75 死神への弁明


 函館大沼駅に着いた時は、夕暮れになっていた。


 札幌で道警職員と落ち合い、藤谷朱莉を受け取り、まっすぐ大沼駅に向かったのである。後部座席には、私と朱莉を抱いた狩原薫がいる。


 駅前に朱莉の父親藤谷克己が一人佇んでいた。

 私は車を降り、彼に向かって会釈した。彼は笑顔を浮かべて歩いてきた。

「遅くなって、申し訳ありません。ずいぶん待ったでしょう」

 彼は首を横に振って、警察車両を覗き込んだ。


「朱莉ですか?」

 私は頷いた。

「抱いていいですか?」

「あなたの家に行きましょう。朱莉ちゃんのお婆さまも、待っているのでしょう」

「は」

 彼は満面の笑みで頷いた。


 藤谷の運転する軽ワゴン車を追って、警察車両は林間の片側二車線の道路を走る。七分ほどで、見慣れた平屋の家の前で軽ワゴン車が止まった。

 藤谷は車を降りると、玄関ドアを開けた。

「お母さん、朱莉が来ましたよ」


 初老の女が顔を出した。

 狩原は朱莉を抱いて車を降り、藤谷の前に差し出した。彼は笑顔を浮かべたままわが子を抱きしめた。

 朱莉が泣き出した。彼は笑顔を浮かべたまま、祖母に渡した。


「元気ですね。有難うございます。本当に感謝いたします。妻も喜んでいると思います」

 藤谷は感極まって涙声で言った。

 私は笑みを浮かべて彼に伝える。

「明日、函館の所轄署に届けてください。東部方面本部から正式な報告をしていますが、藤谷さんからも、朱莉ちゃんの無事を報告してください」

「分かりました」


「警察病院の診断では、体に異常は認められませんでした。ただ、精神面で、長い間母親から引き離されていましたので、成長が遅れているかもしれません。もう一度、小児科の診断を受けていただきたいと思います」

 篠原陽菜の関係もあったので、私はそう付け足した。

 藤谷と祖母は私を見詰めて大きく頷いた。


「お疲れでしょう。どうぞ、中にお入り下さい」

 祖母が私たちを誘った。

「有難うございます。これから、重要な要件がありますので、今日はこれで失礼いたします。落ち着きましたら、改めて朱莉ちゃんに会いにきます」


 狩原がバインダーに挟んだ書類を差し出した。

「ここに、時間と署名をお願いします」

 藤谷は腕時計を見ると、時間と自分の名を書き込んだ。



 警察車両で国道5号線を北上し、私たちは駒ヶ岳駅に向かった。死神に会いに行くためだ。どうしても、死神と折り合いをつけておかなければならない。警察車両は、駒ケ岳駅のさらに北側の林道を二キロほど走る。


 車は森の前で止まった。この先は熊笹に覆われた林道だ。

 一時間ほどで戻って来る、と私は運転手に伝える。狩原に懐中電灯を渡し、私は懐中電灯の灯りを点ける。熊笹の林道に足を踏み入れる。私の後ろを狩原がついてくる。


 三十分ほど歩く。暗く道が濡れていたので、この前来たときより時間がかかった。開けた雑草地で出る。懐中電灯の灯の中、ぼんやりと、修道院の輪郭が浮かび上がっている。


「ここからは、わたし一人でいく。薫姉さんは、ここで待っていて」

 狩原は無言で頷いた。


 私は懐中電灯の灯りを揺らしながら修道院に入って行く。

 今、ブルースはいない。彼は軽井沢の母の許に行っている。私はベンチの間の通路を祭壇に向かって歩いていく。


 そして祭壇を見上げ、ベンチに腰を落とした。

 両手を組み、ひたすら念じる。


 黄泉の国より来たりし者よ、わたしの前に現れよ。


 十分経ったが死神は現れない。

 私は懐中電灯の灯を消した。真っ暗闇になった。私は静かに呼吸を続ける。


 黄泉の国より来たりし者よ、わたしは、あなたに伝えておかねばならぬことがある。わたしの前に現れよ。


 体の右側が仄かに温かくなっていく。そして、ベンチの上に青白い炎が立ち上がってくる。

 そっと見た。炎の中に死神の姿が揺らいでいる。突如、私の目の前に死神の顔がクローズアップされた。黒く深いフードの奥に、赤い大きな両眼が見えた。死神の素顔を見たのは初めてだった。私の心に凍りついた一閃の風が吹き抜けた。


 われの顔を見る者は、黄泉の国に旅立つ者だ。われの顔を見て、現世に留まった者は一人もいない。マヨよ、覚悟はできているか。


 死神の赤い口の中に紫色の舌が見えた。

 ショルダーバックから、私は鉄の斧を出した。そして、その斧の刃を死神の顔に向ける。


 黄泉の国より来たりし者よ、あなたとの約束通り、鉄の斧を持ってきた。それでも、あなたは約束を違えるのか。


 その斧をわれの体の中に置くのだ。


 岩田総一郎も、あなたに引き渡したはずだ。それでも、わたしとの約束を違えるのか。


 おまえは、アルハモアナに、サクラという女を与えた。われはアルハモアナは、ミイラの体の中に閉じ込められるものだと信じていた。このままでは、アルハモアナは現世をわがもののごとく動き回る。これは、見過ごすわけにはいかない。


 そうか、そうであるなら仕方がない。わたしを黄泉の国に連れていくがよい。わたしは約束は守る。鉄の斧はあなたに与えよう。これで、天の摂理に反する者はいなくなる。あなたの望みどおりに。


 死神の唇が蛭のように伸びた。

 微かに笑い声が聞こえる。


 マヨよ、おまえは、素晴らしい。われの顔を見て、生き延びた最初の人間になるだろう。

 おまえに頼みがある。アルハモアナをサクラの体の中に閉じ込めるのだ。アルハモアナを自由にしてはならぬ。もし、出来たなら、おまえの望みを一つだけ叶えてやろう。


 アルハモアナは自由の身だ。難しいかもしれない。


 金の首飾りを、サクラにつけさせればいいのだ。


 それは、できない。金の首飾りは、アルハモアナのミイラの首に戻さなけれなならない。遠い未来、アルハモアナが戻る日のために。


 ウーン……、おまえは、何という人間だ。


 だが、アルハモアナを説得することはできるかもしれない。サクラの体の中で、身を潜めているように、と。


 よかろう、それで、手を打とう。おまえの望みは何か。


 あなたは、乳児の状況について、こう言ったことがある。体の中に新たな細胞間伝達物質が生成される、と。朱莉と陽菜の体に、その物質が生成されているのか。


 もし、生成されているとしたならば、今生きているはずがない。細胞間伝達物質は、体外で生成されたのであろう。


 死神の言う細胞間伝達物質というのは、エクソソームのことを言っているのだ。そうであるならば、朱莉と陽菜の健康上の危惧は、精神的な作用の面だけになるだろう。日本の医学で十分に対応できる。


 マヨよ、おまえの望みは何か。


 母をわたしの許に返してほしい。


 マヨよ、鉄の斧をわれの体の中に入れるのだ。



 私は鉄の斧を死神の炎の中に置いた。

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