56 篠原さやかの記憶と東部方面本部の聴取



 黒田美月の乳母は意識障害を起こしていた。

 黒田美月を見つけた、と私は安田捜査課長に連絡した。美月のお守り袋に黒田美月と記されている木札が入っていたのだ。


 東部方面本部捜査本部から、安田の他三人の捜査官が函館空港に来た。私は彼らに五月と乳母を引き渡す。

 わたしは安田に大沼の修道院で見つけたことを伝えた。詳細は本部で説明す、と付け加える。しかし死神をはじめとする一連の出来事を話すつもりはなかった。話しても変人扱いされるだけだ。要は幸運な偶然の出来事ということで、押し通すつもりである。

 乳母が意識障害が回復しても、記憶を揺り戻すことはないだろう。すべて死神の仕組んだことなのだから。


 警察病院の篠原さやかの主治医から連絡があった。

 明日、篠原さやかを札幌郊外にある遷延性病棟に転院させるというものであった。私は警察病院に入院している間に、篠原さやかに確認しておきたい事があった。出来るだけ早くそちらに向かう、と主治医に伝える。


 主治医の許可を得て、警察病院の篠原さやかの病室に入ったときは、午後八時を回っていた。

 今病室にいるのは、私と彼女だけだ。


 私は篠原さやかの右手を両手で包んだ。

 何度も深呼吸する。そして心に念じる。

「あなたの、陽菜、救いだすことが出来る」

 彼女が反応を示すまで、何度も繰り返す。


「あなたが、夫の克己さんを殺した、人物を思い出してくれれば」

 間をおいて繰り返す。


「女……」

 彼女が呟いた。

「美しい女……」


「名前は?」

「わからない」

「何をしている、人?」

「コーヒー園」

「その人の顔、思い浮かべて。ゆっくりでいいから」


 彼女は深く息を吸い込んだ。

 脳裏に顔の輪郭が浮かび上がる。そして、すぐ消える。

「落ち着いて、ゆっくりと、静かに……」

 私は囁きかける。


 彼女の瞼が痙攣した。

 その瞬間が、脳裏の画像が鮮明になった。

 彼女は大きな吐息をつくと、深い眠りに落ちる。


 私の脳裏に、その女の画像が明確に焼き付いている。

 あの女だ。岩田総合研究所研究員、温室でコーヒーの木の改良をしている女。一重の涼しい眼差しの女。名前は山口。



 翌日午前九時、私は東部方面本部の会議室にいた。

 目の前のテーブルに、草薙参事官、安田課長、そして見知らぬ男たち三人がいる。私の後ろ、会議室の片隅に田崎多鶴子と狩原薫が椅子に座っている。


 見知らぬ四十台と思しき男が口火を切った。

「わたしが、あなたの後任の田淵です。佃課長の命令で赴任してきました。よろしくお願いします」

「よろしく、お願いします」

 私も返事を返した。


「戸田警視、こちらの方は、北部方面本部の草野警視と林警部補です。黒田美月の件で同席しています」

 私は無言で頷いた。


「戸田警視、黒田美月を発見したときの経緯を説明してください」

 田淵は眼鏡を指で押し上げながら私を見詰めた。私はこの田淵という人物を特殊事件捜査課で見たことがない。いったい何者なのだ。


 発見場所の修道院は、前から気になっていた場所でした。函館の乳児拉致殺人事件の調査のため、大沼を訪れたときに、あの修道院から赤ん坊の泣き声が聞こえたんです。今回、もう一度確認しておこうと思い訪れたところ、乳児を抱いた女が現れ、私にその子を差し出したんです」


「どうして、その子が、黒田五月と分かったのです」

「お守りの袋です。中に名前が記された木札が入っていました」

「一人で行きましたね。何故単独行動をとったのです」


 これでは査問会議だ。まるで私を犯罪者扱いしている。私は額に手をやった。

「ご承知の通り、私は佃課長から任務を解かれています。したがって組織的行動を意識的に避けたのです」


「拉致した犯人は、あの女だと思いますか」

 北部方面本部の草野警視が尋ねた。

「分かりません。彼女から聞くしかないでしょう」

「何故、函館にいたと思いますか」

「分かりません」


 沈黙の後、田淵が尋ねた。

「あなたは、岩田総合研究所の関与を主張されているようですが、これもその仕業だと思われますか」

「関係ないと思います」

「何故です?」

「感です」


 田淵が草薙と顔を見合わせた。

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