62 岩田総一郎からの提案(2)


 翌朝、私は天井の高い大広間の寝室で目覚めた。昨夜は勧められるままに、かなりの量のワインを飲んだ。動揺している心を静めたかったからだ。


 朝食を済ませ、再び岩田総一郎の寝室に入ったのは、ちょうど九時だった。彼は上半身を起こし、私を迎えた。昨夜より明るい表情に見えた。

 ベッドの脇の椅子に座るように、召使いの老女から勧められる。

 私は椅子に座り、彼に視線を向けた。彼は横向きになって、私を見詰めている。


「どうだ、わたしの望みが理解できたか」

「あなたが望んでいるものは理解できました。理解できないのは、なぜそれまでして、延命し若返りたいのか、ということです」

「なるほど……。若いおまえには、わたしの気持ちは分からなかったか。でも勘違いしないでほしい。わたしはおまえに、知ってもらいたいとは思ってはいない」

 岩田はそう言って、天井を見上げ目を閉じた。


「父の中小企業を引き継いだ時は、私は二十一だった。大学を中退し、死に物狂いで働いた。それから、七十年以上が経った。その間、私は人生に成功することだけを願って、働いてきた」

 そう言ってから、彼は私に顔を向け目を開けた。


「巨万の富を得た。周囲の者を威圧する巨大な権力も得た。好きな女をいくらでも自分のものにできた。すべてが思いのままだ。周りのの者から尊敬され、敬われ、恐れられた。……わたしは人生に成功したのか」

 彼の両眼は大きく見開かれ、赤く光っている。


「戸田マヨ、わたしは成功したのか……」

 私は返事をしなかった。ただぎらつく彼の眼差しを見詰めていた。


「人生の終末にきて、わたしはやっと気付いたのだ。わたしの望んでいた人生は、こんなものでは、なかった、と。わたしは、こんなに長い人生を生きてきて、いままで楽しいと思ったことは、一度もなかった、と」

 私は彼の心の闇を一瞬垣間見た。


「マヨよ、おまえは、わたしが望んでいた人生とは何か、分かるか。もし分かったら教えてくれ」

「わたしには分からない。でも、わたしの望みは、あなたとは違う」

「それは、何だ。おまえの望みは、何だ」

「わたしの望みは、何事にも捉われず、自分の自由な価値観で、気ままに楽しく生きること」

 彼は呻き声を上げた。その声はだんだん大きくなり、寝室全体に響き渡った。


「マヨよ、わたしに、そのような人生をもう一度送らせてくれ。後二十年、いや十年でいい」

 私は腕を組んで、彼の顔を見詰めた。彼の両眼は、私の視線を捉えて放さない。


「あなたは、自分の身勝手な野望のため、多くの人の命を奪った。それは許されることではない。あの白塗りの蝋人形のごとき怪人は、何者なのですか」

「ああ…サクラの、ことか」

「そのサクラは、何者なの?」

「あの子は、わたしの亡くなった孫娘のクローンだ。ゲノム編集して、人間としては最高の能力を持ったわたしの孫として、誕生させたんだ」


「人殺しが、最高の能力なのか」

「肉体的には申し分ない人間になった。だが、精神的に大きな欠陥を持ってしまった。完全無欠なサイコパスになってしまったのだ。そして醜い怪物に……」

「今、どこにいる?」

「この屋敷の中に、隔離している。警察の捜索の手が迫っているんでね。やむをえなかったのだ」


 彼は天井を見上げると、目を閉じた。

「マヨ、おまえの返事を聞かせてくれ、今すぐにだ。おまえの願いは何だ、早く言ってくれ」

「四つ、条件がある。一つは乳児二人を開放すること、二つ目はサクラを引き渡すこと、それから、三つ目は、わたしに二日間の猶予をくれ。仲間に別れの挨拶をしたいんだ」


「分かった、いいだろう。四つ目は何だ」

「わたしに、鉄の斧と金の首飾りを返してくれないか」

「そうか……。金の首飾りは返してやろう。だが、鉄の斧は駄目だ。返すわけにはいかない」

「何故だ」

「鉄の斧を持つ者には、死神が近づかないというではないか」

「わたしが協力し、あなたが望みを叶えたとき、返してもらえるか」

「いいだろう。その時には返してやろう」

 岩田は即答した。


「マヨよ、おまえの胸に刻んでおけ。もし、おまえが約束を違えたらどうなるか。乳児も、おまえも、おまえの仲間も、命を失うことになることを」


 私は今、この愚かな老人の戯言を聞き従おうとしている。二人の乳児を救い出し、大切な仲間を守るために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る