40 真夜中にブルースは目覚める
テラスの椅子に腰を落とし、私は前庭を眺めていた。
腕時計を見る。十時九分。十時を回っている。目の前に、グレイの毛布をかけられたガラスの棺が置かれてある。
黒田雄一は管理人花田の運転で、八時半ごろ新千歳空港に向かっていた。
今は山荘にいるのは私と夫人の二人だけだ。
夫人がテーブルにコーヒーカップを置いた。
「遅いですね。連絡がありました?」
いいえ、と答えて、私は時計を見た。十時三十二分。約束の時間から三十分が過ぎている。狩原のことだ。あまり時間のことは気にしていないのだろう。
「この犬の名前のことですが、どうしてブルースと名付けたのですか」
「はい」
夫人は微笑んだ。
「ブルースが、初めてこの山荘に来たとき、DVDプレイヤーから、ブルースの曲が流れていたそうです。奥さまが、そう申されておりました」
「悦子さんが、ブルースと初めて会ったのは、ずっと前のことですね」
「はい。二度目に会った時、奥さまは、すぐ、あの時の犬だとわかったそうです。なにしろ、命の恩人ですから。恩人というのは、おかしいですけど……」
夫人は楽しそうに笑った。
エンジン音がして、前庭に黒のワゴン車が現れた。
運転しているのは、竹下莉南だ。目の間で止まると、助手席から狩原薫が降りてきた。
「マヨ、御免。遅くなった」
彼女はわざと目を見開いて私を見詰め、頭を上げた。そして、笑顔で私を見詰める。竹下も降りてきた。
「皆さん、お疲れさまでした。どうぞお座りください」
夫人が二人に声をかける。
狩原は私の隣に腰かけると、にやりと笑って、私の耳に囁いた。マヨのスマホ、バッテリー切れだよ。
私も思わず笑みを零した。
「これ、犬の棺ですか」
竹下が毛布で覆われた棺を見下ろして訊いた。私は頷く。
「見て、いい?」
「うん」
竹下は屈みこみ、毛布の端を引き上げた。
ブルースは硝子ケースの中で、うずくまっている。当然なことだが、石窟の中にあった時と何も変わっていなかった。
「車に運んで、冷房を効かせて。それから、紐で毛布を包んで、中が見えないように」
竹下がワゴン車の後部ドアを引き上げた。狩原と竹下が二人がかりで棺を持ち上げ、ワゴン車の荷台に運び込む。
夫人がコーヒーカップ二つをトレイに載せて持ってきた。
「どうぞ、お二人さん、コーヒーを召し上がれ」
私の住まい、佐呂間の洋館に着いたのは、陽がやや西に傾いた頃だった。
一階の工事が続いている。
洋館に入り、目の前にいた若い職人に、私は荷物を二階に上げてほしいと頼み込む。そして、荷物の大きさを両手を使って示した。
その職人は、もう一人の職人を誘って、外に出て行く。
ワゴン車荷台にある毛布で覆われた荷物を、狩原が手で示した。
「気をつけて、ガラスケースなの。中に剥製が入っている」
私は彼らの後ろから声をかけた。
夕食後、私はブルースの体を隅々まで調べた。
茂尻山荘の花村夫人は、ブルースは心臓麻痺で死んだと言っていた。検死したのだろうが、メスの痕跡がない。おそらく超音波か核磁気共鳴か、画像診断をしたのだろう。
田崎多鶴子も狩原も、科捜研での精密検査をするようにと、私に勧める。二人とも、気味が悪いから外に出したほうがいい、という。
私にはどうしてもブルースが死んでいるとは思えなかった。もし、ブルースと意思の疎通ができれば、二十九年前に起きた謎の糸口を見つけることができるかもしれないのだ。
私は一週間ここにブルースを置いておくと言い張り、二人を納得させた。
その夜、ブルースの棺を、私はベッドの横に置いた。そして、心の中で話かける。ブルースよ、目覚めておくれ、と。
真夜中、私は狼の遠吠えで目覚めた。遠吠えは、耳から聞こえているわけではない。頭の中で木霊していたのだ。
私はベッドの上から、ガラスの棺を見下ろした。
ブルースに変化はなかった。変わりなくうずくまっている。
ブルース……。
私は心の中で囁きかけた。
ブルース、生きているなら、目覚めておくれ。
耳が微かに動いたように見えた。
ブルーよ、目覚めよ。アルハモアナのために、目覚めよ。
ブルースの瞼が痙攣した。
ブルースよ、アルハモアナのために、目覚めよ。
おまえは、何者だ……。
突然、低い呻き声が頭の中で広がった。
私は、棺の中で、アルハモアナに抱かれた者だ。
ブルースの両眼が微かに開き、赤い光が零れ落ちた。
私は問いかける。
おまえの主は、アルハモアナか?
そうだ……。
私に、何かできることがあるか?
水と肉をくれ。
私は枕元の水差しからコップに水を注ぎ、ブルースの口の中に水を垂らした。
肉は何がいい?
子羊の、肉を……。
それは、次の夜になる。
ブルースは大きな吐息をつくと、目を閉じた。
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