは人を腹立たせるのも無闇にうまかった。本当にどうしようもない人間である。


 いつの間にか東校舎二階の階段前まで来ていた。この階段を上がった先に軽音楽部の部室はある。


「――で、おまえ、いつまでついてくるんだよ」

「なんなら一緒に行ってやってもいいんだぜ」

「来なくていい」

「わりかし興味はあるんだけどなあ。軽音楽部なのに楽器禁止で、和気あいあいとおしゃべりしてるんだろ?」

「ダメだ。おまえは絶対に来るな」と俺は釘を刺した。こいつがいたら、せっかく到来した好機も台無しとなってしまうに決まっている。

「なんだよ。分かったよ、それじゃあな」と言って早乙女は階段を下っていった。

 俺は安堵の息を吐いて、階段を上っていった。


                 〇


 東校舎三階にある空き教室が軽音楽部の部室となっている。階段を上がっていくと、ガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。軽音楽部なのに楽器の音は一切聞こえてこない。

 部室の引き戸の前まで来て、立ち止まる。一度、深呼吸をして、引き戸をちょこっとだけ開けて中を覗いてみた。

 部室では男女が入り混じって仲睦まじく談笑していた。

 相変わらず楽器を触っている部員は誰一人としていない。というか楽器を持って来ている部員がまず誰一人としていないのだ。この部室にある楽器と言えば隅のほうに追いやられて毛布を被らされたドラムだけである。

 こんな部活でも十数人の部員を擁しているので、いくつかの仲良しグループが自然と出来上がっているが、極端に固まっているわけではなく、皆、中央のほうに集まってそれぞれ会話を楽しんでいる。とくにその中心に君臨している部長の鴨志田先輩は白い歯を光らせながら楽しげに女子たちと喋り続けていた。とてもじゃないが、入っていきづらい雰囲気である。

 そして、鴨志田先輩のその憎たらしい笑顔を見て、色々と思い起こされるものがあり、俺はなんだか無性に腹が立ってきた。

 そもそも、軽音楽部がまともな部活であったなら、こんなことにはなっていない。俺が部活で孤立することもなく、一緒に音楽を楽しむ友達がたくさん出来て、そのうち彼女も出来て、その当然の結果として童貞も卒業できていたに違いない。未来の俺が後悔して枕を濡らすこともなく、未来の俺がこうしてタイムリープしてくることもなかったはずなのである。

 訊くところによると、軽音楽部をこのような唾棄すべき活動内容の部活に仕立て上げたのは鴨志田先輩だという。部長という立場をいいことにそのちっぽけな権力を振りかざして、軽音楽部なのにもかかわらず「楽器禁止」という意味不明な方針を掲げて、彼の独裁体制が敷かれたうえで、今のようなただただ楽しくおしゃべりするという、しょうもない部活が出来上がったのである。それは果たして部活である意味があるのか。いや、ないに決まっている。少なくとも軽音楽部と名乗るべきではない。

 なにゆえ、彼のようなろくでもない人間が、あろうことか他の部員たちに尊敬されて、女子にチヤホヤされているのか。いまだに理解できないし、許しがたいし、なにより腹が立つ。そこそこ男前であるのがまた俺の苛立ちに拍車をかけた。

 しかし、今の俺はそれらすべてを甘んじて受け入れなくてはならない。この引き戸の先にある好機を逃すわけにはいかないのである。前と俺とはそこが違う。すべてを甘んじて受け入れて、積極的にこのしょうもない部活に取り組めば、その報いとして好機を掴み取ることが出来るだろう。そうしてゆくゆくは姫野さんとお付き合いすることになり、そしてその当然の結果として童貞を卒業できるというわけであり、前とは違ったリア充の俺が誕生するわけなのである。


 ノックをするか否か、少し悩んだけれでも、一応まだ俺は部員となっているはずなので、その必要はないだろうと思った。

 そうして俺は引き戸を静かに開けて、部室に入った。


 部員たちはみんな楽しく会話をしているから、俺が入ってきても誰も気づかなかった。――と、思いきや、姫野さんだけが俺に気づいて、ほのかに笑みを浮かべて小さく手を振っていた。それに対してどう返せばいいか戸惑っていたら、姫野さんは友達に話しかけられてそっちのほうを向いてしまった。いきなり出だしでつまずいてしまった。これでは俺が無視をしたと思われてもしかたない。そうやって早くも反省しながら、とぼとぼと歩みを進めた。

 まあ、部長の鴨志田先輩には挨拶をしておいたほうがいいだろう。


「あの部長、お久しぶりです。古市です」

 

 俺がそう言うと、鴨志田先輩は「なんだ、古市か。久しぶりだな」と一瞥をくれただけで、また他の部員たちに目を向けて楽しげに会話を再開した。


「誰です?」

「幽霊部員というやつだ。なんで今更になって来たのかは知らんが」


 そんな会話を耳にしながら、俺は部室の隅のほうの席に座った。

 さて、ここからどうするか。流石にあの和気あいあいとした中に単騎で突っ込んでいけるほどの勇気はない。積極的にいかないとダメなのは分かっているが、アレは無理である。話しかけようにも共通の話題がない。流行りのバンドや洋楽はあまり知らない。アニソンならまだ分かるが、たぶんそれを話し出しても引かれるだけである。あと、ギターの話も出来るが、この軽音楽部で楽器に興味がある部員はいないだろう。それはそれでおかしいと思う。

 とりあえず、今は様子をうかがっていよう……。


 結局、俺は暇を持て余して、鴨志田先輩がおそらく後輩の女子と会話しているのを何気なしに見ていた。


「あー、あのバンドね、今すごいよな。この前の新譜もよかったし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで人気も高まってきてるもんなあ」

「そうなんですよ、だからライブのチケットが全然とれなくて……」


 そのとき、鴨志田先輩の口角が少し上がった。


「あー、やっぱりそうなのか。でも俺さ、偶然にもそのライブのチケットとれたんだよな。それで一枚余っているんだが、なんなら俺と一緒に行くか?」

「えっ、いいんですか! 行きたいです!」

「よし、じゃあ行こう。あと遠いから一泊することになるが、大丈夫か?」

「もちろん、大丈夫です!」


 ――と、そんな会話をしていた。

 鴨志田先輩がニヤリと笑ったのを見て分かったが、あの男が何か邪な考えをしているのは明らかである。おそらく、鴨志田先輩にとってそのチケットはライブを見るためのものではなくて、女子と一緒に出かけるためのチケットなのであろう。つまりはライブのチケットを餌にして後輩の女子を釣ったのである。なんて卑劣な手口であろうか。それも一泊するときたもんだ。どうせなんやかんやとこじつけて、ラブホテルに泊まることにして、あとは流れで云々かんぬん……とでも猥褻な計画を企んでいるに違いない。卑劣極まりない許されざる計画である。もはや詐欺であり、強姦未遂であり、あるいは強制猥褻未遂である。そんな鴨志田先輩が浮かべている笑顔は「ぐへへ、釣れた、釣れた」と言わんばかりの性欲丸出しの笑顔にしか見えなかった。

 俺は憤りを感じた。

 鴨志田先輩がこの部活に独裁体制を敷いたうえで、意味不明な変革をしたのは、すべて己の私利私欲のためであり、また己の欲求不満を満たすためだったということが明確になったのだ。

 きっと鴨志田先輩はああやって音楽好きな女子をたぶらかしては、猥褻な計画を企てて、それを実行してきたのである。彼は音楽が好きなのではなく、音楽好きな女子が好きなのであろう。つまりはただの女好きである。

 しかし、そんな鴨志田先輩をここの女子たちはなぜだか尊敬しており、また彼自身がそこそこイケメンでもあるから、誘われた女子はその猥褻な計画にもまんざらでもなく受けて入れてしまう。そうして鴨志田先輩の卑劣極まりない許されざる計画はお互いの合意をもってして合法化されるのだ。そう考えると余計に腹が立ってきた。許すまじ。

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