瞑想、あるいは制すもの

@over100xyz

閑話


 唐突だが、吉田明という女生徒について語りたいと思う。


彼女は今現在、僕の席からちょうど右に二つ、後ろに二つ離れた席に座っている同じ学校の生徒であり、つまり高校の三年間というちょっとした人生の荒波やイベントを共にするクラスメイトである。もっとも、親しく話したことはないので、実際の机の距離よりも個人的間柄の距離は大いにかけ離れているだろう。

それなのに、今から僕はごく一方的に、極めて恣意的な見方によって彼女を言表そうというのだから、ああよっぽど暇なんだな、とか余程気があるらしい、とかそういうことを感じ取ってもらえれば幸いだ。



 吉田明。名前は明と書いてあかり。

なんだか今にも消えそうな儚い響きを一文字で素っ気なく表す力強さに、僕なんかはご両親の迸るセンスを感じるのだけど、クラスメイトには男女問わず吉田、とこれまた素っ気なく呼ばれている。それは彼女のさっぱりとした立ち振る舞いがそうさせているのかもしれないし、僕を始めとしてこのクラスの人間は物事にさほど頓着しない気風であるのが原因なのかもしれない。


 気風といえば、僕たちの通う高校は小田急線の沿線から少し離れた市街地のさなかにひっそりと立ち、そこそこの成績でも入れると専らの噂の、いたってのどかな校風の私学である。そのためか、生徒も型を押したかのように呑気で真面目なタイプの人間が多く、吉田も例外に漏れず平凡な女子生徒であると言って差し支えないだろう。

彼女の性格は穏やかそのもので問題を起こしたこともなく、孤立することもなく、成績は……詳しくは知らないが中の上といったところだろう。このクラスの担任教師も、彼女の学期終わりの通知書を書き終えるのに恐らく五分もかからないことが想像できる。ああ、大学の推薦書を書くのには二十分以上頭を悩ませるかもしれない。印象に残らないとは、そういうことだ。



 だが、僕は吉田には他のどんな生徒にもない個性があると思っている。

それは、非常に明け透けな物言いになってしまうのだが、僕は吉田の顔が好きなのだ。


 人の顔とは不思議なもので、得てして水面に浮かびあがる泡のように、その人の内面を表す鏡であるというのが僕の持論である。

一般的に美しいと言われる人たちの中でも、なんだか嫌な笑い方をするなあ、と感じたことはないだろうか。どんなに頭のてっぺんから爪先まで美しく整えたとしても、押被せているつもりの欲望や空虚さは数ミリ単位で貌の筋肉を強張らせる。そういった、目鼻立ちの精緻さなどでは捉えきれない何かが人の美醜に宿っている。

その多彩さこそが表情というものなのだろう。


吉田は笑う時に片頬を歪めたり、手で口元を隠したりしない。

何かの情動がふいに彼女のツボを刺激した時、肺の空気を押し戻そうと胸元が浅く上下し、次に肩口にかかった栗色の髪の先が小刻みに震え、やがて張りつめた糸が切れるかのように鮮やかな何かが顔中に弾けるのだ。初めてそれを目にした時は、こんな風に綺麗に笑う人間がこの世に存在するのか、といたく衝撃を受けたものである。


それは彼女の静謐な内面から発生し、一つも汚れ歪められることなくすくすくと駆け上がり浮かぶ表情だからなのだろう。吉田が背中を丸めて堪え切れないといった風に笑っている姿を見るたびに僕は感動する。本当に人間的だ。

そこには筋道の立った規律正しさと、時折ふいに混ざり合う悪戯のような無秩序さがある。


もちろん、これらは僕の主観を通して見た彼女の姿であり、客観的に見て、吉田の容姿や立ち振る舞いが例えば巷で流行するアイドルグループにおいても通用するかと問われると、失礼な話だが首を傾げるかもしれない。しかし、少なくとも我が校の男子生徒の間で美人と持て囃されている生物科の名物女性教師よりも、吉田の方がずっと感じの良い顔をしていると思う。



 僕が吉田に対していいなあと思うことは以上である。

つまり、名前と顔。なんだかものすごく表面的な薄っぺらいことを挙げている気もするが、事実なので仕方がない。第一、ほとんど話したこともない相手について知っていることなどたかが知れるというものだ。

それに、ここまでまあズラズラと飽きもせず美点を並べておいてなんだが、僕は別に吉田に対して恋心を抱いているというわけでもないので、薄っぺらいという指摘があったとしたら、それはきっとその通りなのだろう。


彼女の人の好い笑顔には心が洗われるが、それを近くで見たい、一人占めしたいといった欲望は僕には抱けそうにない。むしろ、もっと多くの人が吉田の良さに気付き、皆で共有するべきなのではないか。そう、吉田明とは起こるべくして起こるブームなのだ。


そんな取るに足らない世迷言のような思考は、突如として降って湧いた声によって打ち破られた。


「秋山くん」

「えっ」

「次の教室、移動なんだけど」

「え、あぁ」

「もしかして、具合悪いとか」

――驚いた。

僕が今まで頭の中でさんざん好きなように観察しあらゆる角度で吟味した、渦中の人物が目の前に立っていた。


吉田、お前は授業が終わっても席を立とうとしないクラスメイトを気遣い、あまつさえわざわざ声をかけてくれたというのか――!

想像以上に優しい子だった。僕の吉田のブームは続いていたのでそんな場違いな感想が咄嗟に浮かんだが、まさかそのまま口に出すわけにもいかず、あぁ、とかうん、とかよく分からないことを幾つか口ごもってしまう。


不思議そうな表情を浮かべた吉田の黒々とした瞳がじっと僕に注視されている。

え、なに、気まずい。

まさかとは思うが、僕の考えていたことが全て筒抜けだったりしないだろうか。思えば随分気持ち悪いことを恥ずかしげもなく脳内でしたり顔で語ってしまったものだ。ついでに失礼なことも言ってしまった気がする。ああ、申し訳ない。アイドルは難しいなんて言ったことは撤回する。近くで見ると全然違うじゃないか。本当に……


「……本当に、大丈夫?」

はっとして我に返り、顔を上げる。


目の前に立っている吉田は、なんだか恥ずかしくなるくらい、まっすぐな目で僕を心配そうに見つめている女の子だった。


僕は思わず背を正し、なるべくはっきりと、体調に問題はないということをきちんと伝えた。伝えられたと思う。彼女は安心したように息をつくと、にわかに慌てたように教材を抱え直し、パタパタと靴音を立てながら戸口の方に駆け寄って行く。

優等生なのに授業に遅刻したら可哀想そうだなあ、とその後ろ姿を眺めながら呑気なことを考えていると、吉田は突然くるりと踵を返し、扉に手をかけて、照れたように顔を覗かせた。


「わたし、保健委員だからっ」


だから気にしないでね、といつものあの感じの良い笑顔を残して、ひらりと手を振って今度こそ軽やかに去っていった。



 やり取りにしておよそ数十秒。

たったそれだけの時間が、束の間の白昼夢のような僕の取るに足らない思考を打ち破り、恐ろしい速度で現実の羞恥と充足感を与えていた。


憧れの女子生徒を解き明かさんとする哲学は、それ以来どうにも気恥ずかしくてさっぱり浮かんでこない。





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