18 この山荘には、得体の知れない何かが棲んでいる



 朝食を済ませて、私たち三人はテーブルを囲んで地図を眺めた。

 山荘の北東二キロの地点にイルムケップ山がある。西側一キロ地点には、小さなダム湖があり、さらにその西にはエルム森林公園があった。

 地図で見る限り、芦別国道からエルム森林公園に向かう道のほうが道路事情は良さそうだ。私はスマホで地図の写真を撮った。


 竹下莉南が花村夫人を呼んできた。

「ここから、ダム湖に抜ける道はありますか」

 私は夫人に尋ねた。

「あります。山道ですが」


 道路を使ってここから芦別国道に出るには、私たちが通ってきた道を行くか、ダム湖に出て。森林公園から南下する道を行くかの、どちらかだろう。


 警察調書によると、拉致された乳児の名は黒田美月。両親の名は黒田雄一四十八歳、真知三十五歳である。管理人は花村正七十二歳、妻悦子七十歳。花村正は黒田家の執事をしていたとある。


「今回の美月ちゃん拉致事件に関して、確認したいことと、お尋ねしたいことがありますが、よろしいですか」

「わたしにお答えできることでしたら」

「美月ちゃんのご両親ですが、黒田雄一さんと、真知さんですね」

「はい」

「東京で不動産会社を経営されているそうですね」

「はい」

「拉致事件があったのは、昨年の八月七日ですね」

「そうです」

「そのとき、ここにいたのは、ご夫妻、美月ちゃん、それからあなたがた、お二人ですね」

「いいえ、ご主人さまは、仕事の関係で来られていませんでした。奥様と美月ちゃんのお二人で来られていたのです」


「それでは、事件が起きたときの状況を教えてください」

「午後二時を過ぎていたころだと思います。奥様はテラスで揺り篭の美月ちゃんをあやしておられました。そして、台所にいた私の所に、飲み物を取に来られたのです。そして戻られていきました。すぐお嬢様の悲鳴が聞こえました。わたしはすぐ駆け付けました。美月ちゃんが、揺り篭から消えていたのです。ほんの二、三分の間の出来事でした」


 私はリビングルームから続くテラスに視線を送った。

「その時、何か、変わったことはありませんでしたか」

「奥様が可愛がっていたブルースが死んでいました」

「ブルース……」

「狼犬です」

「狼犬、珍しいですね」

「人に懐いていましたので、どなたか飼われていたのでしょう。ここはヒグマが出ますので、餌を与えていたら、いつの間にか棲みついてしまったんです」


「それで、どうされました」

「わたしは、すぐ警察に電話しました。奥様と私は家の中を、主人は外を捜しました。でも、痕跡は何一つ見つかりませんでした。主人は西の山道をダム湖に向かいました。奥様は車でペンケキプシュナイ川沿いの道を捜しに行かれました」


 わたしは立ち上がるとテラスに出た。

「ブルースの死因は、何でしたか」

「外傷もなく、解剖の結果、心臓麻痺ということでした」

 確かに野生動物が襲ったなら、犬が外傷もなく死ぬことはないだろう。


 警察の捜査行動は詳細に記録されている。

 花村夫人からの一報を受けて、警察署は直ちに近隣の道路を封鎖し、検問を行っている。山荘周辺の山狩りを綿密に行っている。

 記録では手懸りは何一つ残っていなかった。

 美月は忽然と消えてしまったのだ。


「花村さん、家の中を案内していただけますか」

 私が尋ねると、彼女はどうぞ、と言って玄関ホールに向かった。玄関ホールの東側には。南側と北側にドアがあった。

「こちらが、私どもの管理人室です。そして北側は納戸になっています」

「管理人室、見せていただけますか」

 夫人は頷くと、ドアを開けた。

 十六畳ほどの洋室だった。シングルベッドが二つ並んでいる。木製の机と椅子、小さな丸テーブルと椅子があった。東側の壁面には鎧戸のクローゼット、木製の棚には本や飾り物が並べられている。

 

 夫人は納戸のドアを開き、照明を点けた。納戸としては、かなり広い。衣類はなく、生活雑貨の類が、整然と並んだ棚に収まっている。


 夫人は私たちの表情を窺うと、小さく頷いて玄関ホールから二階に上がる階段を上がっていく。

 二階に上がると、東側に小さなホールがあり、両開きの扉があった。夫人はその扉を開いて言った。

「ご主人さまの主寝室です」

「中に入っても、よろしいですか」

「どうぞ」


 二十畳ほどあるだろうか。真ん中にダブルベッドがある。扉側には飾り棚があり、人形などの小物が整然と並べられている。ベッドの脇には、小さなベビーサークルがあった。反対側の壁面には、鎧戸のクローゼットが全面を覆っている。


 廊下に出ると、夫人は西側の廊下を歩いて行く。

 ドアが四つ並んでいる。

「ゲストルームです。四室あります」

 夫人は二番目のドアを開けた。

「四室とも、同じ作りです」

 私は部屋の中に入った。シングルベッドと木造りの机と椅子があり、壁面には三十インチの壁かけテレビが取り付けられている。


 私たちは玄関ホールに下りた。

 夫人はリビングルームを横切り、北面のガラス張りのドアを開いた。

「キッチンと食堂です」

 なるほど、事件当日の発生時刻に黒田真知は、このキッチンに飲み物を取りに来たのだ。要した時間は長くて二、三分だろう。もし、飲み物を取りに来なかったらどうなっていただろう。そう思うと、私はぞっとした。私が遭遇した事件、篠原さやかと同じ状況になった可能性もある。


 夫人は南側のドアの前に立った。

「ご主人様の書斎です」彼女はそう言って笑みを浮かべた。

「鍵はご主人さまがお持ちになっていて、私どもは中に入ることを禁じられております」

「昨年の事件のときは、警察は調べましたか」

「はい。翌日になりましたが」


 私たちはリビングのテーブルの椅子に腰を下ろした。

 夫人はコーヒーを淹れてきて、テーブルに置いた。三人はばらばらに、有難うございますと礼を言う。


 狩原薫が夫人に尋ねた。

「花村さん、ここは別荘地帯ではありませんね。どうしてここに山荘を建てられたのですか」

「ここは、奥様の出身地なのです。この落葉樹の森がお好きで、心が癒されると申されておりました」

「年に何度も、来られるのですか」

「はい。春、夏、秋、冬と、一週間ほど滞在されて、四季を楽しまれておりました」

「ご主人も一緒に来られるのですか」

「ご主人さまは、夏だけ来られます。あと、奥様はご友人の方をお連れになることもあります」


 コーヒーを飲み終えて、私たちはダム湖に散策に行くことにした。

 花村正が戻って来る迄時間があったからだ。

 熊笹の道を行き、三時間ほどして帰ってきた。仮に拉致犯がこの道を行き、芦別国道に出たとしても、警察の検問を通るのは不可能に思えた。


「まことに申し訳ありません。主人から連絡がありまして、今日は戻れないとのことです」

 私たちは顔を見合わせた。

「出直しますか」

 狩原が言った。そうするしかあるまい。私も頷く。

「もしよろしければ、お泊りになりますか」夫人は笑顔を見せて言った。

「用意はできております」

 

 私たちは再び顔を見合わせた。

「ぜひ、お泊りください。美月ちゃんを救い出してくださる警察の方への、せめてもの心づくしです」


 私たちは、その夜、この山荘に泊まることになった。

 食事を終えて、私たちは割り当てられたゲストルームに引き籠った。三人ともバイクの長旅で疲れていたのだ。私は風呂に入り、ベッドに潜り込んだ。すぐ睡魔に襲われた。


 息苦しくなって目覚めた。

 大きな足が私の胸を押しつぶしている。息ができない。私は見上げた。長い脚、分厚い胸、見下ろしている頭部。黒い大きなブーツ、ダブダブの黒いズボンを、翻る黒いマント、深く顔を覆う黒のフード。フードの中の顔を探ったが、暗くて見えない。

 私は苦しさに堪えきれなくなって悲鳴を上げた。


 私は目覚めた。

 大きな深呼吸をしていた。

 起き上がり、窓辺に行き、カーテンから外を覗く。

 満月に照らされた前庭と落葉樹の森が見えた。


 私は呟いた

 この山荘には、得体の知れない何かが棲んでいる……。

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