76 札幌から軽井沢へ、篠原さやかと母遠見藍子の奇跡


 翌朝、私と狩原薫は函館から空路札幌に向かった。

 新千歳空港から札幌遷延性病棟へ向かうタクシーの中で、軽井沢遷延性病棟からのメールを受け取った。メールには、母に覚醒の兆候がある、と記されていた。私の心は温かくなっていく。


 病棟のエントランスで田崎が出迎えた。

「篠原さやかが目覚めた」

 彼女は息を弾ませて言った。


 私は三階の病室に向かった。

 エレベータケージの中で、私は田崎に訊いた。

「陽菜ちゃんのこと、ドクターに訊いた?」

「異常ないそうです。後は、母親の愛情を彼女に注ぐだけです」

「そうか、よかった」

 死神の言葉は本当だった。


 私は息を弾ませて昨日の検査室に飛び込んだ。

 篠原のベッドの傍にいた看護師が立ち上がって私を見詰め微笑んだ。

「今朝、覚醒しました。まだ意識は朦朧としていますが、陽菜ちゃんのことは分かったようです」

 私はベッドに近付き、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は安らかに眠っている。


 ベッドの脇のベビーサークルには、陽菜がサークルに掴まって立っていた。私は陽菜を見詰めた。彼女は満面の笑みで私を見ている。

 私は篠原さやかの頬に手をやった。肌に弾力があり、微かに微笑んだように思えた。


 主治医が顔を出した。

 私と顔を合わせると、彼は笑顔になった。

「驚きました。娘さん、陽菜ちゃんがこんなに効果があるとは」

「意識が戻ったんですね」

「まだ、そこまでは……、焦らず、気長に待つことにいたしましょう。脳波は正常ですから、もう、大丈夫です」

 私は大きく深呼吸した。


 

 その日の午後、私は一人で空路羽田に向かった。田崎と狩原が一緒に行くと言ったが、私は断った。私は母との時間を二人だけで占有したかった。


 東京駅から新幹線で軽井沢に行く。

 車窓からの風景を眺めながら、私の心は躍った。

 

 もし母が目覚めていたら、何と話しかけよう。はじめまして、娘のマヤです。それは拙い。母は私のことを男と認識しているだろう。それなら、あなたの子のマヤです。それでも、ぴったりこない。見知らぬ人物から。はじめまして、と言われてどう感じるだろうか。


 そもそも、遷延性障害に陥る前の、認識は戻っているかどうか分からないのだ。担当医の意見を訊いてみるべきなのだろうか、ブルースに相談してみて効果があるのだろうか。

 アルハモアナと共に、母との時間を共有したかった。そして、素直に相談したかった。でも、彼女はサクラの体の中で捉われの身だ。


 軽井沢から、タクシーに乗り遷延性病棟に向かった。

 いつものように受付で手続きを済ませ、ナースステーションの前を通り過ぎ、七号室に向かった。


 病室には、医師と看護師が私を出迎えた。私は彼らの肩越しにベッドに視線を送った。ベッドの中で、母が両眼を開けて仰向けに寝ている。

「戸田さん」医師が私に声をかけた。

「昨夜二時に覚醒しました。声をかけてみますか」


 私は頷きベッドサイドに近付いた。

 母は私に気付いて、視線を向けた。

「お母さん」

 私はそっと声をかけた。

 母は瞬きもせず私を見詰めている。

「わたしが、誰だか、分かる?」

 咄嗟に出たのは、その言葉だった。


 母は私を見詰めたまま反応を示さない。

 私は医師を見詰めた。

「覚醒してまだ日にちが経っていませんから、気長に待ちましょう。いままで、三十年近く、眠っていたのですから」

 医師はそう私に告げると、軽く頭を下げて病室を出ていった。


「母は何か言いましたか」

 看護師に尋ねた。

「いいえ、まだ、何も……。でも、脳波は完全に目覚めています。今、あなたのお母さんは、三十年前の記憶を辿っているのかもしれません」


 私は頷くと、枕元の丸椅子に腰を落とした。

「戸田さん、お帰りの際は、ナースステーションに寄ってください」

「はい」

 看護師も病室を出て行った。


 ブルース、いるか?


 ブルースの生霊が現れる。


「母は、本当に目覚めたのか」


「目覚めている」


「そうか」


 私は母の頬を擦った。

 そして笑顔で見詰める。

「お母さん、わたしはマヨだよ、分かる?」

 母は食い入るように私を見つめる。


 私はブルースに視線を送った。


 ブルースよ、おまえはこれからアルハモアナの許に戻るか、それとも茂尻山荘に行き、そこで暮らすか、どうする? わたしは、どちらでもいいぞ」


 ブルースは返事をしなかった。


「茂尻山荘の黒田夫妻は、おまえと暮らしたいと言っている」


「アルハモアナは、どうしているのだ」


「今は、サクラという怪人の体の中にいる。自由の身だ。死神の許しも得ている」


「ならば、われは、アルハモアナの許に帰ろう」


「そうか、わかった。黒田夫妻には、そう伝えておこう」



「マヨ…」

 母の声がした。

 私は母の瞳を見詰めた。

「あなたは、マヨなの……」

 母は確かな眼差しで私を見詰めている。


「そうだよ、お母さん」

 母の頬に、私は顔を寄せた。

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