06:悪役令嬢は微笑んだ



 メルリの姿が完全に見えなくなると、カフェがしん、と静かになる。

 唾を飲み込む音でさえ躊躇うような静けさの中、ジェラルドが近くにいた給仕に声をかけた。


「ねえ、僕にも彼女と同じ紅茶をお願いできるかな?」


 何事もなかったかのように給仕に笑いかけ、エステルに席を勧める。エステルも勧められるがままに再び椅子に腰を下ろした。


「すっかり喉が乾いたね」

「ほんとですよぉ。僕にも紅茶お願いしますねぇ」


 エステルを挟んで彼らが同じテーブルについたのを見て、我に返った給仕は慌ただしく一礼して厨房へ足早に去っていく。

 ジェラルドが給仕に向けたのを同じ笑みを周囲に向けると空気が緩み、成り行きを見守っていた生徒たちも自分たちの会話へ戻っていった。それでもたまにチラチラと盗み見されるのは仕方ないことだ。


「それはなんの本?」

「流行りの恋愛小説です。身分の低い少女が夜会で王子様と恋に落ちて、いろんな障害を乗り越え結ばれるという」

「姉さん、それ面白いぃ?」

「障害となる王子様の婚約者に親近感が沸いてしまいました」


 戻ってきた給仕がジェラルドとライオの前に紅茶を置き、エステルの冷めた紅茶も新しいものに変えてくれた。湯気の立つ紅茶を一口含んで、息を吐く。


「ところで、殿下が『茶番に付き合ってくれないか』と言い出した時はどうしようかと思いましたが無事収拾がついてホッといたしました」

「茶番すぎて欠伸が出ましたぁ」


 ライオは本当にふあっと欠伸をする。

 実は今回の事態はジェラルドによって意図があって起こされたものなのだ。

 事前に話は聞いていたものの、ゲームのように婚約破棄されたらどうしようと思っていた。


「エステルには迷惑をかけたね、ごめんね」


 本当は、ゲーム通りの容姿をしたメルリを学園で初めて見た時もひどく不安だった。大切なものがこの手をすり抜けていくのではないかと。大切にしてきたすべてを失うのではないかと。

 でもいくらメルリが声をかけてもジェラルドやライオは一定の距離を取っていたし、あまりにも都合よく現れる彼女を気味悪がってさえいた。

 そしてジェラルドの瞳には昔も今も変わることなくエステルが映る。とろけるような微笑みが彼女以外に向けられることはなく、彼に愛されているのだと自信をくれる。


「本当です。これでただ働きだなんておっしゃいませんわよね? 殿下」

「もちろん。僕のお姫様のお望みとあらばなんなりと」


 ジェラルドに手を取られ、その指先に口づけを落とされればカッと頬に熱が集まる。


「それは僕の望みも聞いてくれるってことですよねぇ」

「善処はするよ。確約はしないけどね」

「姉さんのためとはいえ、僕のことこき使ってくれたんですから報酬を求めてもいいと思うんですけどぉ」


 変わらない二人のやり取りに、笑みがこぼれた。

 それにしても彼女が魅了魔法を使っていたなんて。ゲームにはなかったので、ライオに聞いた時はとても驚いた。

 思い通りに進まない苛立ちから意図的に手を出してしまったのか、もしくは本当に無意識のうちに使えてしまっていたのか、真実はわからない。今後それが明るみになったとしても、二人はきっとエステルには教えてくれないだろう。

 でももう、それでいいかなと思う。



 ――自分の小さなこの手に大切なものが残っていることだけが、エステルにとって重要で、幸せなことだから。


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悪役令嬢は決意を胸に淑女の仮面をかぶる 楠木千佳 @fatesxxxx

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