64 アルハモアナとの交渉
翌日、函館空港から羽田に飛び、新幹線で軽井沢に行った。軽井沢駅からタクシーで母のいる遷延性病棟に着いた時は、午後四時を回っていた。
受付で手続きを済ませ、私は母の病室に入る。病室は薄暗く、黄昏の中で眠っているかのようであった。
母の顔を見詰めながらゆっくりとベッドに近付く。
アルハモアナよ、目覚めよ。
私は母の顔を見下ろしながら念じる。
母は反応を示さない。私は枕元の丸椅子に腰かける。
アルハモアナよ、あなたにお願いがある……。
私は母の顔に右手の手のひらを載せた、母の微かな吐息が聞こえる。
私は目を閉じ念じる。
ブルースよ、アルハモアナに語りかけてくれ。わたしが来ている、と。
ブルースの幻は宙に浮かび、母の唇に舌を這わせた。
母の両眼が緩やかに開いた。
私を見詰めている。
マヨ、決心がついたのか。われを受け入れる決心がついたのか。
アルハモアナの言葉が、私の脳裏に木霊する。
あなたを、わたしの体に受け入れよう。わたしの願いを、すべて叶えてくれるならば。
母親を返してやろうと言っている。その他に、まだあるというのか。
わたしは、悪魔に拉致された二人の乳児を救いださなければならない。わたしに手を貸してほしい。
おまえに手を貸す? どういうことだ。
乳児を拉致した老人は、若返りの秘薬を得ようとしている。だが、その秘薬は女にしか効き目がない。わたしの男から女への変身の秘密を見出し、老人は自分にも効く秘薬に変えようとしている。アルハモアナ、わたしの血液に乗って悪魔の体に入り、止めをさしてほしいのだ。
その老人を殺すことは、われが手を出さずとも、おまえにとって容易いことであろう。
たしかにそうだが、それがなっても、わたしはその老人の元から逃れることはできない。乳児は殺され、わたしの仲間を皆殺しにされる。彼に若返りに成功したと思わせなければならないのだ。
それは、難問だ。
悪魔から、金の首飾りと鉄の斧を取り戻さなければならない。どうしても、悪魔が納得する結果と時間がほしいのだ。
だから、それが難問だ、と言っている。
あなたは、わたしを男から女に変えた。その秘技はわたしの血液の中にある、と老人は信じている。それを利用できないか。
アルハモアナは沈黙した。
私は立ち上がった。
ブルース、話は決裂したようだ。
マヨ、おまえの願いはそれだけか。
もう一つある。
言ってみろ。
あなたが、わたしの体に棲みついても、わたしの体は私の物。わたしの意思のみで思考し行動する。あなたは、わたしの体の中でただ命を繋いでいるだけ。
なるほど……。
死神と約束した。あなたを黄泉の国に連れていかない、と。
死神のことだ。何か代償を取っただろう。
鉄の斧と老人の命……。
そうか、いいだろう……。おまえの提案に乗ろう。
策はあるのか。
その悪魔にこの世のものとは思えぬ、凄まじい快感を与えよう。科学者たちには、成功という歓喜に満ちた幻覚に浸らせる。後は、おまえの演技しだいだ。
私はカッターナイフを持って、左手の人差し指を母の口元に近付けた。
アルハモアナよ、覚悟はできたか。
母の口角は上がり、両眼は微笑んだ。
私は人差し指を母の唇に近付け、カッターナイフで切り裂いた。血液が一滴母の口の中に落ちていく。そして、もう一滴、もう一滴……。
母の顔は突然満面の笑みを浮かべた。
私はその時、頭の天辺から爪先まで、激しく突き刺すような衝撃が走った。
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