虹の精

安良巻祐介

 

 煤を塗り重ねたような濃い色の雲が、頭のあたりにまで垂れてくる感じのする――空の低い、街の路上。

 日は出ていないけれども、雲間を滲む光を吸ったスモッグが掠れ輝いて、そこらの空気がちらちらしている。

 ビルの窓は一様に白くなり、ちょっとした、白昼夢のような雰囲気だ。

 そんな道の上を、男が、影のように歩いてきた。

 押し潰す空の色に、小さく小さく痩せた背を丸くして、男はやがて、ふらつくままに、ぐたぐたと連なった汚れた家々の合間へ、入りこんだ。


『不浄ナルニュウウス――――』


 遠くか近くか知れぬ場所で、街頭ラヂオが何か喚いている。

 路地の淡い闇に、男の俯き顔は絵の具を溶いたように判然としない。

 ただ、ぬらりと膨れた赤黒い唇と、薄白く光る歯の色だけが目立つ。

 丸めた背を震わしながら、どこへ行くでもなく、暗い路地をふらついていく男の、その歩いた後には、点々たる黒斑、何かの病気の痕のように、ボツボツと垂れて行く。

 男は痩身の懐に手を入れている。腐った息をかすかに吐き出しながら、見えぬ手を懐中に蠢かしている。

 何を飼うか。蛇か、クダか――。

 と、その背が、ぐら、と傾いた。家壁に半身が擦れ、シュッと言って膝をつく、その足元はもう行き詰まりの塵芥ごみ捨て場である。

 壁に身を預けたまま、喉から濁った音が洩れる。

 しばらく肩で息をしていた。

 それから、ゆるゆると首を上げて、男は、懐から手を出した。指の端から汚れた布がはみ出ている。おもむろに広げると――布の面には、人の顔が拓されている。

 かすれかけた輪郭、不揃いな両の眼の滲み、カイコの潰れたような鼻梁のかたち、そして、その下に、ぐにゃぐにゃと乱れた大きな円が描かれ、つまりこれは口と知れる。

 男は濁った呼吸を続けながら、赤い唇、白い歯をぐいと搾って、どうやら、笑いを形作った。

 ぼたり。また、地面に点が浮く。路地裏にぬるい風が吹き込み、音もなくはためいた男の懐から、ぎらりと曇った銀の光――乾かぬ黒いものをしたたらす、ナイフの刃が覗く。


『無残――胸ヲ一突キ――首ノナイ変死事件――』


 ラヂオの声が、陰惨な事件の内容をわめきたてている。

 肩を蠢かせ、男は、哀れなる最期のデス・マスクを、地面へ広げて見下ろしながら、再び懐へ手を差し入れた。

 ややもぞもぞとして、抜き出された右手には、今度は一本の筆が握られていた。

 一方で、左手は、服の間からべりべりと何かを引き剥がしている。

 筆をだらしなく提げ、傍に投げ出したのは、種々雑多な色の固まりを悪腫のようにこびりつかせた板切れである。

 それから男は、湿った筆先をその、粗悪なパレットに押し付けて――地べたに広げたデス・マスクに彩色し始めた。

 骨ばった腕が、引き絞る弓の態で、ぐいとたわめられる。間を置かずにばっと弾く――無声の筆が撫ぜた瞬間、板の上にとりどりの悪腫は、嘘のように、毒々しくも夢に似た色彩を蘇らせた。

 薄闇の中、犠牲者の顔の拓を、ぞっとするほど鮮やかな色が、色が、色が、色が、それらが混じり合った線が、走っていく。分厚く、濃く、幾重にも重ねられながら、新たな輪郭を描いていく。

 ぐたぐたと絡み合った混色の奔流がそのまま叫びのかたちをなぞり、怯えたまなじりに星の発疹のような点をびっしりと打って、飛び散った。

 円の内部、すなわち只の虚空であった口腔には、うじゃうじゃとした虹蛇こうだがよじれ巣食い、不揃いな両の目は、叩きつける色の驟雨に視線を飛び散らせ、そうして、顔の周囲には、太陽のコロナのような、混然とした色の線が、狂ったタッチで四方へ放射された。

 再び男が筆を下げ、手を止めた時――――マスクはこれらの奇怪な祝福を以て、完全に変貌していた。

 男は、ほんの束の間、立ち尽くした。

 丸めた背の内側で、男の形作った顔が、その時どのようであったかは、ふたたび濃くなり始めた闇に隠れて、わからない――誰も、見る者が居ない。

 やがて、音もなく筆が落ちて、パレットが落ちて。

 男は、来た時と同様、影のように立ち去った。


『不浄ナルニュウウウス……』


 街頭ラジオは、まだどこか遠くでわめいている。

 路地の闇の中で、虹色の顔が、その声を聞いている。

 誰と対面するでもなく、ただ、投擲された宝石のようになって、無限の口を開けている。


 いつか、この路地に、夕暮れの門限を少し過ぎた、一人の子供が駆け込んでくる日があるだろう。

 彼はその時、塵芥の最中に、一つきり判然と置き去りにされた顔を見る。

 まだ丸みを残した、あどけないモノクロームの瞳の中へ、幾多の燦爛たる色で輪郭を描かれた、断末魔の聖像が映し込まれる。

 そうして、彼は――ある種の信仰を起こすであろう。

 それは善悪を超越した憧憬であり、純粋で峻嶮な、恐怖と畏怖である。

 子供は足元に猿の死骸を脱ぎ捨て、そこから何かが始まる。恐ろしくも美しい、物語が。

 その日が来るまで、虹色の顔は、薄闇の中であらん限りに口を開けて、ただひたすらに待ち続けるであろう。

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虹の精 安良巻祐介 @aramaki88

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