バルビタアル

安良巻祐介

 

 生成り色の壁に心ずく凭れて、久しぶりに静かな夜が来る、そんな気がした。

 午前零時、私は四角い部屋から窓を眺めていた。

 外の闇に光が点々としている。いくつかはぼんやりと窓硝子に滲み、いくつかは振り切るように小さく飛んでいく。山へ向かう車の灯りだろう。こんな遅い時間に、何を求めて行くのだろうか。

 耳の中で睡魔が息をしていた。その音は虫の、翅を休めるのに似ていた。山へと飛んでいく光を追う目は、とろとろと柔らかく落ちかかる瞼に、しばしば視界を遮られた。

 力を抜いて、重たい体を背に預けながら、どこかの波打ち際にうずくまる自分自身を幻視する。

 気だるげに時を刻む時計と、それよりかすかな心臓の音だけがうつろな部屋の底に響き、肉体の輪郭がどうにも、ひどく曖昧である。

 外からは何の音も聞こえてこない。

 車の光はただ一心に、山へと向かって次々窓を滑って行く。それは心細げなホタルを思わせた。

 ホタル。ホタルは人のかなしみだ。死んだ祖母がよくそう言っていた。

 思いを残した人のかなしみが、隙間だらけの胸から抜けて、色も顔もなくなって、温度のない光を灯すのだと、寝床で昔語りをしながら、祖母はそう教えてくれた。

 ホタルなど私は見たこともなかった。今も見たことはない。ただ、祖母の言葉だけが、頭の片すみに残るともなく残っていて、小さな寂しげな光を見ると、その言葉が脳裏に浮かんでくるのだ。

 塗り潰すような夜闇の中を、誰でもなくなった光が何匹も、山へ向かって飛んで行こうとしている。……

 私は欠伸を一つした。

 窓の風景が少しばかり涙で滲んで――その時、部屋の中でも小さな光がチラチラまたたいたような気がした。

 紫色の玻璃の瓶が、傍らで蛍光灯を反射しているのだった。

 ふうと息をついて、重たい口端を上げて、誰にともなく笑ってみせながら――胸の内で、私は、小瓶にラベルされた名前を呟いていた。

 古いエチオピヤの王か、或いはある種の悪魔じみた、その名前。

 翼を広げた遺物、

 忘れ去られた小さな岸辺よ。

 私の事もホタルにしてくれるだろうか。正体のない、寂しいただの光へと。

 何かがだらりと垂れ下がるのを、柔らかく冷えた頭のどこかで感じた。栓の外れた小瓶の口から、ほたほたと何かが零れている。

 ふいに、時計の音が止んで、温かな寒気が足元からゆっくりと体を伝わって這い上がってきた。

 生成り色の壁に心ずく凭れて、本当に久しぶりの、静かな夜が来る気がした。

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バルビタアル 安良巻祐介 @aramaki88

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