何故か分かりませんが、脳内が短編アニメ映画になっています。
このシーン。ヴァイオリンを奏でているシーン。
音が世界に広がるシーンが、アニメーションとなって『視え』ました。
何の曲を弾いているかなんて分からないのに。
他人の価値なんてどうでもいい。あるがままの自分を解放している感覚が『視え』ました。
それなのに、その貴重な時ももう少しで終わる。
私だったら失いたくないし、終わりたくないけれど。でも、回避できないと言うことも分かっていて、きっとこの主人公のように、悲しいと思うことが悲しいと思っているのだろうなと思わずにはいられませんでした。
作者からの返信
わあ、なんて嬉しい言葉…ありがとうございます……!
なんでわかっちゃったんですか! 実は、頭のなかに浮かぶ映像を観ながら書いたんです。作者が想像していた映像を読者さまに共有していただけるだなんて、ほんとうに作者冥利につきるといいますか、素敵な読者さまに読んでいただけて幸せです…!
そうなんです。聴覚に訴える音楽ではなく、音の精緻な波紋を想像していたので。そのようなところまできめ細かく拾いあげて、感じ取ってくださり、感激です。
現代は、飽食ゆえの飢えとか、人の群のなかにいるからこその孤独とか、一種の矛盾をはらんだ悲しみがつきない気が致します。それは程度の差こそあれ、誰もが感じているものなのかもしれないと考えながらこちらの短編を書いていました。細やかな青春の余白も、間もなく終わりを迎えます。終わりは、あえて静かに。多くを語らずに書かせていただきました。
きれいでした。演奏。
鯨の中に居れば鯨。世界の中に居れば世界。夏の中に居れば夏。場所は変わらずそこにあるけれど、時間は流れていってしまう。
廃墟と言う概念を場所として捉えるか、或いは時間として捉えるか。そう言うことなのかなあと思いました。
作者からの返信
ありがとうございます。
開放弦という言葉を知ったときにいつか、小説のなかに組みいれたいとおもっていました。ヴァイオリンいがいの楽器だと開放弦もひとつのアクセントとして利用されているみたいですね。
廃墟という概念を場所として捉えるか、時間として捉えるか。さすがですね。例えばまた夏が訪れても、彼らの場所は再びにはもどってこないのでしょう、きっと。