天香国色

藤枝伊織

第1話

 淑成は十五ながらも広く武芸に秀でた才子で、家の者は皆彼に期待し、彼もその期待に報いようと励んでいた。

 翌二月に童試を控えている身であった。志学のこの年に童試を受けられることに彼は運命的なものを感じていた。成は試験に受かる自信があった。その次の県試にも府試や院試にも余裕を感じていた。

 成は朝からずっと中庸を読みながら散歩をしていた。ぶつぶつと声に出しつつ、足を進める。彼にとって景色を楽しむことなど些細なことだった。それならば紙の書と親しんだ方がよっぽど有意義である。家の近くのこの杜は成のいつもの散歩道であった。色付きはじめた落葉樹は様々な色を杜に添えている。母や侍女などはそれが美しいと一枝手折って部屋に飾っていたが成にはその美しさがわからなかった。

 風は爽やかに彼の葛巾をなで、遅れ毛を揺らして行った。木々がさやさやと音を立て秋の到来を告げる。烏皮履(粗末なくつ)は地面の感触を直接成の足の裏に伝えてくる。成の家は貧しいことには貧しいが、侍女を置けるほどの家である。その長子の成に両親はいつも底がしっかりとしている靴(ブーツ)を履くように言っていたが、成は聞き入れず烏皮履を履き続けた。ちょっとした意地である。十歳くらいの頃、近所に住んでいた商人の息子が豪奢な靴を見せつけるように履いていたのが気に入らなかったからだ。その息子は今ではでっぷりと太り靴も特注でないと履けないと聞いた。

 杜の中には道はあるが、それは獣道を成が歩きこんだ結果道と呼べる状態になったようなものだった。決して歩きやすい場所ではない。ときおり尖った石や木の枝を踏み、成は眉をひそめる。

「まだ、集中がたりないのだ。こんな石ころに気をとられるようじゃだめだ」と自分を叱責する。

 ふう、と息を吐いた。木々の合間から見える陽は白く眩しい。秋とはいえ、暑さがまだ残る。集中力が切れた原因は小石だけではなさそうだ。そろそろ気分転換が必要なのかもしれない。

 成は書を閉じ脇に抱え、足早にある場所へ向かった。風景など興味のない成が唯一の美しい場所と考える小高い丘である。その場所は家の者などにも明かしたことはない、彼の秘密の場所であった。丘は家からそう遠くない。場所として丘の存在をもしかしたら彼らは知っているかもしれないが、それでも構わない。自分の中で唯一無二の「秘密の場所」であることが重要なのだ。

 木がまばらになり、辺りが先ほどよりも開け、明るくなる。杜を抜ける。と、そのとき、袍が何者かに引っ張られた。見ると成の腰ほどしかない背丈の木の枝が彼の袍をほつれさせていた。ほつれが広がらないように気を付けながら枝から袍を解放しようと試みた。だが、枝はよほどこの袍が気に入ったのかなかなか取れそうになかった。

「母上が作ってくださった袍が」

 小脇に抱えた書を落とさないように気を付けながらも、成も懸命に挑み、やっとのことで枝から外すことができた、しかし、袍の裾のほつれはかなり大きなものになってしまった。これ以上ほつれないように袍を脱ぎ、ほつれた糸を歯で切った。

 袍を纏い、気をとりなおして丘へと向かう。杜を抜けると、少し傾斜がある。その傾斜を下っていくと平たい場所に、椀を被せたような丘が現れる。

 そこに何があるというわけではない。ただ丘で寝転ぶのが最大の幸福なのだ。またそこから家や杜を見下ろすのも気分がいい。何より、空が美しいのだ。

 丘を登っていく途中、見慣れない花が咲いていた。遠くからでも目立つ紅いそれに成は近付く。大輪の牡丹だった。

「初秋のこの時期に咲くとは珍しい」

 成は牡丹のそばに片膝を付き、牡丹を観察した。繻子のようなすべらかな花弁を幾重にも重ね、水に落とした紅のような淡い色付きが細部にまで広がっている。まさに花中の王の名にふさわしい荘厳さを兼ねそろえている。

「母上が見たら喜ぶだろうな」

 成は自然を愛する母を思い浮かべた。母は美しい人だ。だが牡丹のような艶やかな美しさではなく、野に咲く菫のような人だと成は思っている。

 母を想ったことで自然と口角が上がっていた。気分が良い。母に土産にしたいところだが牡丹を摘んで帰るのは少し恥ずかしい。これほど目立つ花を持って帰ったのでは、母に喜んでもらいたい下心がまるわかりだ。もっとさりげない花はないかと辺りを見渡すと、蛍草が咲いていた。青く小さいこの花ならいいかと成は帰りに摘んで帰ることを決めた。

 それにしても前来た時に牡丹なぞあったかと考えながら丘を登った。記憶にはない。牡丹のような花は、たとえ花が咲いていなくとも目に付くものだし、成は自分が忘れているということはないと思っていた。なにせ記憶力には自信がある。

 不思議に思いながらも丘を登り切り、頂上で寝転がった。ここは幾分空に近い。

 秋空が降ってくるような幻想に目を瞑りかけたところ、人影が登ってくるのが見えた。まさか母か侍女だろうか。逆光のため顔は見えないが、影が風にはためく襖裙を纏っていたため女性だとわかった。

 成は目を細めた。

 見えてきたのはすんなりと長い手足に長い黒髪を頭上で結い上げた女性である。成よりも年上に見える。身なりは質素だが、その顔を見た瞬間、成は思わず起こしかけていた半身をあげられなくなった。

 金縛りにあう。そんな感じだった。

 どこからか良い香りがする。

 天香国色――。

 そんな言葉が思い浮かんだ。

 天下一の香と、国の中で最も美しい色。天香国色。

 女性は美しかった。美しすぎた。

 彼女のあまりの美しさに怪しのたぐいだと思った。

「子、 怪・力・乱・神を語らず。……そう言うじゃないか……」

 論語を思い出し、我に帰った。

 天香国色。その言葉を思ったのは先ほど牡丹を見たからかもしれない。それは牡丹の花の異名でもある。

 女性は近付いてくる。もし、話しかけでもされたらどうしよう。きっとその声は、この世の者とは思えない美しい音楽のようなものだろう。

 そんなことを考え、恐ろしくなった。

(今、ぼくにとって大切なのは童試だ。色に惑わされている場合ではない)

 成は渾身の力で起き上がると、女性に背を向けて走り出した。中庸だけは抱えたが、先ほど、帰り際に母に摘んでいってあげようと思った蛍草のことなどもう頭になかった。

 丘を下り、傾斜を上り、杜まで来ると、成はやっと振り向いた。

 女性の姿はもう、見えなかった。

 家に着くと、院子で母と会い、そこで蛍草を摘んでこなかったことを思い出した。母は院子に植えてある薬草を採りに来たところだった。手には採取用の籠を持っている。

「まあ、顔色が優れないようですね。どうしましたか」

「ああ母上。……ちょっと日射に疲れてしまったようです。向こうで休んでいますね」

 母はなおも心配そうに成を見やる。成は家に入ると自室に駆け込んだ。

 薄手の布団を頭までかけ目を瞑る。

 すると、ありありと女性の姿が思い起こされた。

「やはり怪しのたぐいだったんだ……」

 一度見ただけで成の心を支配してしまった。

 忘れようと自分の頭を殴った。しかし動きが制限される布団の中ではたいした効果はなかった。

 成は目を音が鳴りそうなほどきつく瞑った。

 そうしているうちに眠気がやって来た。まだ夕方というには早い時間だが、先ほどの怪奇に成の頭は疲れていた。

 夕餉の準備をしているらしい侍女の足音を聞きながら成は眠りについた。



 夢の中で、成はあの丘にいた。大好きなあの場所で寝転び空を仰いでいる。傍らには四書がある。丘の上で空の下で、大好きな学習ができる幸せを噛みしめていた。

 そのとき、嗅いだこともないようなとても良い香りが彼の鼻孔に届いた。

 芳しく、甘い香りだった。

 成の身体が固まる。

 そのとき、空を見上げていた成の頬を背後から包み込んでくる手があった。細い指の感触。成は思わず目を瞑った。その手は冷たい。その冷たさが、「私を見て」と語りかけてきているようで、成はかたく目を瞑る。

 あの女性なのはわかっていた。あのとき、香ったものと同じだ。



 そして成は目覚めた。

 背中にびっしりと汗をかき、成の目は血走っていた。

「こんなんじゃだめだ、だめだ……だめだ」

 成は起き上がるなり机にかじりつき勉強を始めた。時刻は夜半を過ぎていた。



 成は無事童試に受かり、童生となった。続く、県試、府試に受かったが、院試に落ちた。

 そのとき、成の耳に聞いたこともないはずの女性の笑い声が聞こえてきた。

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天香国色 藤枝伊織 @fujieda106

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