第五章

43 軽井沢遷延性患者病棟 アルハモアナの提案



 病院施設の前庭にある駐車場にタクシーは止まった。軽井沢駅前からタクシーに乗り、北軽井沢にあるこの目的の病院までやってきたのだ。平屋の細長い木造の建築物だった。

 タクシーを降り、腕時計を見る。時刻は午後一時二十分。

「ブルース、行くよ」

 私はブルースに声をかける。

 

 前庭を横切り、施設に向かって歩いて行く。施設の玄関の上には、「軽井沢遷延性患者病棟」と記されていた。

 風防室から施設内に入る。右手に受付があり、その奥にナースステーションが見えた。施設内を見渡したが、人の姿はなかった。静寂に覆われている。


 受付の前に立ち、呼び鈴を押した。

 若草色のマルチジャケットに白いイージーパンツを穿いた若い看護師が現れた。

「今日は」

 私はそう挨拶して、警察手帳を見せた。

「先ほど問い合わせた、警察庁の戸田です」


「お手数ですが、面会申込書に必要事項をお書き下さい」

 看護師は手続きの用紙を私の前に置いた。

 わたしは必要事項を書き込む。面会者名、所属、住所。患者名には、仮称草野緑子、病室番号は17号室、と看護師から示された通り記載する。

 看護師から渡された面会許可票を首にかける。


 私は看護師の後に続いて歩いて行く。

 廊下をまっすぐに進み、左側の17号室に入った。病室は二つにパーテーションで仕切られていた。右側のスペースのベッドは空だった。仮称草川緑子は、左のスペースのベッドに横たわっていた。その痩せこけた老女は、微かな寝息をたて、眠っている。


「状態は安定しているのですか」

 私は看護師に尋ねた。看護師はただ、はい、と答えた。

「この患者さんに、心当たりがあるのですか」

 草川を見下ろしている私に、看護師が訊いた。

「私の、母なのかも、しれないのです」


 看護師が去った後、私はベッドの脇の椅子に座り、まじかに患者の顔を見た。左手を両手で握りしめる。何故か、涙が溢れてくる。


 おまえは、マヨ、か?

 

 頭の中で女の声がした。

 

 あなたは、アルハモアナ、か……。

 私は問い返す。

 

 そうだ。ムフタールも一緒か。


 私の足元でブルースが見上げている。

 

 おまえは、トダマヨだな。

 アルハモアナは再び確認した。

 

 そうだ。

 

 わたしは、アルハモアナ。ずっと、おまえを待っていた。

 

 この人は、わたしの母、遠見藍子か?

 

 そうだ。二十九年間、わたしは、この女の体の中にいる。ここから出られないのだ。死神が待ち受けているのでな。

 

 母は生きているのか?

 

 生きている。わたしが、活力を与えている。

 

 あなたが、母から出ると、母は死んでしまうのか?

 

 死にはしない。だが、目覚めるには、死神の力が必要だ。


 わたしを、何故待っていた?

 

 あの夜、遠見藍子は、わたしにおまえを託した。遠見藍子には興味はなかった。わたしは、おまえに寄生したかったんだ。おまえの体はわたしに相応しい。ところが、おまえは男だった。男には寄生できないのだ。それで、おまえを女に変えることにした。しかし、それには、時間がかかる。死神の手先が、迫っていた。とりあえず、この女の中に逃げ込むことにしたのだ。


 私は立ちあがって、母遠見藍子を見下ろした。静かに眠っている。


 マヨよ、おまえに提案がある。

 

 何だ?

 

 おまえの体に寄生したい。この女の唇の中に、おまえの血を一滴垂らすだけでいい。それで、おまえの母親は、おまえの元に帰ることができる。


 私はどうなるのだ?

 

 おまえの体と心は、わたしと、半々で、分かち合うことになる。


 一つ、訊きたいことがある。

 

 何だ?

 

 鉄の斧を持てば、死神から逃れることができる、というのは本当か?

 

 本当だ。鉄の斧を持っているのか?

 

 今はない。持ってきたら、母から出ていってくれるか?

 

 それは、できない。鉄の斧を持っていても、死神との永遠の戦いが続くだけだ。わたしは、おまえの体が欲しいのだ。若々しく、逞しい、体を。


 私は深い吐息をついた。そして窓の外、落葉松の林に視線を向ける。

 わたしに、時間をくれないか、考える時間を。それに、片付けておかねばならぬ仕事がある。

 

 いいだろう。もう、三十年近くも待ったのだから。


 ブルース、帰るよ。

 

 その犬は、わたしの飼い犬ムフタールだ。ここに置いていけ。

 

 それは、できない。ブルースの体は北海道のわたしの家にある。おまえの写真も、わたしが持っている。ブルースの生霊は、ここに留まれないのだ。


 私は廊下に出た。少し歩いて振り返った。

 ブルースが付いくる。

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