24 黄泉の国より来たりし者 廃墟の修道院


  

「マヨさん、血液の検査機関は佐呂間の事件と同じですね」

 竹下莉南が大沼事件の調書を見ながら言った。

 私はコーヒーを飲む手を休めて、佐呂間事件の調書を見た。確かに二つの事件の検査機関は同一だった。株式会社エス・エマ・エル、所在地は函館市内。検査責任者は海老原正志と記されている。


 私たち三人は、大沼湖畔のカフェデッキでコーヒーを飲んでいた。長旅で疲れていたので息抜きをしていたのだ。

 

 調書を見る限り、大沼事件の捜査は進展がなく、完全に行き詰っている。突破口を捜していた私にとって、竹下の指摘は仄かな灯りであった。佐呂間と大沼の事件は明らかに類似事件である。いや同一犯人の同一事件の可能性が高いと言えるだろう。犯人は人を殺すことをなんとも思っていない。冷酷無比の殺人鬼である。


 微かに、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 私は周囲を見回した。赤ん坊の姿は見当たらない。

 私は耳を澄ました。


 これは耳から聞こえてくる音ではない。私の脳に直接忍び込んでくる泣き声だ。音の所在地は遠い。かなり遠い。私は立ち上がり周囲の風景を見回した。

「薫姉さん、地図を出して」

 私は沼を越えた北東の空を眺めながら狩原薫に言った。


 彼女は無言で地図を差し出した。こんなことは、過去に何度もあった。だから彼女の反応は淡々としている。

 地図を広げ、私は大沼の彼方、駒ヶ岳の空に視線を送った。なだらかに広がる山麓地帯、その何処からか、赤ん坊の泣き声が伝わってくる。


「赤ん坊が泣いている……。あの、駒ヶ岳の空の下から」

 狩原が立ち上がった。

「行きますか」

「うん」

 私は頷いた。


 タクシーを呼び、私たちは国道5号線を北上する。

 途中、私は駒ヶ岳駅でタクシーを止めた。タクシーから降り、駒ヶ岳の方角に意識を集中する。鳴き声の出どころはかなり近くなっている。その方角は駒ヶ岳の北側の森の奥だ。その地点まで、およそ三キロ。


 私は初老の運転手に地図を見せ、その地点を示し、そこに行く道はあるか尋ねた。途中までなら、と運転手は答える。二キロほど林道を走り、車は止まった。私たちは車を降りた。

「ここから、タクシーを呼べますか」

 狩原が運転手に尋ねた。運転手は彼女に名刺を渡し、三十分以内に車が来ます、と答えた。


 私たちは、熊笹に覆われた林道をさらに北に向かった。

 黙々と二十分ほど歩く。

 熊笹の道から、開けた雑草地に出た。

 廃屋の平屋の建築物があった。三角の塔には十字架が掛かっている。


 もう赤ん坊の泣き声は聞こえなかった。だがその残像が、今もこの家から漂ってくる。

 狩原が歩いて行って、玄関前の立て看板を持ち上げた。そこには、文字が書かれているが、修道という文字しか判別できなかった。

「マヨさん、修道院ですね」

 私は頷いた。


「マヨさん、私にも、分かるように説明してください」

 竹下が我慢の限界を越えたのか、強い口調で言った。

「この修道院から、赤ん坊の泣き声が聞こえたのよ」

 狩原が答えた。

「何も、聞こえなかった……」

 竹原は不満げに呟いた。

 

 私はショルダーバックから警棒を出し、振って伸ばした。ゆっくりとした足取りで、修道院の玄関に近づく。狩原が私の行く先を遮って、玄関ドアの前に立った。ドアノブを掴んで引く。

 彼女が先に体を建物の中に滑り込ませた。

 私は中を覗き込む。ステンドグラスの窓から陽の光が差し込んでいる。


 その光の中に女がいた。木椅子に座り、赤ん坊に授乳している。

 私たちの気配に驚いて、彼女は赤ん坊を抱いたまま立ち上がった。

「私たちは、通りすがりの者です。赤ん坊の泣き声が聞こえたので、様子を見にきたのです」

 私は淡々と説明した。

 女はわたしを見詰めたまま、小さく頷いた。

「その子は、あなたの子?」

 女は赤ん坊を強く抱きしめて後ずさりする。


「どうして、ここで、授乳しているの」

 竹下が大声を出した。

 女は赤ん坊をさらに強く抱きしめて後ずさりする。


 私は竹下の肩を抑えた。

「その子の名前は何というの」

 女は首を何度も横に振った。

 竹下は女に近づき、赤ん坊を奪い取ろうとした。女と竹下の揉み合いが始まる。


 女の両眼が赤く燃え上がった。そして顔を仰け反らした。

 その背後から、黒い影が立ち上がってくる。そしてその影が徐々に輪郭を現していく。黒マントに暗く深いフード、長い脚、大きなブーツ。茂尻山荘、そして洋館で見た、あの異形の存在。


「逃げてっ」

 私は叫んだ。

 振り返ると、狩原も竹下も硬直して直立している。二人とも、目を見開いているものの、意識を失っているようだ。


「お前は、何者だっ」

 私は警棒を構えて叫んだ」


「わたしは、黄泉の国からきた、使いの者だ」

 地鳴りのような声が修道院に響き渡った。

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