41 薔薇の香りと篠原さやかの悪夢
透明なビニール袋に入ったスーツを二着、竹下莉南がテーブルに置いた。
私は手袋を嵌めると、上にあったビニール袋のチャックを開け、紺色のスーツを取り出した、竹下のスーツである。
顔の前にスーツを広げる。前襟に白い粉が微かに付着しているのが見える。鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。薔薇の香りがする。
「この粉、化粧品?」
私は竹下に尋ねた。
「アルミニウム・ジルコニウムを粉末状にしたもの。制汗剤らしいです。毒性があり、日本製ではりません」
「この、匂いは、薔薇の香り?」
「シングルフローラルです。バラの香りをモチーフにして作られた香料です」
私はその香りを記憶に留めた。この香料には、襲撃者の汗が滲んでいる。独特な香りだ。今井のチャコールグレイのスーツに付着している成分も、竹下のスーツと同一のものだった。
「莉南、あなたのスーツ、借りるよ」
「はい」
竹下は不審げに頷いた。
「ブルースに、匂いを嗅がせておきたいんだ」
「ブルースに?」
「そう、訳は後で説明する」
「分かりました」
「それから、ラム肉を売っている店、知っている?」
「はい」
「そうだな、とりあえず、二キロほど買ってきてくれるかな。後で清算するから」
「分かりました。今夜は肉料理ですか」
「ブルースに食わせるんだ。私たちではない」
「ブルース……、って、何?」
「それも、後で、説明する」
竹下と別れた私は、狩原と共に東部方面本部の庁舎を出、付属病院に向かった。担当医から相談があるという知らせがスマホに入っていたのだ。
事前に連絡していたので、担当医が病院の玄関で待っていた。私と狩原は篠原さやかの病室に案内される。
篠原は眠っていた。点滴棒からチュウブが伸びて、彼女の腕に伸びている。頭部にネットを被せ電極を配置している。バイタルモニター下の壁面に、新たに脳波計が設置されている。波形が流れている。
「篠原さんの状態は改善の兆候がありません。このままですと、遷延性意識障害とみなすしか、方法がなくなるかもしれません」
「遷延性意識障害……」
私はその言葉を繰り返した。重度の昏睡状態、植物状態……。
「回復の可能性は、あるんですか」
「回復の事例は、複数あります。彼女は若いですから、回復の可能性はあります。ただ、ここでは、十分な治療ができませんので、遷延性治療病院に転院し、専門的な治療を受ける必要があります」
私は頷いて、担当医の次の言葉を待った。相談したいこととは、何だろうか。
「この前、戸田さんが見えられたとき、篠原さんが異常反応を示しました。その時のことを、話していただきたい、と思いまして」
私は言葉を捜した。この担当医に私の特殊能力を話しても理解してもらえるだろうか。
「彼女の手を握り、心の中で祈っただけです」
「何を祈ったのですか」
何も祈ってはいない。ただ、彼女の意識を手繰りよせたかっただけだ。
「意識の回復を……」
私はとりあえずそう答えた。
「うん……、もう一度、同じことをしていただけますか。脳波をみてみたいのです」
私は頷くと、枕元の椅子に座り、彼女の右手を両手で握った。
目を閉じ、そっと心を澄ます。
脳波の揺らぎが、私の指に伝わってくる。私は呼吸を整えて、その波を手繰り寄せる。
「あなたは、誰なの」
彼女が私の脳に語りかけた。この前とは違って、彼女の言葉は落ち着いている。
「わたしは、あなたから頼まれて、あなたの娘、陽菜を預かった者」
「陽菜は無事なのね」
「それが……」
私は口籠る。
「どうしたの、何があったの」
「あなたを襲った人物は、何者? 何があったの」
「陽菜は、どうしているの、陽菜は」
「陽菜は、その人物に奪われた……」
篠原は沈黙した。
私は担当医を見上げた。
彼は脳波計を見ながら、続けて、と言う。
私は篠原の脳に語りかける。
「あなた夫婦を襲ったのは、何者」
「夫の取引先の人物……」
担当医が私の肩に手を当てた。
バイタルモニターを見上げる。血圧が二百を超え、脈拍が百五十になっている。私は彼女の右手を離した。
「彼女は、悪夢を見ている……」
担当医は呟いた。
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