74 篠原さやかに娘陽菜を引き渡す


「篠原さん、回復に向かっているといいんだけど……」

 運転席後部座席で、陽菜を抱いた田崎多鶴子が呟いた。

 隣座席から、私は無言で彼女に視線を送った。彼女は熟睡している陽菜の寝顔を見詰めている。

 

「この子、発達障害の可能性があるかも……」

 田崎が呟いた。

「ん?」

 私は再び彼女に顔を向ける。

「この子、八か月になるわね。わたし、子育ての経験がないから自信ないんだけど、五か月から、さほど成長していないのかもしれない」


 朱莉と陽菜を診た警察病院の医師は特段の指摘をしなかった。だから、個人差だと考えていた。検体として育てられた乳児に、異常が潜んでいるとしたら問題だ。

「田鶴かあさん、ドクターに相談してみてくれない。当分、母親と暮らすことになると思うので」

「わかった」

 田崎は朱莉の寝顔を見ながら言った。


 道警本部で本部長への挨拶を終えて、私たち三人は道警の手配した警察車両で札幌から郊外にある遷延性病棟に向かっている。運転しているのは、道警本部の警察職員である。助手席には狩原薫が座っている。

 私は一刻も早く篠原さやかに陽菜を抱かせてやりたいと思っている。


 病棟は白樺の林の中にあった。

 車両はエントランス前に横付けされ、私たちはエントランスから事務室の受付に行った。

 私は事務員に自分の所属を名乗り、ここに来た目的を伝える。事務員はお待ちください、と言って奥の個室に入って行く。すぐ、白衣の初老の男が現れ、私たちを一瞥すると、歩いてきた。


「道警の方から伺っています。私は主治医の高松です」

 戸田です、と私も自己紹介した。


 彼は玄関ホールからエレベータに乗る。私たち三人もその後に続いた。エレベータは三階で止まり、長い廊下を進む。ナースステーションの前を通り過ぎ、一番奥の右側の部屋に入った。


 ベッドに篠原が眠っていた。

 彼女の周りには、バイタルモニターと、脳波計モニターが取り巻いている。


「患者は、入院した頃と目立った変化がありません。病状としては、今が重要な時期に差し掛かっています。病状が好転しなければ、本格的な遷延性状態に陥ってしまいます」

 高松の説明に、私は頷いた。


 彼はモニターを指さした。

「北見の警察病院からの連絡で、所要の準備をしました」主治医はそう言って好奇心に満ちた眼差しで私を見詰めた。

「あなたは、特別の能力があると、伺いました」


 私はモニターに視線を送った。

 呼吸も、脈拍も、血圧も、血中酸素濃度も、私が見る限り異常が見られなかった。


「これから、私は彼女に語りかけます。北見の警察病院では、確かな反応がありました。今日も、彼女と心の交流ができればいいのですが」私はそう言って、真正面から高松医師を見詰めた。そして、話を続ける。

「先ほど先生は、わたしに特別の能力がある、と言われましたが、そうではないと思います。わたしは、事故直後、瀕死の彼女から頼まれました。この子をかくまってほしい、と。私は彼女の願いに応えました。その時の、わたしの声と顔を記憶しているのだと思います」

 高松は頷いた。


 私は篠原の枕許の丸椅子に腰かけた。そして彼女の右手を握る。

 そっと心を澄ます。

 いつものように、彼女の脳波が揺れながら伝わってくる。私は心を整えながらその波を手繰り寄せる。波は徐々に強く波打ってくる。


 さやかさん、心を静めて。お願い、心を穏やかにして。


 私は念じる。


 今日は、あなたに、喜んでもらいたいの。陽菜ちゃん、連れて来たよ。


 篠原は私の手を強く握りしめた。

 私は田崎から陽菜を受け取り、さやかの右腕の中に抱かせた。

 彼女の呼吸が穏やかになっていく。彼女の手が私の許から離れ、陽菜を抱きしめた。


 ヒナ……陽菜…。


 彼女の言葉が、私の脳裏に何度も木霊した。


 私はバイタルモニターを見た。彼女のバイタルにどのような変化があったか分からないが、今は平常を維持している。


「戸田さん、いい兆候です。脳波が活動を始めました。記憶の整理を始めています」

 背中から高松の明るい声がした。


 私はゆっくりと立ち上がった。

「今夜にでも、画期的なことがおきるかもしれません」

 彼は顔に満面の笑みを浮かべている。

「これから一晩、ここで見守っていただけますか」


 私は今日中に函館に向かうことにしている。大沼の藤谷克己に会い、娘朱莉を引き渡す約束をしているのだ。母方の祖母と共に、彼は首を長くして待っているに違いない。


「先生、申し訳ありません。わたしは、これから函館に行かなければなりません。田崎警部補をここに残していきます。先生にお願いしたい、こともありますので。わたしは、明日出来るだけ早く、ここに戻ってきます」


 高松は無言で頷いた。

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