第305話 兄妹

 走り去るレックス・アルベールの背中を何とも言えない顔でフローラ・ブルゴーニュは見つめている。そんな彼女をセリスは黙って眺めていた。


「……彼を止めたかったのですか?」


 セリスが静かに声をかける。その言葉には答えず、しばらくレックスが行った方を見ていたフローラがゆっくりとセリスに向き直った。


「あなたには関係ないことだわ」


「そうでもありません。……夫の親友の事ですから」


「夫……!?」


 驚くフローラにセリスがスッと左手をあげてみせる。その薬指には白金で出来た指輪がきらめいていた。それを見てハッと息を呑むフローラ。


「あなた達結婚したの!?」


「おかげさまで」


 セリスがほんのり頬を染め上げる。敵ながらそんな素振りも魅力的だった。出会った頃と何も変わらない美しさに思わずため息が出る。


「……その事はマリアも知っているんでしょうね?」


 フローラが低い声で尋ねると、セリスの身体がビクッと震えた。


「マリアさんは……祝福してくださいました」


「……そう」


 セリスが少しだけ目を伏せながら答える。それだけで彼女が自分の親友の気持ちを蔑ろにしていないことがわかったので、フローラは何も言えなかった。


「それを知ってもなお、あの子は魔族を守ろうとしているのね。好きな人から振られちゃったっていうのに」


「クロ様はマリアさんの気持ちに気付いていません。……あの人はそういう人ですから」


「それじゃマリアも報われないわね」


 フローラが呆れたように息を吐く。レックスにしろクロにしろどうして男っていうのはこうも鈍感なんだろうか。少しは想いを寄せるこちらの身にもなって欲しい。


「……彼がレックスさんなんですね」


 最後の魔族代表が待つであろう方角に目を向けながらセリスが呟いた。


「一目お会いすることができてよかった。他の方から聞いた通りの男性のようです」


「へー……どんな風に聞いてたの?」


「どことなくクロ様と似ている、と」


「似ている……そうね。それは否定できないかもしれないわね」


 マジックアカデミアにいた時は微塵も思わなかったというのに、今ではなんとなくわかる気がする。あの二人が似ている事も、親友である事も。


「あなたが行かせたくなかった理由もわかります」


「…………」


「彼からはフローラさんからも感じる勇者の力を感じました。でも、それともまた少し違う底知れぬパワーを感じた……恐らくあの二人がぶつかり合えば互いに無事では済まないでしょう」


 セリスの言葉を否定する根拠は何一つなかった。クロとレックス、両方の力を間近で見たフローラにはそれが誰よりもよくわかっている。だからこそ、そこから先の言葉を聞かないようにするために、彼女はレーヴァテインを抜いた。


「私はここに世間話をするために来たわけじゃないわ。人間の代表として魔族を倒しに来たのよ」


 剣の切っ先を向けられたセリスは取り乱す事もなく、静かにフローラを見つめる。


「さっさと始めましょうよ。あんたを倒して早くレックスを追わなきゃいけないわ」


「それは困ります。あの人から絶対に他の奴らを近づけるな、と言われておりますので、私はここであなたを止めなければなりません」


「私を止める?戦えるようには見えないけど?」


「そうでもありません。こう見えても魔法は得意なんですよ?」


 口ではそう言うものの、一向に戦う素振りを見せない彼女にフローラの苛立ちが募っていった。


「だったら、早くその得意の魔法ってやつを見せてみなさいよ!言っておくけど、私には幻惑魔法は通用しないわ!!ロバート大臣のように私を操ろうたって無駄なんだから!!」


「そうですね。ですが、何も幻惑魔法だけが心に作用するわけではありません。他にも人の心を動かす術はあります」


「魔族のあなたに私の心を動かすことなんてできないわ!!」


「そうですか……では、魔族でない者に頼ることにしましょう」


 そう言うとセリスは背後にある一本の大木に目を向ける。今にもセリスに向かっていこうとしていたフローラが、つられるようにしてそちらに視線をやり、ピタっとその動きを止めた。その理由は大木の陰から姿を見せたとある人物を目にしたから。


「……………………えっ?」


 間の抜けた声とともにフローラの手からレーヴァテインが滑るようにして地面に落ちた。




 フローラは引っ込み思案な女の子だった。


 小さい頃はまだブルゴーニュ家は貴族ではなかったため、街の子供達と普通に遊んでいたのだが、フローラはそれが苦手だった。誰かと話すと緊張してしまう、自分の思いがうまく伝えられない。そんな少女だった彼女は、外には出ることはせず、家に篭って一人でお絵かきなどして遊ぶことが多かった。


 そんな自分を変えてくれたのは兄だった。


 兄は自分と違って社交的で誰とでもすぐに友達になれるような人だった。そして、どんな時でも自分を第一に考えてくれる人だった。

 そんな兄に半ば引きずられるようにして連れ出された外の世界で、彼女は少しずつ変わっていく。段々と友達も増えていき、積極的に家から出るようになった。偶に意地悪をしてくる男の子がいたりしたが、そういう時は決まって兄が守ってくれた。だからこそ、彼女は安心して外の世界へと踏み出すことができたのだ。


 強い兄、優しい兄、頼れる兄……そんな彼が彼女は大好きだった。


 大きくなっても兄が自分に向ける愛情は変わらない。時々、うんざりする事もあったが、それでも彼女の中で大好きな兄の像は変わらず存在し続けた。


 そうであったから、彼女は魔王軍指揮官を恨んだ。自分の大好きな兄を奪いさった憎むべき男。


 でも、違った。ここのところ芽生え始めた違和感が正しかった事を、彼女は知ることになる。


 なぜなら、その大好きな兄が自分の目の前に現れたのだから。


 放心状態のフローラを前にしたアベル・ブルゴーニュがセリスに非難じみた視線を向ける。


「『黙ってついて来い』って言われたからのこのこ来てみれば……これはあんまりなんじゃねぇの?」


「感動的な兄妹の再会を演出して差し上げたのですが、ご不満でしたか?」


「……誰も望んじゃいねぇよ」


「そうでしょうか?少なくとも彼女は熱望していたのではありませんか?」


 涼しげな顔でそう告げると、セリスはフローラの方はちらりと視線を向けた。アベルも彫刻のように固まった妹を見て、深々とため息をつく。


「……我が愛しの妹があのクソ野郎を恨んでくれていた方がせいせいするっつーのによ」


 悪態をつきながらもアベルはフローラの方へと歩き始めた。当の本人は未だに思考停止状態。間近までやって来た兄に似た何かをただ呆然と見つめている。


 そんな彼女の頭の上にアベルはポンっと手を乗せた。


 フローラの肩がビクンッと跳ねる。頭に置かれた手から流れてくる心地よい熱が、凍りついた彼女の身体を溶かしていった。


「兄……さん…………?」


 振り絞るようにして出した声は酷く弱々しい。まるで今見ているのは幻なのではないか、と怯えているようだった。ここまで思いつめていたのか、と一瞬悲痛な表情を浮かべたアベルだったが、すぐにそれをかき消すといつも妹に見せている笑顔を向ける。


「……少し見ないうちに逞しくなったな、フローラ。兄さんは嬉しいような寂しいような複雑な気持ちだ」


「っ!?」


 その言葉が、声が、フローラの臨界点をさらっていった。この瞬間、彼女の理性は完全に崩壊する。


「兄さん……!!兄さんっ!!」


 不安、後悔、憎悪……様々な負の感情が涙となって彼女の目から溢れ出した。そのままアベルに縋り付くと、もう離さないとばかりに力強くその身体を抱きしめる。アベルは苦笑しながら、そんな妹の頭を優しく撫でつけた。


「兄さんっ!!アベル兄さんっ!!」


「……あぁ。俺はここにいるぞ」


「兄さんっ!!兄さんっ!!」


 何度も何度も確認する。その存在が間違いでないことを誰かに証明するように、大切な人はここにいるのだと自分に言い聞かせるように、何度も何度もアベルを呼んだ。


「よかった……本当によかった……!!生きていてくれてよかったよぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 フローラの心の絶叫が森に響き渡った。赤子のように泣き喚く彼女を、アベルはただ黙って包み込んでいる。


 そんな兄妹の心温まるシーンをしばらく見守っていたセリスは微笑を浮かべると、静かにその場を後にしたのであった。

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